17日に行われた党首討論会で麻生太郎首相が「鹿児島県霧島市8日に開かれた民主党の衆院選立候補予定者の決起集会で、2枚の日章旗を切り裂いて張り合わせ、民主党旗として掲揚していた。」事を明らかにし、「国旗を切り刻むとは、どういう事か。信じたくない。とても哀しく許し難い行為だ。」と批判した。この発言を受け、民主党の鳩山由紀夫党首は「そんなけしからん事を遣った人間が居るとすれば大変申し訳無い。それは国旗では無く、我々の神聖なマークなので、きちんと作られなければいけない話だ。」と謝罪したと言う。
当該立候補予定者の関係者が、深い考え無しに遣った事だろうとは思う。恐らくは「党旗を用意していなかったので、手元に在る日章旗を使おう。」という思いからの行為だったのではなかろうか。とは言え、不適切な行為なのは確か。海外で日章旗がぞんざいに扱われたら、その事に良い感情を持つ日本人は少なくないだろう。今回の様に同じ日本人が遣った行為で在ったとしても、不快に思う人は居るだろうし。
「想像力の豊かさ」と「他者を思い遣る気持ち」というのは、政治家に特に求められる要素だと思っている。「こういう事をすれば、どういう結果になるだろうか?」、「自身の言動で他者を傷付ける可能性はないか?」といった最低限の配慮も出来ない人間は、政治家として致命的な欠陥を有していると自分は考える。例え関係者が勝手に遣った事だったとしても、現場であの党旗を目にした時点で外すなりの対応を採るべきだったろう。手書きで描く選択肢だって在った筈。「見栄えが云々。」なんていうのはどうでも良い話。“一般的に”不適切と捉えられる事はすべきでは無い。
自分の場合で言えば、日章旗を意識するのはオリンピック等の国際大会で掲揚される時位。選手達の活躍を嬉しく思うと共に、スルスルっと掲揚されて行く日章旗を目にすると、誇らしい思いがするのは事実だ。けれど、普段の生活で日章旗を意識する事は皆無と言って良い。だから“イデオロギー合戦”の場に日章旗やら君が代が“無理無理に”持ち出されるを見聞すると、自分なぞは正直引いてしまう。それは右の立場の人間の主張だろうが、左の立場の人間の主張だろうが同様。「日章旗」が「日本を象徴する存在」なのは確かだけれど、とは言え「物は物」で在り、それを絶対視するのはどうかと。一番大事なのは「物」では無く、「人間個々」で在ると思うのだ。
くどい様だが、今回の一件が不適切な行為だったのは確かだし、その事を批判されるのは仕方無いと思っている。だが「不敬行為で在り、売国奴だ!」といった具合に、嬉々としてバッシングしている様な人達にもシンパシーを全く感じ得ない。上記した様に「日章旗を絶対視」してしまうのは、良い傾向では無いと感じるから。
「新聞で弁当を包んだ際、その新聞に天皇の御真影が印刷されていた事から、『不敬行為』と糾弾された。」、「日章旗に敬礼し忘れたというだけで、軍人や憲兵から暴行を食らった。」等の現実が存在した嘗ての何処かの国の在り様は、とても好ましいとは思えないし。
今回の一件、自民党支持者から自民党本部に報告が在ったらしい。「あいつ等、こんな事してまっせ!」という御注進ならば、“悪い意味で”密告組織だった「隣組」的な匂いを感じてしまう。
自民党がこの件を必要以上に騒ぎ立てなかったのは、「与党として戦後の日本を引っ張って来た党の矜持」が感じられ、賢明だったのではなかろうか。
当該立候補予定者の関係者が、深い考え無しに遣った事だろうとは思う。恐らくは「党旗を用意していなかったので、手元に在る日章旗を使おう。」という思いからの行為だったのではなかろうか。とは言え、不適切な行為なのは確か。海外で日章旗がぞんざいに扱われたら、その事に良い感情を持つ日本人は少なくないだろう。今回の様に同じ日本人が遣った行為で在ったとしても、不快に思う人は居るだろうし。
「想像力の豊かさ」と「他者を思い遣る気持ち」というのは、政治家に特に求められる要素だと思っている。「こういう事をすれば、どういう結果になるだろうか?」、「自身の言動で他者を傷付ける可能性はないか?」といった最低限の配慮も出来ない人間は、政治家として致命的な欠陥を有していると自分は考える。例え関係者が勝手に遣った事だったとしても、現場であの党旗を目にした時点で外すなりの対応を採るべきだったろう。手書きで描く選択肢だって在った筈。「見栄えが云々。」なんていうのはどうでも良い話。“一般的に”不適切と捉えられる事はすべきでは無い。
自分の場合で言えば、日章旗を意識するのはオリンピック等の国際大会で掲揚される時位。選手達の活躍を嬉しく思うと共に、スルスルっと掲揚されて行く日章旗を目にすると、誇らしい思いがするのは事実だ。けれど、普段の生活で日章旗を意識する事は皆無と言って良い。だから“イデオロギー合戦”の場に日章旗やら君が代が“無理無理に”持ち出されるを見聞すると、自分なぞは正直引いてしまう。それは右の立場の人間の主張だろうが、左の立場の人間の主張だろうが同様。「日章旗」が「日本を象徴する存在」なのは確かだけれど、とは言え「物は物」で在り、それを絶対視するのはどうかと。一番大事なのは「物」では無く、「人間個々」で在ると思うのだ。
くどい様だが、今回の一件が不適切な行為だったのは確かだし、その事を批判されるのは仕方無いと思っている。だが「不敬行為で在り、売国奴だ!」といった具合に、嬉々としてバッシングしている様な人達にもシンパシーを全く感じ得ない。上記した様に「日章旗を絶対視」してしまうのは、良い傾向では無いと感じるから。
「新聞で弁当を包んだ際、その新聞に天皇の御真影が印刷されていた事から、『不敬行為』と糾弾された。」、「日章旗に敬礼し忘れたというだけで、軍人や憲兵から暴行を食らった。」等の現実が存在した嘗ての何処かの国の在り様は、とても好ましいとは思えないし。
今回の一件、自民党支持者から自民党本部に報告が在ったらしい。「あいつ等、こんな事してまっせ!」という御注進ならば、“悪い意味で”密告組織だった「隣組」的な匂いを感じてしまう。
自民党がこの件を必要以上に騒ぎ立てなかったのは、「与党として戦後の日本を引っ張って来た党の矜持」が感じられ、賢明だったのではなかろうか。
日章旗というものの歴史を振り返ってみるとこれがなかなか面白い。戊辰戦争時は薩長側が錦の御旗が旗印なのに対し、幕府軍側には日の丸がはためいていたとか、しかも日本のマークとして推薦したのは島津斉彬公だったりする。
大東亜戦争の事象のみでイデオロギー闘争の具にするのは、あまりに愚かというものです。そんな一筋縄なものではありません。
国旗を傷める行為について言えば、アメリカの例が中々興味深い。
抗議の為に引き裂く、火を点けることも憲法による『表現の自由』であると判決が出ております。
最も、アメリカでは星条旗に対する忠誠心を徹底的に教育されます。故に政府に抗議する時にも星条旗を持ってきます。
以前みた映画『MILK』など見れば分かりますね。赤い旗なぞかざすわけがない。
故に物は物で済ませたら、仏像だって木片や金属に過ぎません。
なのでこのブログではきっと少数派でしょうがアタシは米長邦雄や津川雅彦を支持しちゃいます。
審判は4人が同等でなければいけない。一番近くにいる審判のコールを変えるなんてことは、私が長くやってきた日本の野球では、聞いたことがない」
WBCでの王さんの発言を思い出しました
(こう抗議したわけではないけれど)
このように感情に任すのではなく、相手を尊敬しながらも、押さえるところは押さえるのが
周りから見ていても、きれいでよろしいかと。
官軍となった薩長連合軍は「錦の御旗」を掲げ、賊軍となってしまった幕府軍は「日の丸」を掲げていたというのは、何とも皮肉な光景と言えましょうね。そもそもは幕府軍が“正統派”で在り、薩長連合軍は“異端派”だった筈なのに。日の丸に銃を向けた側が、その後はこの国の中心となって行き、そして日の丸をその象徴に据えたという事になりますね。
「八百万の神」という概念が在る我が国では、森羅万象に霊が宿っているという思考が在る訳で、純粋に「物は物」と片付けられない土壌は在るとは思います。唯、日章旗を絶対視し、敬礼しなかったというだけで軍人や憲兵にぶん殴られたなんて時代は、個人的に真っ平御免です。
「相手を尊敬し乍らも、押さえるは押さえる。」というのは、自分もそのスタイルが好ましく思います。全部が全部とは決して言わないけれど、所謂「極右」とか「極左」と称される人の中には「教条的に全てを片付ける。」という考え方で凝り固まっている方が少なくない様に感じられ、その辺がどうしても受け容れ難い。
切り貼りを 切り刻むとは 大げさな
私の感想は全くこれとおんなじなんですよね。
どこかに掲揚してある日章旗を引き摺り下ろしたとか、絵の具をぶっかけて汚したとかじゃあないんですから。
自民党の言い草は、「ためにする批判」なのが見え見えで、いやな感じです。
何十年と与党をやってきたという余裕も全く感じられませんし。
特定の対象に関してどういう感情を抱こうが、それは個々人の全くの自由。「(海外を含めた)国旗」に対しても「大好き。」と思う人も居れば、「大嫌い。」と思う人だって居たって良いと思っています。法で規定された義務をきちんと負っている以上は、「嫌い。」と思っただけで「だったら出て行け!」なんて強要されるのもおかしな話。個々人の思想や信条は、他者が「それを変えろ!」と強いるべき物では無い。
唯、それはあくまでも「頭の中で考える事。」に限ってで在り、「違法行為」や違法行為では無くても「不適切と一般的に考えられる行為」は別。それを為した場合には、前者の場合は法によって罰せられ、後者の場合は非難されて仕方無いでしょうね。
「“極めて狭い世界の中だけの常識”が、“社会全体の常識”と盲信し、それを他者に強いる人。」や「他者の気持ちを全く無視して、唯我独尊振りを発揮する人。」、「自分の言動によって、どういう結果が起こり得るか全く想像出来ない人。」等、近年は困ったちゃんが非常に増えている気がします。これは若年層に限らず、中高年層でも結構見受けられるのが本当に困ったもの。
以前、地方自治体による強制退去が行われた際、所謂「プロ市民」と思われる人達の姿がTV画面に映し出されていました。警察官が「危ないから、どいて下さい。」と極めて丁重な物言いで、尚且つ軽く肩に手を遣った瞬間、その内の一人は大袈裟に引っ繰り返り、「痛い!暴力を振われた!!」と大騒ぎしていたのですが、見ている自分は「何だかなあ・・・。」という思いしか在りませんでした。
右にも左にも与したくない自分ですが、どうも極端に振れている人の中にはこの手の「身勝手な大袈裟さ」というのが感じられる人が少なくなく、辟易としてしまいます。「切り貼り」なのか「切り刻む」なのかは人によって判断が異なる事でしょうが(自分も「切り貼り」という感じが実際の所だと思っていますが。)、ネット上では「もっと悪意を持った表現」をしている人も居り、「極端過ぎるなあ。」と感じるだけ。
今回の一件、不適切な行為で在ったのは確かだと思います。当該候補者も「管理責任」が欠落していたという意味では、議員の資質に疑問を感じてもいます。でも、青空百景様が指摘されている様に「為にする批判」という感じは自分もして、何か嫌な感じもするんですよね。卑しくも長期間我が国を率いて来た政党なのだから、「こういった行為は良くない。」の一言で済ませれば、それはそれで「大人の対応」として国民から高く評価されただろうに。
仰る通りで、「~をしたら、XXという結果になるだろう。」という普通なら想像出来得る事が想像し得ないというのが問題だと思います。これは前にも書いた事なのですが、老若男女を問わず「自分で調べれば直ぐにでも答えが得られる事を、他者に安直に聞く。」という人が増えている感じがするんです。単純に「面倒だから。」というのなら未だしも、「思考の停止」という感じも在って、それはそれで「日本は大丈夫か?」と思ってしまう。
民主党のマニフェストには疑問を感じる点も少なくないけれど、自民党や公明党の幹部連中が異口同音に「民主党のばら撒き政策では、日本は滅びる。」みたいな事を言っているのを見ると、「定額給付金という“一過性の”ばら撒きを、最高の政策と自画自賛していたのは何処の党だったのか?」と突っ込みを入れたくなる。「弱者の救済」を声高に叫んでいる宗教党には、「その弱者から浄財として多額の金銭を奪取しない事が、一番の弱者救済策では?」と感じるし。