「伝記」は「第三者が、或る人物の業績を記した物。」を意味するが、“其の第三者”が“或る人物”に対してどういう思いを持っているかが、内容に少なからずの影響を及ぼすだろう。良い印象を持っていれば、“嘘”と迄は言わないが、実際以上に良く書かれる事が在るだろうし、好ましくない印象を持っていれば、其の逆が在り得るだろう。
「自身で、自分の半生を記した物。」で在る「自伝」の場合、読む側は「伝記」以上に注意を払う必要が在る。「自身を良く見せ様。」という面が、結構見受けられるので。
今回読了した「自省録 ~歴史法廷の被告として~」は、中曽根康弘元首相が自身の半生を記し、13年前の2004年に上梓した物。「自省」とは在るものの、「自分はこんな凄い人間なのだ。」「こんな凄い事をして来たのだ。」という自賛がちらほら見受けられ、鼻白む所が無い訳では無いけれど、「中曽根康弘」という人物の意外な一面が垣間見られたり、彼が実際に接して来た国内外の政治家達(其の殆どは物故者。)の逸話が記されていたりと、興味深い内容では在った。
此の本を読んで改めて感じたのは、「昔の政治家には懐が深く、魅力的な人物が多かったなあ。」という事。政治家としての中曽根康弘氏に関しては「状況状況によって、自分の都合が良い様に言動を変える“風見鶏”。」、「『不沈空母発言』等、超鷹派な人物。」、「様々な疑惑への関与が噂されて来たけれど、決定的な証拠が無く、司直の手から逃れて来たという意味で、『刑務所の塀の上をずっと歩いて来たが、中には落ちなかった人物。』。」というイメージがずっと在るのだけれど、同時に「様々な人や書物に触れ、良く勉強している人物。」というイメージも在る。
国内外を問わず、昔の政治家には、そういう形で自身の見識を高め、懐の深さや魅力的な人物像を作り上げて行った物が多かった様に思う。「真面に本も読まず、自身の事を持ち上げてくれる“御友達”だけで周りを固め、ネット・サーフィン許りしては、自分を持ち上げる書き込みに「いいね」ボタンを押し捲っている様な政治家。」には、彼等の爪の垢を煎じて飲んで欲しい物だ。
戦後間も無い頃、中曽根氏は思想家の徳富蘇峰氏と親交を結んでいたと言う。徳富氏と初めて会った際、彼から言われた言葉に、次の物が在ったとか。
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「勝海舟の言に『天の勢に従う。』というのが在る。政治家は救世軍の士官では無いのだから、イデオロギーや既成概念に固執する必要は無い。此れからの時代は流動するから、大局さえ失わないなら、大いに妥協しなさい。西郷南洲位妥協の好きな男は居なかった。中曽根さんも見習いなさいよ。(後略)」。
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徳富氏の此の言葉をずっと胸に刻み、様々な言動をして来たという事ならば、彼の“風見鶏振り”も“柔軟さの顕れ”と言えるのかもしれない。
又、経済学の泰斗・東畑精一氏が語ったという言葉が紹介されていたけれど、とても印象に残る物だった。
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「日本の指導者は政策が無かったり、曖昧な時は『改革』、『改革』と言って騒ぐ。」。
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鷹派の重鎮たる中曽根氏の“社会主義的な面”に意外さを感じたり、自民党内の人間模様に興味をそそられたりと、面白い内容なので、あっと言う間に読み終えてしまった。
最後に、中曽根氏が記した“自戒の言葉”を紹介する。何処ぞの幼稚な首相に教えたい言葉だ。教えた所で、全く聞く耳を持たないだろうけれど。
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首相たるもの「権力の魔性を自戒せよ。」と自覚しなければならないのです。文化発展の為、文化創造の為のサーヴァント(奉仕者)なのです。私が「魔性」と言うのは、政治家を独善的な道に走らせる麻薬的効果が権力には在るが、其れを警戒しなくてはならない、という戒めの言葉です。
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