ば○こう○ちの納得いかないコーナー

「世の中の不条理な出来事」に吼えるブログ。(映画及び小説の評価は、「星5つ」を最高と定義。)

戦争の記憶

2023年08月15日 | 其の他

1945年8月15日、「玉音放送」が流された。玉音放送とは簡単に言ってしまえば、「第二次世界大戦に関し、枢軸国側が日本に対して出したポツダム宣言受諾し、日本の降伏(昭和)天皇が日本国民に伝える放送。」で在り、以降は此の日を「終戦記念日」と我が国で呼ぶ様になった。

正確さを期すならば、「終戦記念日」では無く「敗戦記念日」だろう。だが、体面保ちを異常に気にし、表現を着飾る事で、物の本質を見え辛くさせるのを得意とするな国民性。」を有する我が国に在っては、「敗戦」という言葉は受け容れ難かったのだろう。

兎にも角にも、今日は“79回目の終戦記念日”。愚かしい戦争を繰り返さないにも、第二次世界大戦を実際に体験された方の“戦争の記憶”を紹介したい。

2ヶ月前、“フォークの神様”と呼ばれた杉下茂氏が肺炎にて97歳で亡くなられた。彼が戦後75年という事
で、3年前に東京新聞で戦争の記憶を語っておられるのだが、訃報を受けて先月、紙に再編集された内容が掲載された。終戦時、杉下氏は19歳だ。

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私が中国出征したのは、1945年の事だった。博多から船で韓国釜山に上陸し、列車に乗せられて、良く判らない場所に降ろされた。多分、中国の何処かだと思う。其の後は、10行軍と言って、1日に40km位歩くんだ。此れ辛かった。途中で誰かが「赤飯が出たぞ。」と言うので喜んだら、何の事は無い。コウリャンだった。駐屯地に着いたら、今度は新兵訓練だ。上官は厳しくてね。射撃訓練で弾が当たらないと殴られたり、蹴飛ばされたりした。上官からの暴力は、日常茶飯事だった。

其れでも、私は恵まれた方だった。敵と遭遇せず、戦闘を経験する事は無かったからだ。大変だったのは、終戦を迎えてから。「日本は戦争に負けた。」というので、慌てて逃げたのだが、上海近郊で捕まって、捕虜収容所に入れられた。市中引き回しと言って、武装解除させられ、丸腰で上海の街を歩かされた。見せしめだね。市民は殺気立っていて、石を投げられた。何時殺されるか、生きた心地がしなかった。

収容所生活も大変だった。シベリア(抑留)の様に強制労働は無かったものの、次々と戦友が死んで行った。原因は水だ。水道が無い為、井戸水煮沸して飲むのだが、我慢出来ずに生水を飲んだ人は御腹を壊して、亡くなって行った。人はね、栄養失調で死ぬ時、髪の毛が脱色した様に赤くなって行くんだ。乾いた赤い髪で横になる同僚の姿を、私は今も忘れられない。

そんな我々を救ったのが、スポーツだった。彼処には2千人程の日本人捕虜たと思うが、過酷な生活に、何時暴発してもおかしくない状況になった。此の儘だと暴動が起きると言うので、スポーツなら遣っても良い事になった。野球だけで無く、ヴァレーボールバスケットボールも遣った。スポーツは、最後諦めずプレーするからね。「私達も最後迄、希望を捨てずに生き様。」と励まし合った。「スポーツに助けられた。」と言っても良いだろう。

兎に角、食べる物が無い。「ひもじい」って言葉、知ってるかい?空腹で食べていない気持ちを表す言葉だが、彼の時は日本中が御腹を空かせ、ひもじい思いをしていた。例えば、夕飯は御粥重湯が少し在るだけ。「戴きます。」と頭を下げて、と一緒に頭を上げた時には、もう「御馳走様。」だ。1週間、グリーン・ピースの缶詰だけという時も在った。

でも、生きて帰って来ただけ、私は幸せだった。私には兄が居た。安佑といって海軍戦闘機乗りだったが、1945年3月に沖縄で戦死した。神雷部隊といって、特攻専用の桜花という機体に乗り、突撃したと聞いた。兄は、私よりも野球が上手かった。若し、戦争が無かったら、私を上回る素晴らしい選手になっていた事だろう。人間の未来や可能性を奪ってしまう戦争は、2度と起こしてはいけない。

其の為には、誰もが意見が言える世の中にしておく事だ。戦争中は上官が「突撃しろ!」と言ったら、皆が「ハイ!」と従った。其れが、特攻や自決繋がった。そんなのは間違っている。私は、“おかしい事をおかしいと言えない空気”が、悲劇を生んだと思う。「誰もが自由に声を上げられる世の中、『そうじゃない!』と批判出来る世の中を、何時迄も残しておいて貰いたい。」と願っている。
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杉下氏は生前、毎年の様に沖縄県糸満市に在る沖縄戦跡国定公園を訪れていたそうだ。沖縄戦没者約24万人の名前が刻み込まれた「平和の礎」に、亡き兄・安佑氏の名前が在るからだ。「沖縄で特攻した人は、遺骨が無い。だから、此処に来るんだ。」と、杉下氏は寂しそうに語っていたと言う。

杉下氏の訃報が流れた際、ジャイアンツ時代に投手コーチの彼から指導を受けた角盈男氏のコメント印象的だった。自らの考えを押し付け捲るコーチが少なく無い中、杉下氏は選手の意見を良く聞いてくれて、取り入れてくれる事が少なく無かったそうだ。穏やか人柄で、プライヴェートでも親しくさせて貰っていたと言う。

「私は、“おかしい事をおかしいと言えない空気”が、悲劇を生んだと思う。誰もが自由に声を上げられる世の中、『そうじゃない!』と批判出来る世の中を、何時迄も残しておいて貰いたい。」と願っていた彼だからこそ、“下の人間の考え”にも耳を傾け、取り入れる事が出来たのだろう。


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