1921年、裕仁親王(当時皇太子、後の昭和天皇)の妃に内定していた久邇宮良子女王(後の香淳皇后)に付いて、「家系に色盲の遺伝が在るので、妃には相応しくない。」として、元老の山縣有朋等が久邇宮家に対して婚約辞退を迫った。世に言う「宮中某重大事件」だ。
時代が違うとはいえ、「家系に色盲の遺伝が在るから。」という理由で婚約自体を迫るというのは、何とも差別的な話。当時の山縣は軍部や政界に強い影響力を持っており、そんな彼が婚約に反対したという事で、当初、久邇宮家も婚約辞退の動きを見せたそうだ。
然し、そんな山縣の主張に反発する声が高まり、「北一輝等が、山縣暗殺を企図している。」等の流言飛語が飛び交い、山縣は社会的に追い込まれて行く。
結果として裕仁親王本人の意向から婚約は破棄されず、山縣の権威は大きく失墜。彼は翌年、失意の内に亡くなった。
「婚約は破棄される事無く、何れずれ御成婚される」と政府が発表したのは“97年前の今日”、即ち「1921年2月10日」の事だった。