ば○こう○ちの納得いかないコーナー

「世の中の不条理な出来事」に吼えるブログ。(映画及び小説の評価は、「星5つ」を最高と定義。)

「沈まぬ太陽」

2009年11月13日 | 映画関連
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国民航空の労働組合委員長・恩地元(渡辺謙氏)は職場環境の改善に奔走した結果、海外勤務を命じられてしまう。“島流し”とも言える扱いで過酷な地へ次々と飛ばされた恩地は、10年に及ぶ孤独な生活に耐えて本社復帰を果たす事に。しかし、そんな彼を待ち構えていたのは未曾有のジャンボ機墜落事故だった。

救援隊として現地に行った彼は、様々な悲劇を目の当たりにする。そして、組織の建て直しを図るべく就任した国見正之新会長(石坂浩二氏)ので、恩地は会社の腐敗と闘うが・・・。
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1985年8月15日に発生した「日本航空123便墜落事故」は、乗員乗客524名の内520名が死亡するという未曾有の大惨事だった。4年前の記事でも記したが、あの時に受けた衝撃は余りにも大きく、今でも折に触れて思い出してしまう。この大事故をモチーフにし、1995年から1999年にかけて週刊新潮にて連載された山崎豊子女史フィクション小説が「沈まぬ太陽」。連載後に単行本化され、それが大ベストセラーにもなったので、御存知の方も多い事だろう。

以前にも書いたと思うが、自分は全集を所有している程に山崎作品の大ファン。その魅力を書き上げれば枚挙に遑が無いのだけれど、最大の魅力は「社会の暗部を専ら題材とし、徹底的な取材(何度か「盗作疑惑」が指摘されたのも存じているが。)を反映したディテールの面白さ。」に在ると思っている。又、実際に起こった事件や実在する人物をモチーフとした作品も多く、「小説に登場する事物や人物が、一体何(乃至は誰)を指しているのか?」を推測するのも一興。*1

冒頭に記したのは、今回観て来た映画「沈まぬ太陽」の梗概。この作品は恩地元と行天四郎(三浦友和氏)という、2人の男が主人公と言って良い。1960年代、若き彼等は労働組合の委員長と副委員長という形で、共に会社と闘う立場に在った。「己が信念を貫き通す。」という共通点を感じる彼等だが、その信念が全く相反しており、「会社をより良くする為には、先ず個々の社員の環境を改善しなければいけない。」と考える恩地に対して、行天は「自分の出世が何に於いても最優先される。」という考えだろう。

自分の出世の為には“仲間”を次々に利用し、そして切り捨てて行く行天。その事でどんどん出世をして行ったのだから、彼は社会人として“勝ち組”なのかもしれない。一方の恩地は愚直な迄に自身を捨て去り、「個々の環境改善&会社の改善」の為に身を粉にする。その結果、会社の上層部からは疎んじられ、社内的に半端じゃない冷遇をされ続ける事に。個人的に言えば「社会人としては“負け組”かもしれない恩地の生き方」に共感を覚える。唯、その陰で周囲から様々な迫害を受け続けた恩地の家族も居た訳で、己が信念を貫き通した代償は恩地だけが払った物では無かったのも事実。その事を「恩地の単なる自己満足に過ぎない。」と考える人も、中には居るかもしれない。

残された家族に走り書きの“遺書”を残す男性等、墜落に向かう機内の人々の姿には心が痛む。「あの機内に自分が居たならば・・・。」と思うと、全く他人事には思えない。「生きたくても生きられなかった彼等の思い。」、「墜落現場に散乱する機体のパーツや亡くなった人々の姿。」、「愛する者を一瞬にして失う事になった御家族の姿。」等々、様々な思いや場面が心に残る。

「モチーフとした人物に対して、徹底的に取材を行う。」というのが山崎作品の魅力と記したが、時にはこれがマイナスに働く事も在る。或る人が「モチーフとした人物への取材が密になり過ぎた事で、必要以上にその人物を美化してしまう事も見受けられる。」と指摘していたが、これは確かに在るかもしれない。「小説に出来るだけリアリティーを持たせたい。」というのは書き手としての本能だろうけれど、「モチーフとした人物と距離感を適度に取る。」というのも大事な事かも。不毛地帯」でも感じたけれど、この「沈まぬ太陽」もモチーフとされる人物を美化し過ぎていると言えなくもないし。

上映時間3時間22分という大長編。「風と共に去りぬ」や「アラビアのロレンス」等、昔の大長編作品には結構存在したインターミッションだが、この作品でも10分挟まれている。若い世代だと、珍しく感じるかもしれない。大長編だけれど、自分はその長さが苦痛には感じなかった。それだけ、ストーリーにのめり込んでいたからかもしれない。

骨太の作品は、映像化に堪えるもの。総合評価は星3.5個

*1 「不毛地帯」の主人公はそのモチーフとされる人間を考える、かなり美化されていた様に感じたが、同じ人間をモチーフとしたと思われる人物がこの作品にも登場する。この作品の場合は、結構嫌な描かれ方かもしれない。又、“風見鶏”やら“金の延べ板爺”、“運輸族のドン”等々、実在した政治家を思わせる人物達にはニヤッとさせられた。

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2 コメント

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Unknown (マヌケ)
2009-11-14 14:13:04
光と影や表裏を描くとき、モチーフを極度に美化したりグロテスクにしたりすることはドラマの手法ですから、やり過ぎを感じてもそれはそれで演劇なのだと受け取ることです。 ハリウッド作品など、バットマンなんかがわかりやすいですが、盛り上げるためにヒーローとヒールの対極化が納得ずくです。 裁判ものでも巨大企業対一労働者とかいう対極化が弱者にすんなり感情移入していけるというのがあります。
インターミッションって懐かしいですね。 「ナバロンの要塞」とか「荒鷲の要塞」「ベンハー」も。 子供のころにテレビの洋画劇場で見て、大人になってからレーザーディスクで見ました。 テレビでは前編後編で分かれていて、早く続きが見たくてわくわくしました。 あんなわくわくする気持ちが一週間も持続するというのは、やはりテレビに夢中になれた時代でもあったからでしょうね。 レーザーディスクでインターミッションが入る必要があるのかと思いましたが、フィルムそのものに焼きこまれているんですね。 山崎豊子も横山秀雄も読みました。 反省のない企業という言葉があのJR西日本などの行いを見ていると然とも思えます。 企業が社会悪のように描かれている中にもそんな組織の中で生きていかざるを得ない大勢の人たちや家族がいるのですね。 社会悪であってもそこで生活をしていかなくてはならないジレンマがあります。
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>マヌケ様 (giants-55)
2009-11-14 15:28:35
書き込み有難う御座いました。

仰る様に「勧善懲悪」というスタイルの方が、読み手(観る側)はより感情移入し易いというのは在りますし、何よりも山崎作品は「フィクションで在る。」事を示している訳ですから、純粋に“1つの小説として”読めば良いのしょうが、如何せん特定のモデル達の顔が浮かんでしまうんですよね。

インターミッションの在る映画、昔はそこそこ在りました。思うに映画全盛の時代とオーバーラップしているのかもしれません。
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