参詣道を進んで総門に至りました。江戸期再建の建物で、現在の慈照寺境内地の山門にあたりますが、足利義政の東山山荘および慈照寺創建時の総門の位置を踏襲しているかは疑問です。まだこの辺りは発掘調査が及んでいないため、中世期境内の推定復原図ではやや西側に表門が置かれています。
一般的には、総門から右に続く銀閣垣とあわせて防御の役目も果たした施設である、と解釈されていますが、銀閣寺垣自体が室町期から存在したかどうかも分かっていません。境内復原の問題と絡めて今なお不明の部分が多いと受け止めておくべきでしょう。
拝観受付にて拝観案内とともにいただいた守護符です。北山鹿苑寺でも同じような守護符をいただきますから、同じ相国寺の境外塔頭同士、基本的な拝観応対の決まりごとが共通しているのでしょう。
目隠し塀の一種ともされる銀閣寺垣を抜けると、平成16年に再建された中門を経て庫裏の前庭の横に出ます。
庫裏の前庭はいわゆる石庭で、景石を島に見立てて紋を綺麗に並べ、静かなる凪の海原を表しています。
庫裏です。東に隣接する方丈とともに、江戸期の寛永年間(1624~1645)に但馬清富藩主の宮城主膳正豊嗣によって再建されていますが、慈照寺本来の建物とは別です。足利義政の時代にはここには東山山荘の常御所があったと推定されています。昭和61年の庫裏の解体新築にともなう発掘調査で幾つかの遺構が確認されています。
石庭の東には方丈に続く門が見えます。寺では「宝処関」と呼ばれています。
その「宝処関」に近づいてみました。唐破風をいただき格式の高さを示しています。勅使かそれに準ずる高位の人のみが出入りした門ですので、普段は開かずの門となっていて、相国寺住僧はもとより一般の人々の出入りも禁じられます。
なので、方丈への出入りはこちらの式台から行うことになります。庫裏と方丈の連接部に位置して、双方の玄関口を兼ねています。
石庭横の参道から南に視点を転ずれば、銀閣の通称で親しまれる観音殿が創建当初の結構をいまにとどめて建ちます。文明十四年(1482)より造営がはじまった足利義政の東山山荘の仏殿として設計され、長享三年(1489)には上棟がなされましたが、その翌年に義政は亡くなりましたので、彼が観音殿の竣成を見届けることは叶いませんでした。
観音殿の東には、境内地の中心的景観を形成する錦鏡池が水面をたたえています。もともとは東山山荘の庭園として造られたものですが、当時の面影はまったくありません。池自体の規模も足利義政の時代の四分の一ぐらいになっています。
現在の庭園は、江戸期の慶長二十年(1615)より幕府家臣の宮城丹波守豊盛が普請奉行となって大規模に修築したもので、作庭家の北村援琴が享保二十年(1735)に著した「築山庭造伝」の絵図によってその有様が詳述されています。現在の状況とほぼ一致していますから、いま私たちが拝観出来る慈照寺庭園は、江戸期の修築によるものであることが分かります。
つまり、室町期の慈照寺庭園とは全く異なります。足利義政が愛でた景観は完全に失われてしまっているわけで、とても残念なことですが、しかし、かつての状況を発掘調査などの成果から推定的にイメージすることは可能です。足利義政が最も好んだ西芳寺庭園の有り様が、ヒントのひとつになるからです。 (続く)