気分はガルパン、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

嵯峨野大覚寺の明智陣屋

2020年06月21日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 嵯峨野の大覚寺には、寺伝にて明智光秀の丹波亀山城からの移築、とされる建物群があります。寺では「明智陣屋」と称している上図の庫裏、本坊の建物群がそれにあたります。2019年9月17日の嵯峨野散策のおりに、立ち寄ってみました。
 時代劇のロケによく使われている建物ですので、見た事があるな、という方も少なくないでしょう。

 

 現在は拝観受付になっており、大覚寺の見学者は全て「明智陣屋」からの順路をたどって伽藍内を巡り、一巡して戻ってきて退出します。なので、「明智陣屋」の建築群は行きと帰りの二度見る形になります。

 上図の大きな切妻の建物は、庫裏にあたりますが、これは本来の寺の建物で、庫裏そのものだろうと思います。ですが、上図の両側の土蔵や番所の建物などは、寺院にはあまり見られないものですので、丹波亀山城からの移築であるかもしれません。

 

 さらに、庫裏に向かって右手に並ぶ建物が、いかにも陣屋建築の外観を見せます。内部も拝観コースになっているので全て見られますが、城郭の御殿の一般的なしつらえとなっています。

 ただし、時期的には江戸期の年代相を示していますので、丹波亀山城からの移築であるにしても、明智光秀の時代よりは後の建物だろうと推測します。そもそも明智光秀が活躍した戦国末期の陣屋建築自体の現存が確認されていませんから、大覚寺での移築伝承も、単なる伝承なのかもしれません。

 

 拝観受付への参道入り口にあたる上図の表門も「明智門」と呼ばれていますので、これも丹波亀山城からの移築であるとされています。
 寺院には珍しい城郭の門ですので、間違いなく丹波亀山城からの移築とみてよいかもしれません。ですが、明智光秀の時代に繋がるかというと、残念ながらそこまで遡らないでしょう。江戸期になってからの建物だろうと思います。

 拝観受付にて、これら「明智陣屋」の詳細を訊ねましたが、資料も無いとの事でした。本格的な調査をやっていないので、とりあえずは寺伝をそのまま紹介している程度、ということでした。移築の時期すらも不明でした。

 丹波亀山城は、江戸期には形原松平氏の居城として幕末まで続き、明治以降に陸軍省の所轄となって廃城までに建物の一部が払い下げられています。その際の移築とされる建物が亀岡市各地に現存しており、御殿玄関部分1棟、城門5棟を数えます。大覚寺の「明智陣屋」もその一部とみてよいのでしょうが、移築に関わる記録が出てこない限り、推測の域を出ないと思います。

 


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 知波単学園 特二式内火艇カ... | トップ | 知波単学園 特二式内火艇カ... »
最新の画像もっと見る

洛中洛外聖地巡礼記」カテゴリの最新記事