7月19日付け東京新聞(朝刊)に、「オールスターゲーム」に関する面白い記事が載っていた。創設から今年で88年目となる日本プロ野球だが、今から73年前の1950年に、其れ迄の“1リーグ制”から“2リーグ制”に変わっている。なのに、「此の年はオールスターゲームが開催されず、翌年に開催されたのは何故か?」に付いて記しているのだ。
オールスターゲームの源流は、「1リーグ時代の1937年から、MLBを手本に開催された『職業野球東西対抗戦』。」なのだとか。以降、1949年迄「職業野球東西対抗戦」は毎年行われており、2リーグ制に変わった1950年も開催されていておかしくなかった。
1950年に開催されなかった理由に付いて、生前の杉下茂氏に取材したそうだ。彼曰く「セ・リーグとパ・リーグが、大喧嘩していたから。」と。(因みに、杉下氏は1951年に開催された第1回オールスターゲームに出場している。)
切っ掛けは、1949年に起きた球界再編だった。当時のプロ野球は巨人、中日、南海等の8球団が1つのリーグで闘っていたが、巨人のオーナー・正力松太郎氏が「球団を増やし、将来的にはアメリカの様に2リーグにしたい。」と言い出した。
1936年に始まった日本プロ野球は、低迷期を経て、戦後漸く人気が出た経緯が在る。「漸く収益が見込める様になったのに、新規参入等認められるか。」という球団と、「拡大路線万歳。」という球団で、球界は真っ二つに割れる事に。何方も譲らず、協議は平行線を辿っていたが、此の年の11月26日の会議が決裂すると、南海、阪急、東急、大映の4球団が、新規の毎日、西鉄、そして近鉄を引き入れ、新リーグの設立を宣言。パシフィック・リーグを名乗った。
残された形になった巨人、大阪、中日、太陽も黙ってはおらず、国鉄、広島、大洋、そして西日本を加えた8球団で、新たなリーグを結成。此れがセントラル・リーグで、パシフィック・リーグに対して「我々こそがセントラル(中央)だ!」という激しい対抗意識が感じられる名称。
対抗意識は激化する一方で、「選手不足の新規参入組が、違うリーグの球団から主力選手の引き抜きを開始し、ルール無用の引き抜き合戦が横行する。」に到り、見兼ねたGHQが介入した程。そんな状態だったので、「とてもオールスターゲーム開催どころでは無かった。」というのが1950年だったと。
翌年の1951年、何とか第1回オールスターゲームが開催される運びとなったが、両リーグの遺恨が完全払拭出来た訳でも無く、各球団の代表やリーグ会長が来場し、「負けるなよ!」とか「相手のリーグを遣っ付けろ!」等と選手に発破を掛ける始末。舞台となった甲子園球場には4万8,671人の観客(オールスターゲーム1試合での最多入場者数として、未だに破られていないとか。)が詰め掛け、異様な雰囲気に包まれたと言う。
結局、3試合制で行われた此の年のオールスターゲームは、セ・リーグの2勝1敗に終わるが、全て得点差が僅かの大接戦だった。