古くからこのブログを覗いて下さっている方ならば薄々感じておられたとは思うが、此処では「死」に関する話を取り上げる事が少なくない。学生時代に父親を病気で亡くし、その前後には祖父母を見送った体験から、死というものをより身近に感じているのが大きく影響しているのだが、今日も死に纏る2つの話を取り上げてみたい。
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① 安楽死
富山県の射水市民病院に勤務する外科部長(50歳)が、2000年から昨年迄の間に患者7人を安楽死させていたのではないかという疑惑が浮上している。7人は富山県在住の50~90代で、何れも末期状態に在ったという。
家族及び当該患者の同意が在ったか否かに付いては、現状ハッキリしない部分が在る。又、この外科部長が採った処置が、積極的若しくは消極的だったのかによって、安楽死なのか尊厳死なのか、はたまた延命の中止なのかというのは判断の分かれる所では在るだろう。
より具体的な状況が明らかにならないと、今回の件に付いて明言は出来ないのだが、個人的には「身内又は自分が、人間らしく生きられずに唯単に生き長らえさせているだけならば、安楽死にせよ尊厳死にせよ、医師の手によって生を終えさせて貰いたい。」と考えている。これは、以前書いた「安楽死」という記事でも触れた様に、末期癌で長期間”生かされ”続け、苦しみぬいた末に亡くなった祖母の姿がどうしても頭から離れないからだ。
勿論、筋弛緩剤を用いて担当患者を快楽殺害したのではないか?という事件も起きている事から、医師及び医療担当者のモラルと患者側の意思が重要なのは言う迄も無いが。
② 直葬
昨日の東京新聞に載っていたのだが、近年、遺体を火葬するだけで、通夜・告別式等の儀式をしない葬儀スタイルが広がっているそうだ。死亡した病院や自宅から、直接火葬場へ向かう事から「直葬」とも呼ばれるスタイルで、以前は身寄りの無い人が亡くなった際等に行われていたのが、近年では家族が居ても、又は経済的にゆとりが在っても希望する人が増えており、何でも東京では3割以上が直葬とか。この場合、火葬場で簡単な御別れをしたり、住職に読経して貰う程度で済ませている様だ。
そもそも葬儀を行う法的な義務は無いので、「亡くなった場所からの搬送。→納棺。→安置。→死亡診断書の提出と火葬埋葬許可書の取得。→火葬。」という最小限必要な事だけを行うのが直葬スタイル。一般的に葬儀に掛かる費用は全国平均で236万6千円で在るのに対して、直葬の場合は30万円程で済むという。
従来の仏式葬儀を見直した、所謂葬儀の簡素化&個人化が進んでいる背景には、「葬儀費用が不明朗。」、「宗教色を無くしたい。」、「義理で来て貰うのでは無く、親しい人に送って欲しい。」、「自分らしい葬儀をしたい。」等の理由が在るそうで、加えて、高齢社会の現実として、葬式に人が集まらなくなっているという事情も在るのだとか。例えば80歳にもなると、子供に呼び寄せられて都会に住んだり、老人ホーム等に入ったりで、それ迄に構築して来た同年代の知人との関係が疎遠となり、又、仕事関係で訪れる人も殆ど居なくなってしまう現実が在ると。
葬儀の簡素化には、安楽死と同様に「人間(又は死者)に対する冒瀆だ。」という声も在ろう。でも、自分の場合は直葬を選びたい。己が葬儀に無駄に金を使わせたく無いという思いも在るが、一番強いのは義理で来て貰うのでは無く、親しい人にだけ見送って貰いたいという思い。
これからは直葬スタイルが、ドンドン増えて行くのではないだろうか。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/pen.gif)
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① 安楽死
富山県の射水市民病院に勤務する外科部長(50歳)が、2000年から昨年迄の間に患者7人を安楽死させていたのではないかという疑惑が浮上している。7人は富山県在住の50~90代で、何れも末期状態に在ったという。
家族及び当該患者の同意が在ったか否かに付いては、現状ハッキリしない部分が在る。又、この外科部長が採った処置が、積極的若しくは消極的だったのかによって、安楽死なのか尊厳死なのか、はたまた延命の中止なのかというのは判断の分かれる所では在るだろう。
より具体的な状況が明らかにならないと、今回の件に付いて明言は出来ないのだが、個人的には「身内又は自分が、人間らしく生きられずに唯単に生き長らえさせているだけならば、安楽死にせよ尊厳死にせよ、医師の手によって生を終えさせて貰いたい。」と考えている。これは、以前書いた「安楽死」という記事でも触れた様に、末期癌で長期間”生かされ”続け、苦しみぬいた末に亡くなった祖母の姿がどうしても頭から離れないからだ。
勿論、筋弛緩剤を用いて担当患者を快楽殺害したのではないか?という事件も起きている事から、医師及び医療担当者のモラルと患者側の意思が重要なのは言う迄も無いが。
② 直葬
昨日の東京新聞に載っていたのだが、近年、遺体を火葬するだけで、通夜・告別式等の儀式をしない葬儀スタイルが広がっているそうだ。死亡した病院や自宅から、直接火葬場へ向かう事から「直葬」とも呼ばれるスタイルで、以前は身寄りの無い人が亡くなった際等に行われていたのが、近年では家族が居ても、又は経済的にゆとりが在っても希望する人が増えており、何でも東京では3割以上が直葬とか。この場合、火葬場で簡単な御別れをしたり、住職に読経して貰う程度で済ませている様だ。
そもそも葬儀を行う法的な義務は無いので、「亡くなった場所からの搬送。→納棺。→安置。→死亡診断書の提出と火葬埋葬許可書の取得。→火葬。」という最小限必要な事だけを行うのが直葬スタイル。一般的に葬儀に掛かる費用は全国平均で236万6千円で在るのに対して、直葬の場合は30万円程で済むという。
従来の仏式葬儀を見直した、所謂葬儀の簡素化&個人化が進んでいる背景には、「葬儀費用が不明朗。」、「宗教色を無くしたい。」、「義理で来て貰うのでは無く、親しい人に送って欲しい。」、「自分らしい葬儀をしたい。」等の理由が在るそうで、加えて、高齢社会の現実として、葬式に人が集まらなくなっているという事情も在るのだとか。例えば80歳にもなると、子供に呼び寄せられて都会に住んだり、老人ホーム等に入ったりで、それ迄に構築して来た同年代の知人との関係が疎遠となり、又、仕事関係で訪れる人も殆ど居なくなってしまう現実が在ると。
葬儀の簡素化には、安楽死と同様に「人間(又は死者)に対する冒瀆だ。」という声も在ろう。でも、自分の場合は直葬を選びたい。己が葬儀に無駄に金を使わせたく無いという思いも在るが、一番強いのは義理で来て貰うのでは無く、親しい人にだけ見送って貰いたいという思い。
これからは直葬スタイルが、ドンドン増えて行くのではないだろうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/pen.gif)
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直葬という言葉を初めて知りました。
まだまだご近所総出のお葬式もある土地柄。
少し驚きました。
また寄せていただきます。
よろしくお願いします。
これは何ともいえないですね。
本人の意思じゃないかもしれないし、周りの見た目(経過など)の判断でそうなるわけだから、本人にとっては結果的にどう思うんでしょうね・・・?
それは疑問ですね。
2:直葬
これは赤字で書いてあるとおり、お金じゃないですかね・・・?
俺は本当にその人を尊敬しているなら直葬はどうかなと思いますね(^^;。
仮に(・・・というかいつかは必ず来るんだけど)俺が去り行く立場だったら変な話、「今までありがとう!」とか「あの世で元気で行って来い!」とか笑顔で送ってほしいですよね。
まあ俺はあの世が存在していると思っているからでしょうがね(^^;。
誰だったかな、どこだかの元大統領が死去したとき、葬式は薄いピンク色に華やかに行ったと聞きました。
その話を聞いて、それはいいと思いましたね(^^)。
また、アフリカの某所だと、その人の仕事や趣味などをイメージしたカラフルな棺を使い、1週間くらいお祭り騒ぎのようにして送るというのもTVで見たことがあります。
もちろん、国、宗派、思想などによって違うと思いますが、少なくとも悲しく送られてもねぇ・・・と思いますね。
まあ死に方にもよりますがね。
俺は傍から見て変に思うかもしれないけど、人それぞれの考えがあるので肯定も否定もしませんが、俺だったらそうして欲しいかな・・・と思いますね(^^)。
ちょっと話がそれてしまいましたね・・・(^^;。
いつも有難うございます
大映ドラマ赤いシリーズの最高傑作、
「赤い激突」
私は大好きです!スカパーでの放送は全話録画してしまったのですが、やはり大谷家の母であり太陽だった大谷春子を演じた松尾嘉代さんのお芝居が素晴らしいものでした。
「パパと呼ばないで」
「徳川の女たち・第1部~華麗、春日局」
聖なる存在、俗なる存在、善人、悪人、どんな感情を表現させても比類ない演技をみせてくれる“数少ない本物”の女優さんです。
近年は主に講演活動をされていて、テレビや映画では御見掛けしなくなって淋しい限りです・・。
ラストでの僅かな出番でしたが、
「ニ百三高地」
での、皇后陛下役もとても印象的でした。
乃木希典の言葉に、ハンケチを瞼にあて、涙をおさえる姿、聖母のように美しかったです〆
鴎外の「高瀬舟」(http://964.jp/Z3In)も安楽死をテーマにした小説でしたね。学生時代、現代国語の授業で読みましたが、太宰の「人間失格」や中也の詩を読んだ後と同じ”重さ”を覚えた小説でした。
世の中がどれだけハイテク化して行っても、こういった「心の問題」というのは全く変らない、永遠の課題と言えるのかもしれませんね。
P.S. 自分の場合は、「高瀬舟」よりも別のTVドラマが頭に浮かびました。bp様は世代的に御存知無いかもしれませんが、今から30年程前にTBS系列で「赤い激突」(http://964.jp/Z3Io)というドラマが放送されていました。幸せだったバレエ一家を突如襲った不幸。最愛の妻で在り、母で在る女性(松尾嘉代さんが演じておられました。)が、頭を強打して遂には植物人間となってしまう。植物人間になる前に、彼女は愛する家族達に「機械的に生かされているだけなのは絶対に嫌。それに、愛する家族達にも迷惑を掛けたくないので、もし植物人間となってしまったら安楽死させて欲しい。」と依頼していました。そして、或る日彼女の生命維持装置が外され、彼女は亡くなってしまう。彼女を愛する誰かが為した苦悩の選択・・・。当時子供だった自分ですが、このテーマの重さはひしひしと心に伝わって来たものです。
自分も「正解というのは無いんじゃないかなあ。」と思いました。この手の問題は難しいですね。医師と家族側(若しくは患者)の意思が一致したとしても、世間では安楽死(尊厳死)を倫理的に絶対認められないとする人も居るだろうし・・・。
今回の事件の事を指している訳では在りませんが、例えば医師側が善意で、そして家族側(若しくは患者)もこれ以上”機械的に”生かされる事は嫌だとして、双方の意思が一致した上で安楽死を図ろうとする。でもそれが途中で露見して、医師側がバッシングされ、その事に恐れを為した家族側が「医師に頼んだ事は無かった。」と言い出す可能性も充分在り得る訳で(勿論、逆のケース、即ち医師サイドが家族側の意思を確認せずに勝手に安楽死を施す可能性も在り得ますが。)、双方を守る意味でも”より”きちんとしたシステム作りが必要かと思います。
これからも宜しく御願い致します。
「尊厳死と安楽死。ふたつの違いがわかりますか?」という記事です。
問題は、状況を設定し、もしあなたが医師だとしたら、どんな行動をとるかを問います。
回答の選択肢が5つあります。
答えは→ http://q-q.at.webry.info/200603/article_94.html
他にも500問ほどのクイズがあります。退屈で死にそうな折りにどうぞ。
(ご迷惑でしたら、お手数ですがコメント、TBの削除をお願いします)
御詫びなんてとんでもないですよ。前にも書いた事が在るのですが、当ブログはどんな意見でも、其処に書かれた方の”論”が在ればウエルカムです。そもそも、当ブログで扱うテーマは、その殆どが正誤を問うものではなく、広く御意見を伺いたいとするもの。勿論、誹謗中傷だけというのはバッサリ削除させて戴きますが、メサドン様の御意見がそれに”全く”当該しないのは言う迄も在りません。
自分はそもそも偏った考え方をする人間ですし、エキセントリックな部分は持ち合わせていると自覚しています(笑)。でも、常に気を付けているのは、メサドン様が書かれた「相手の立場&思想を頭ごなしに否定するのではなく、尊重した上で議論を深めて行く。」という事。何処ぞの首相の様に、「それがどうした!何が悪い!」という議論する余地をも与えない姿勢ではいかんでしょうね^^。
言葉って難しいですね。さいぎょうほうし様も、喧嘩を吹っ掛けようと思って書かれた訳では決して無いと思っております。それは文体及び書かれている内容を詳細に見させて戴いてそう感じました。でも、「must」と取れる様な表現を使ってしまうと、「それは違うんじゃないの?」という気持ちが起こってしまうのは自分も含めた人間の性。この点は自戒したいと思っております。
これからも貴重な御意見を宜しく御願い致します。
で、「葬儀」と「告別式」の違いに付いてなのですが、国語学者の金田一春彦先生(http://964.jp/Z3I4)の様に優秀な頭脳を持っておりませんので正しい解釈かどうかは判りませんが、自分なりにさいぎょうほうし様の御考えを推察致しますと、恐らく葬儀という言葉には、「亡くなった者へ”心から”の哀悼の気持ちを示す儀式。」という意味合いを、そして告別式という言葉には「単なる世間体を考えたセレモニー。」という意味合いをさいぎょうほうし様は喩えておられるのではないかと考えます。
もしそうで在れば、「単なるセレモニーに過ぎないものは廃したい。」という自分の思いと重なる部分が在るのではないだろうかと勝手に思ったりしております。
私は常々思うのですが、相手には相手の立場・思想があり、それらを尊重しながら意見を交換する事こそお互いのスキル向上に繋がるものと考えます。
私も少々冷静さを欠き感情的になってしまったのかもしれません。
勿論色々な考えが有り、個々各々が大事に持っていて良いと考えます。
私の意見せんとする所は、葬儀・告別式の在り方云々では無く、相手の意見に対する受けとめ方に真摯さが見えず、納得出来なかったからです。
こういった文章のやり取りだけでは真に伝える事は難しいでしょう。
故に慎重に言葉を選び、ご苦労も多いかと思います。
私が貴ブログ毎日覗かせて頂いている理由も、言葉の選び方がとても慎重であるが故に、楽しく・安心して読む事が出来る為です。
少々幼稚な書き込みをしてしまった事をお詫び致します。
これからも楽しく拝読させて頂きます。
いつもコメントを有難うございます♪
皆さんのご意見、とても勉強になると同時に、やはり主題だけに、真摯に重く捉えていらっしゃいますね。
こんなに緊張しながらコメントを書いているのは初めてなのですが(汗・・)私はgiants-55さんの考え方に近い考えです。私なりの信仰心、宗教観もあるのですが、それはそれ、正しい正しくないという次元で黒白をつけられる事柄ではないように思います。
告別式も葬式も、故人の為でもあるでしょうが、やはり遺族や、生前に故人と親しかった方々の為である比重の方が重いと私個人は感じています。
さいぎょうほうしさんの仰るように「生死の間の何か」という曖昧だけれど、人がなおざりに出来ないそのような感情もあると感じます。
皆さんのコメントを読ませて頂いていて、
カミュの「異邦人」という作品を思い出してしまいました。
読んでいない方には申し訳ないのですが。
私がその作品から感じたことは、giants-55さんが仰ったように、「形式と内面」ということです。
簡単にこの作品を語り過ぎると誤解されますが、人の悲しみは外見からは読み取れないのではないでしょうか?
極端な例ですが、親の葬儀で涙を流さない子供は悪いでしょうか?参列者の方々に悲しみが伝わらない遺族は批判されるでしょうか?悲しみはその人その人によって違いますし、違って当たり前だと思います。
さいぎょうほうしさんの仰ることと少し違いますが、人の悲しみも他人が口を挟む筋合いのものではないと私は考えてます。
他の方へのレスでも書かせて戴いたのですが、「死」に纏わる事柄をどう思われるかに付いては、個々人の宗教観や死生観が大きく影響していると思います。そして、その考え方には余程の例外(この辺は5つ上の麗菜様へのレスで書かせて戴きましたが。)を除いては、その正誤を問われるべきものではないとも思っています。
さいぎょうほうし様としては、「生と死の間の”けじめ”」が必要ではないか?とされているのだと自分は解釈しました。勿論、そういう御考えも在って当然だと思いますし、それが多数派なのかもしれませんが、記事内でも触れました様に”法的に”葬式という儀式を行わなければならないという事ではないのも確かかと。その意味で、葬儀=mustとしてしまうのはどうかとも自分は考えます。
唯、さいぎょうほうし様も「葬儀」と「告別式」を分けて考えておられるんですよね。告別式は「生きている者が、自分達の世間的な体裁を整える為にするもの。」とし、それ故に告別式はさいぎょうほうし様も否定されていると読み取りました。
「葬儀=亡くなった者へ”心から”の哀悼の気持ちを示す儀式」という事で在れば、自分もこの考えは賛成です。でも、形式に捉われる必要は無いとも同時に思ってはいますが。
これからも宜しく御願い致します。
あと、バカを丸出しにする質問をしてよろしいでしょうか。
葬儀と告別式の違いがわかりません。
辞書で調べたのですが、いまいちわからないです。
あと、giants-55さんは伯父さまなんでしょうか。
(・∀・)
だったら麗菜もおばさんになっちゃいます。
本当にぁたしはいろんな意味でgiants-55さんに感謝してます。
知識を増やすのは生きるうえでのぁたしの財産になります。
また、記事とはずれたコメントすみません。
自分の考えはニュートラルなものでは無く、かなり偏ったものと自覚しています。ですので、時には誤った考え方も当然在るでしょう。一番大事なのは、麗菜様の様に積極的に”何か”に触れ、其処から自らの頭で”咀嚼”した上で己が知識として行く事だと思うんです。
どんな情報源にせよ、鵜呑みにする事無く、先ずは疑ってかかるという姿勢が、こういう御時世だからこそ必要ではないでしょうか?ですから、自分の記事も先ずは疑ってかかって読んで下さい(笑)。
初めてコメントさせて頂きますが、
どうしても気になりまして。
さいぎょうほうしさん。
どちらの葬儀屋さんでらっしゃいますか?
葬儀は必要と言い切りましたね?
生と死の間の‘何か’の為に?
理解不足なのか、意味が分かりませんし、貴方は死と云う事象の真理を把握した上での意見ですか?
はなはだ疑問です。
自分だけの認識を他人に押しつけ、柔軟に他人の意見も取り入れる事が出来ない方の様に見え、少々乱暴\に思えます。
長文になってしまいました。申\し訳ありません。
麗菜はやはりまだ、世間知らずというか偏った人生経験しかしてないのかもしれないです。
難しいです。最近は、仕事もしていないので本ばかり読んでいます。
宇宙の本から、密教につながり、頭のなかは知りたいという好奇心だらけです。だから、giants-55さんのブログはとても勉強になっています。
死と直面するとさまざまな思いが駆け巡ります。
また、変な事かいてすみません。
なんだか、いろいろな感情がこみあげてきてしまいました。
こういう「死」に纏わる話って、結局の所は個々人の宗教観や死生観に関わって来るもので、余程の極論(例えば「貧乏人は死ね!」の様な酷いもの。)で無い限り、「これは間違い。」or「これは正しい。」と決め付けられるべきものではないと思っています。
自身が「生きて行くのは耐え難く辛いし、面倒を見ている家族にも迷惑をかける。」として死を望んでも、見守る家族にとっては「どんな形で在れ行き続けて欲しい。」と心底思っているケースも勿論在るでしょう。ですから、安楽死(尊厳死も含め。)の問題は難しいとも言えるのですが、”私見”で言えば、人間らしく生きられず、唯単に”機械的に生かされているだけの状況に自らがなったなら、医師によって生を終えさせて欲しいと思います。そして、愛する身内がその様な状況になった場合も、同様の事を思うでしょう。
唯、葬儀の事も含めて、人それぞれ色々な考え方が在るのは確かだと思います。
「さいぎょうほうし」という御名前良いですね^^。以前記事でも書いたのですが、西行法師の詠んだ「願わくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月の頃」という歌が自分は好きです。
・・・といきなり無関係な話になってしまって済みません(^o^;;;。
「生と死との間の何か」、この何かとは「けじめ」という意味合い”でも”在ると思うのですが、そういったものが必要ではないかとするさいぎょうほうし様の御意見を否定するつもりは毛頭ございません。と言うよりも、葬儀の有無(是非)というのは「在るのが正しい。」とか「無いのが正しい。」という白黒ハッキリ付く問題ではないと思っているからです。個々人の宗教観や死生観等に関わってくる問題ではないかと個人的には考えています。
私事になってしまうのですが、祖父が亡くなった際、その通夜に祖父の大学時代の友人が何人か参列しました。焼香の際にはしかつめらしい顔をしていた彼等が、控え室に戻った瞬間に大声で世間話をし出し、その挙句大声で笑っている姿を目にした時、「自分が”送られる”時には、本当に嘆き悲しんでくれる人間だけが来てくれれば良い。否、葬儀という形態を取るのではなく、火葬場で真に近しい人間だけが別れを告げてくれるだけで良い。」とつくづく思いました。
やや誤解が在る様なのですが、自分は「亡くなった場所から火葬場に直接搬送した後、”何もしない”でそのまま火葬してしまう。」のがベストとは思っておりません。記事でも触れました様に、火葬場で近しい人間に簡単な御別れをして貰えればそれで充分と考えています。
これ又誤解なさらないで欲しいのですが、自分は決してさいぎょうほうし様の御考えが誤っていて、自分の考えが正しいなんぞと言うつもりは毛頭在りません。それは上記しました様に、この話はその正誤が在るものではないと考えているからです。
勿論自分には愛する身内が居ます。その身内を見送る時には、ゴミを焼却する様な無機的な感情でいられる訳は無く、きちんと見送りたいと思っております。でも、葬儀という形式をきちんと踏みさえすれば最愛の者を心から見送った事になり、又、形式を踏まなかったから心から見送っていないという事にはならない様に自分は考えます。
これは極論になってしまいますが、大々的に葬儀(通夜or告別式を問わず。)を送ったとしても、唯々”惰性”で進行しているだけの場合も在るでしょうし、火葬場で簡単な御別れをするだけでも、その場で心底愛する者を見送り、そしてその後も愛する者を忘れない気持ちをずっと持ち続ける場合も在るのではないかと。つまり、形式よりも自分は内面の部分が重要に思うんです。
自分の考えが多数派なのか少数派なのか、はたまたどっちでも無いのかは判りません。自分の考えを寂しいと感じられる方も当然居るとは思います。でもそれよりも、自分は真の心の満ち足りが何処に在るのかというのを個々が大事にすれば良いのではないかと考えています。
何か脈絡の無い文章になってしまって済みません。(^o^;;;。
これからも宜しく御願い致します。
知らなかったです。
自分もお金が無いし、独り身だから直葬にしようかなぁ・・・
まだかなり先の話ですが・・・
生まれた時から付き合ってる事なので、当たり前のようにもなってもいます。
麗菜は具合が悪くなって入院をしなくてはならない状況になったらいつも思います。
食べたいものを我慢して、やりたいことを我慢して、夢をあきらめて、我慢、我慢をしてまで命を延ばして生きる事のほうが幸せのなのかって…。
家族を不安にさせ、余計な気遣いをさせて、それがまたぁたしのストレスになったりもしました。
今は、少しまた、生き方、考え方がかわってきてはいます。
人は生まれたらかならず対局の死に迎う。
おわりよければすべてよしではないけれど、ぁたしは笑って、生まれて良かったと後悔はしても未練を残さず死にたい。
だから、めぇいっぱいこの瞬間をいきていたい。
死に関する考え方は本当に千差万別でぁたしには偉そうに語れる事ではないかもしれない。
でも、苦しむぁたしの姿をみて、苦しそうに不安そうに看病してくれる周りを見てると「もぅ、死にたい」と思う事は確かにありました。自殺も図りました。
お葬式はぁたしはしていらないです。悲しい涙で見送られるのはイヤです。
(毎度のことですがまたコメントわけがわかんない事書いて申\し訳ないです)
貴方が言われる葬式なるものは、告別式ではないのですか。告別式は死者が自分のためにするものではなくて、上記のような死に別れ、生き残った者、つまり、生きている者が自分達の世間的な体裁を整えるためにするのです。
死ぬ者や死んでゆく者がどうこういう筋のものではない。私はそう思ってます。
天涯孤独でないかぎり、葬儀は必要です。生と死との間の”何か”のために必要だと思います。
しかし、告別式はかってです。私個人としては、告別式はして要らないと言ってます。
あなたの言う直葬、なんだか寂しすぎませんか。
葬式に関しても、私は全く無しを希望しています。前年ガンの手術やら治療やらで驚くほどの金額が出て行ったので、「死ぬまでにお金がかかるのだから、死んでからも家族にお金の負担はかけさせたくない」と思うし、身内の葬式でもあくびをしたり、火葬の最中に笑ってお酒を飲んだりしている人たちを見ると、やはり「ほんとに親しい人だけで送って欲しい」と思います。葬儀をしなくても、親しかった人たちの気持ちの中に、私を少しでもとどめてもらえれば、私はそれで十分です。
高齢化が深刻化していく昨今、このようなことはどんどん増えていくのでしょうね。