「昔の歌は全て良かったけれど、今の歌は皆駄目。」なんて言う積りは全く無いが、個人的には「昔の歌の方が、琴線に触れる物が多かったなあ。」とは思う。流行り廃りは世の常で、名曲と呼ばれる物でも、時代の移り変わりで、多くが口遊まなくなってしまう事も致し方無いのだろうが、「理解に苦しむ理由から、名曲に触れる機会が減じられてしまっている。」としたら非常に残念だし、哀しさを覚える。
7年前の記事「村の鍛冶屋」、そして5年前の記事「歌い継がれないとしたら残念」で、「音楽の教科書から、童謡や文部省唱歌が次々に消えて行っている理由の1つを記した。「『村の鍛冶屋』【歌】の場合、今の子供達は鍛冶屋其の物を知らず、故に歌の意味合いを理解するのは困難と思われるから。」といった、「状況を知らないから、意味を理解させるのは無理。」という考えが文科省には在るとか。其の論理で言えば「当時の状況を知り得ないので、歴史を理解させるのは無理。故に、歴史は教えない。」という事にもなり兼ねず、「妙な話だなあ。」と思う許り。「子供達が状況を知らないので在れば、理解出来る様に導くのが教育。」だと思うのだが。
脚本家の内館牧子さんが、週刊朝日に連載しているコラム「暖簾にひじ鉄」。興味深い内容が多く、当ブログでも何度か紹介させて貰っているのだが、4月4日特大号の「消えた歌」というのも考えさせられる内容だった。音楽の教科書から日本の叙情歌や文部省唱歌、童謡の類いが消えて行っている事を、内館さんも嘆いておられる。一部を抜粋する。
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消えたものは、リズムやメロディが現代に合わないとか、歌詞が現代においては差別や貴賤意識に通じるとか、文体が高尚すぎるとか古くさいとか、今の生徒は興味を持たないとか、種々の理由があるだろう。だが、要は「時代に合わない。」ということに集約できるのではないか。
ただ、消えてしまうにはもったいない曲が多すぎる。学校で習うか否かは、歌の生命を左右するのである。
先日、20代の女性数人が言った。「うちら、『故郷』【歌】も『赤とんぼ』【歌】も歌えるよ。学校で習ったもん。」。「教科書に出てないと歌えないよ。親とかも歌えないから教えらんないし。」。
親も教科書で習っていない世代になっている。私が吹き出したのは、一人が大真面目に言ったことだ。「『赤とんぼ』の歌ってさァ、どこがいいわけ?うちらの先生は『赤とんぼが竿の先に止まっている歌です。』とかって説明して、そんなの別に面白くも何ともないじゃんみたいな。」。
吹き出した後で、これこそ深刻な問題だと思った。教師が歌詞の行間や叙情を、まったく理解できなくなっているのだ。
これに従うと、「『春の小川』【歌】という曲は、小川がさらさら流れている歌です。」と説明するだろう。生徒は「面白くも何ともないじゃん。」となって当然。「『椰子の実』【歌】という曲は、名前を知らないどこかの島から、椰子の実が一つ流れて来た歌です。」となれば、生徒は「それが何か?」となろう。
小さいうちからの英語教育もいいが、日本人の感覚がどんどん鈍くなっている気がして、恐ろしい。
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「赤とんぼ」の歌に関して、「赤とんぼが竿の先に止まっている歌です。」とだけしか説明されなかったら、そりゃあ「だから何?」とか「そんなの別に面白くも何とも無いじゃん。」と生徒が思ってしまうのも理解は出来る。生徒側に「積極的に理解しよう。」という気持ちが概して薄い気もするが、教師の側にも「生徒が興味を持って貰い、判り易い様に説明する。」という意識が希薄なのも気掛かり。
「自分が同じ事をされたら、どう思うか?」等、想像力やら思い遣りの気持ちやらが、最近は失せている様な人が目立つ。若い人に限った事では無く、老若男女を問わずにだが、其の根底には「感覚の鈍り」というのも在りそうだ。
ところで、東京大衆歌謡楽団というグループをご存知ですか。
http://tpmb.jp/
若い3人組ですが、昭和の歌謡曲をパロディではなくマジで歌っています。ユーチューブでも聞くことがでます。
http://www.youtube.com/watch?v=1W2xnGuLkY8
時々、聞いて喜んでおります。
御紹介戴いたグループ、初めて知りました。リンク先を見させて貰いましたが、ヴォーカルの方がロイド眼鏡に真ん中分けの髪と、思いっきり昭和初期の雰囲気で、何処と無く東海林太郎先生を思わせますね。グループ自体も、昔流行ったバンド「たま」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9F%E3%81%BE_(%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89))っぽいレトロさが在り、歌もぐっと来ました。
自身も同類な面が在りますので、人の事をどうこうは言えないのですが、便利さや快適さを追い求め過ぎたが故、又、アメリカ文化の追求が過ぎた為、我々日本人は得た物と引き換えに、多くの物を失ってしまったとも言えます。以前にも書いたのですが、「人情が薄くなった。家族との繋がりが無くなってしまった。」なんぞと嘆く人が少なく無いけれど、「濃密な人間関係や家族との繋がりを忌避。」したのが多くの日本人だったのだろうし、其の結果として「今」が在るのも事実なんですよね。
「自国の文化や風習に触れる。」というのは良い事では在るのですが、「保守」を自称する人達の中には、「日本人ならば歌舞伎や落語に触れ、着物を着るのが“当たり前”。」といった決め付けが酷く、其れを他者にも強いる様な者が居たりもする。「歌舞伎のどういった所が面白いのですか?」と質問した所、「別に面白くは無いけれど、日本人なのだから見続けるのが当然でしょ。」と答えた人が実際に過去に居り、唖然としてしまいました。
この前、会合で「この表現は間違っているし、クレームが来るだろうから直しなさい」と49歳の男に言いました。
すると、殆ど同義語といいますか、大して変わらない語句に直して来ました。もうさじを投げるといいますか、こんな馬鹿には何を言ってもダメではないか、クレーム来たところでどうしようもない対応になるだろう。これでも「○高」(当時はまだ高い地位を保っていたはずだが)出なのか?トホホとこんな奴に任せなきゃ良かったと思うこと思うこと。
なんでだろうと考えると、この世代からだろうか、「読書がネクラ」の代名詞になったのは、と考えました。1970年代までだと読みはしないでもヘーゲルだの太宰だのを脇に抱える男がいたんです。モテたりしたんです。何かというと難しい言葉を話したがる奴がいたんです。その反動でしょうね。
それに1970年代までだとチェーホフの「初恋」の映画化を当時大人気のアイドル俳優でやったりしたんです。小百合や百恵映画なんてのは文学の映画化ばかりだし。けれども松田聖子の「野菊の墓」、三原順子の「続・野麦峠」(こんなタイトルだったかな?)あたりを最後にそういうのも減りました。
歌謡曲も英語にもなっていない意味不明英語もどきが並ぶ歌詞ばかりになったり、国語力が落ちるのも当然のことだったのかもしれません。
AK様が仰る様に、或る時代迄は「女性アイドルがワンランク上のポジションに上がる一方策として、文芸物で主役を張る。」というのが在りましたね。本当に良い物は、仮令時代が変わっても良い物だと思うのですが、実際に見聞する事も無く「古い物だから、触れる価値が無い。」と判断している様な若い人が増えているのだとしたら、非常に残念だし、自ら“見識を広げる機会”を放棄している様に感じます。