毎年この時期になると、その存在を巡って賛否両論が繰り広げられる靖国神社。しかし、日本国民に広く知られている存在ながら、意外とその内実が知られていない場所ではなかろうか。かく言う自分もその一人で、少なからずの書籍や映像等で見聞はしているものの、実際に訪問した事は一度も無い。冷戦構造が崩れ去った現代に於いて、「やれ右だ左だ。」と区分けする事の無意味さや、その両者に与したくないという思いも在るので、普段は右や左という表現は敢えて避けているのだが、今回の記事に於いては話を判り易くする為に意図してこの言葉を使うと、過激な右や左の人間がこの時期ワアワアと騒ぎ立てている場所というイメージが、どうしても先行して思い浮かんでしまう。実際に足を運んでこの目で見てみない事には、その存在をどうこう述べるのは好ましくないだろうとずっと思っていたので、先日、初めて靖国神社を訪れてみた。
第一鳥居である大鳥居を潜ると、前方には近代日本陸軍の生みの親であり、靖国神社の創建にも尽力した大村益次郎氏の銅像が建っている。多くの参拝者が境内に見えるが、若い人や外国人の姿が目立ったのは意外でもあった。
今から60年前の8月15日、敗戦を告げる玉音放送を日本国民が聞き入るドラマのシーンでは必ずと言って良い程、耳に焼き付く程の蝉の声が響き渡っているが、この日も身体に纏わり付く様な蝉時雨が印象的だった。第二鳥居と神門を潜って拝殿に直面すると、自然と心が厳かに沈静化されいった。この感覚は、知覧特攻平和会館やひめゆり平和祈念資料館、広島平和記念資料館等で感じたものと同じだ。イデオロギーは様々在ろうが、数多の戦没者の御霊を前にすると、彼等の犠牲の上に今の平和を享受出来る我々が存在している事に改めて思い知らされる。この世に未練を残しながらあの世に旅立たなければならなかった数多の御霊に、唯々哀悼の意を表するだけだった。
境内には相撲所が在ったり、「戦没馬慰霊像」や「軍犬慰霊像」、「鳩魂塔」といった戦争に従事した(させられた)動物達を悼むモニュメントが在ったりするのは、不勉強ながら初めて知る事でも在った。
そして、境内の奥に位置する日本初の軍事博物館(パンフレットにそう記されていた。)の「遊就館(ゆうしゅうかん)」に足を運んだ。神代の時代から戦後に到る迄の陳列品の種類及び数の多さは、歴史に深く触れられるという意味でも非常に貴重に思えた。又、戊辰戦争以降に国の為に殉じて亡くなった御霊を祀っている事は知識として知ってはいたが、実際に御霊の写真が数多く掲げられている最後のエリアで、その数多くの中に分け隔て無く埋没するかの様に、東條英機元首相や坂本龍馬氏、高杉晋作氏の写真が飾られているのは何か不思議な感じもした。
”右”の大本山というイメージが正直在ったのだが、中に展示されている品々やその説明書きは”概して”中立なものであったと自分は思う。これ等に付いて、右傾化云々を指摘されるべきものではないだろう。唯、一つ気になった事が在る。それは、館内で放映されていた「私たちは忘れない!」という50分の映画だった。この映画では、「気高き志と愛国心を持った日本人が、多く戦死していった事を忘れてはならない。」という主張が前面に押し出されていた様に感じる。気高き志や愛国心を持つ事は決して悪い事ではないし、戦死していった者を悼むのも自然な感情だろう。だが、問題は映画の中で語られる内容が余りにも一方的に思える事だ。一方的という言葉が不適切ならば、一面的な捉え方に過ぎるのではないかと思えた。
幾つか例示してみたい。視聴しながらメモ書きしていた訳ではないので、細かい表現が微妙に異なっているかもしれないが、ニュアンスとしてはほぼ間違っていないと思う。又、自分にはそう感じられたという部分も、他者にとっては全く異なった捉え方をされる可能性が在る事は理解しているし、自分の意見が唯一無二だとも思っていない事を先に御断りしておく。
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・ この映画は、日清戦争前夜から大東亜戦争での敗戦後迄を取り上げている。日露戦争で日本軍が勝利に到った事を、日本人の気高き志と愛国心の強さがその根底に在ったかの様にナレーションでは強調されていたのだが、その事を否定出来る材料が無いのと同様に、敵国で在ったロシア内部が血の日曜日事件に始まりロシア革命に繋がって行く様に内憂を抱えていて、とても他国と戦争を続けていられる状況になかった事も否定は出来ないだろう。
・ 映画内では大東亜戦争を、欧米列強が己が野望の為にアジア諸国を理不尽な形で占領していった事に対して、アジアのリーダーたる日本が正義の為に立ち上がった戦いとして捉えている。戦争というものは、突き詰めれば国のエゴがぶつかり合い、その対立が極限状態に達した事で起こるもの。その意味で、この捉え方は全く間違っている訳ではない。(日本のエゴが100%無かったと否定出来ないのと同様に。)だが、真珠湾攻撃をサラッと取り上げたのはどうなのだろうか?確かに、アメリカ側が日本を散々挑発しておいて、日本が開戦に踏み切る様に仕向けていた形跡は見受けられる。だから、真珠湾攻撃自体は悪いとは言わない。でも、”結果的に”であれ、宣戦布告を成さないで攻撃したという事実が語られていないのは片手落ちではないだろうか。
・ 日本が満州国樹立に協力したり、アジア各国を支配下に置いた事を、欧米列強の悪辣さから守る為という捉え方をしていた。この点に付いては賛否色々在るだろう。だが、100%否定出来る材料も無いと思われ、この点は取り敢えず置いておく。唯、ナレーションで「日本兵は”一人たりとも”略奪や残虐行為を成さなかった。」と語っていたのはどうかと思った。戦争という日常ではない異常な世界に於いて、略奪や残虐行為を一人たりとも成さなかったというのは常識的に考えられないと思うし、又、他国だけではなく実際に従軍した日本兵の側からもそういった行為を成したという証言が幾つも出ている以上、全く何もなかったと断言してしまうのは無理が在ると思う。
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新しい歴史教科書をつくる会のメンバーが執筆し、扶桑社から出版された「改訂版 新しい歴史教科書」。この教科書を巡って、多くのメディアが「歴史修正主義的な内容に過ぎる右傾化したものだ。」とバッシングしている。自分は未見なので何とも言えないのだが、このブログを訪問して下さる方を含め多くの方が実際に読まれた上での私見を書かれているのを拝読した限りでは、さして大騒ぎされる様な極度に偏った内容ではない様だ。実際、先日のラジオ番組内で爆笑問題の太田光氏も「実際に全部読んだけど、そんなに問題視される様な内容ではなかったと思う。」と語っていた。もしそうならば、マスメディアによる世論誘導がこの教科書に働いていたと言え、決して許される事ではないだろう。
しかし、同時に太田氏が発言していた内容にも共感を覚えるものが幾つか在った。
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「日本海海戦で日本軍がロシアのバルチック艦隊を打ち破った件を、さも勇ましく愛国心を煽情するかの様に描いていたが、あれはどうなのかなあと。今時の子が、そういった形で愛国心を高めるとも思えないんだけど。」
「学校で歴史を教える前に、『此処に書かれている事だけが真実ではない。』って言うべきなんですよ。一つの事象を取り上げても、幾つかの見方が存在する訳で、少なくとも否定する材料が無い事柄に付いては教科書に全てを載せるべきじゃないかと。其処から、生徒個々人が自らの頭で何かを学んで行けば良いと思うんだけど。」
「教科書”を”学ぶのではなく、教科書”で”学ぶものだと思うんです。」
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現行の入試制度等を考えると、全ての事柄を教科書に盛り込む事は現実問題として難しいだろう。理想論になってしまう事は充分判っている。でも、一面的な事だけを扱うのではなく、多面的に扱う事は非常に重要だと思う。そして、「私たちは忘れない!」で気になったのも、この多面的な捉え方が欠落している様に感じられたからなのだ。
所謂南京大虐殺で、中国側が白髪三千丈的とも思える死者数と並べ立てて日本を糾弾する。この一面的な捉え方も自分は受け容れ難いが、だからと言って虐殺自体が全く無かったとする日本側の一部の意見も受け容れ難い。中国側だけではなく、日本側の関係者の中からも虐殺行為を認める意見が在る以上、絶対的に虐殺行為が在った事を否定するのは無理が在ると思う。「Aという意見も在るが、Bという意見も在る。でも、あの状況下ではA(乃至はB)で在った事を自分は否定出来ないと思う。」というならばまだしも、「Aが絶対的に正しくて、それ以外は全く間違っている。」という論調では、中国や韓国の”話が出来ない”連中と同類になってしまわないか?真に気高き志を持った日本人で在るならば、そういった連中と同じ土俵に上がる事なく、多面的な見方をした上で、罵倒ではなくコミュニケーションを図るべきではないかと。
自虐的史観で自国を見詰めるのはウンザリだ。でも事の大小に関わらず、起きた事が完全否定出来ないもの迄も、自国を美化する為に完全否定する事も又ウンザリ。中国や韓国の話が出来ない連中を否定するからには、自らもそういう立場になってしまっては、何等説得力を持たないのではないだろうか。又、中国や韓国の人々も、「一面的な見方に固執している事が、結局は(彼等が批判している)右傾化なる方向に日本人を追い込んでしまっている。」側面が在る事も知るべきだろう。
過去を反省する事は勿論大事。でも、もっと大事なのは、未来に向ってどれだけ双方が幸福になれるかを考え合う事ではないか。御互いに言いたい放題では、何も生まれない。
第一鳥居である大鳥居を潜ると、前方には近代日本陸軍の生みの親であり、靖国神社の創建にも尽力した大村益次郎氏の銅像が建っている。多くの参拝者が境内に見えるが、若い人や外国人の姿が目立ったのは意外でもあった。
今から60年前の8月15日、敗戦を告げる玉音放送を日本国民が聞き入るドラマのシーンでは必ずと言って良い程、耳に焼き付く程の蝉の声が響き渡っているが、この日も身体に纏わり付く様な蝉時雨が印象的だった。第二鳥居と神門を潜って拝殿に直面すると、自然と心が厳かに沈静化されいった。この感覚は、知覧特攻平和会館やひめゆり平和祈念資料館、広島平和記念資料館等で感じたものと同じだ。イデオロギーは様々在ろうが、数多の戦没者の御霊を前にすると、彼等の犠牲の上に今の平和を享受出来る我々が存在している事に改めて思い知らされる。この世に未練を残しながらあの世に旅立たなければならなかった数多の御霊に、唯々哀悼の意を表するだけだった。
境内には相撲所が在ったり、「戦没馬慰霊像」や「軍犬慰霊像」、「鳩魂塔」といった戦争に従事した(させられた)動物達を悼むモニュメントが在ったりするのは、不勉強ながら初めて知る事でも在った。
そして、境内の奥に位置する日本初の軍事博物館(パンフレットにそう記されていた。)の「遊就館(ゆうしゅうかん)」に足を運んだ。神代の時代から戦後に到る迄の陳列品の種類及び数の多さは、歴史に深く触れられるという意味でも非常に貴重に思えた。又、戊辰戦争以降に国の為に殉じて亡くなった御霊を祀っている事は知識として知ってはいたが、実際に御霊の写真が数多く掲げられている最後のエリアで、その数多くの中に分け隔て無く埋没するかの様に、東條英機元首相や坂本龍馬氏、高杉晋作氏の写真が飾られているのは何か不思議な感じもした。
”右”の大本山というイメージが正直在ったのだが、中に展示されている品々やその説明書きは”概して”中立なものであったと自分は思う。これ等に付いて、右傾化云々を指摘されるべきものではないだろう。唯、一つ気になった事が在る。それは、館内で放映されていた「私たちは忘れない!」という50分の映画だった。この映画では、「気高き志と愛国心を持った日本人が、多く戦死していった事を忘れてはならない。」という主張が前面に押し出されていた様に感じる。気高き志や愛国心を持つ事は決して悪い事ではないし、戦死していった者を悼むのも自然な感情だろう。だが、問題は映画の中で語られる内容が余りにも一方的に思える事だ。一方的という言葉が不適切ならば、一面的な捉え方に過ぎるのではないかと思えた。
幾つか例示してみたい。視聴しながらメモ書きしていた訳ではないので、細かい表現が微妙に異なっているかもしれないが、ニュアンスとしてはほぼ間違っていないと思う。又、自分にはそう感じられたという部分も、他者にとっては全く異なった捉え方をされる可能性が在る事は理解しているし、自分の意見が唯一無二だとも思っていない事を先に御断りしておく。
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・ この映画は、日清戦争前夜から大東亜戦争での敗戦後迄を取り上げている。日露戦争で日本軍が勝利に到った事を、日本人の気高き志と愛国心の強さがその根底に在ったかの様にナレーションでは強調されていたのだが、その事を否定出来る材料が無いのと同様に、敵国で在ったロシア内部が血の日曜日事件に始まりロシア革命に繋がって行く様に内憂を抱えていて、とても他国と戦争を続けていられる状況になかった事も否定は出来ないだろう。
・ 映画内では大東亜戦争を、欧米列強が己が野望の為にアジア諸国を理不尽な形で占領していった事に対して、アジアのリーダーたる日本が正義の為に立ち上がった戦いとして捉えている。戦争というものは、突き詰めれば国のエゴがぶつかり合い、その対立が極限状態に達した事で起こるもの。その意味で、この捉え方は全く間違っている訳ではない。(日本のエゴが100%無かったと否定出来ないのと同様に。)だが、真珠湾攻撃をサラッと取り上げたのはどうなのだろうか?確かに、アメリカ側が日本を散々挑発しておいて、日本が開戦に踏み切る様に仕向けていた形跡は見受けられる。だから、真珠湾攻撃自体は悪いとは言わない。でも、”結果的に”であれ、宣戦布告を成さないで攻撃したという事実が語られていないのは片手落ちではないだろうか。
・ 日本が満州国樹立に協力したり、アジア各国を支配下に置いた事を、欧米列強の悪辣さから守る為という捉え方をしていた。この点に付いては賛否色々在るだろう。だが、100%否定出来る材料も無いと思われ、この点は取り敢えず置いておく。唯、ナレーションで「日本兵は”一人たりとも”略奪や残虐行為を成さなかった。」と語っていたのはどうかと思った。戦争という日常ではない異常な世界に於いて、略奪や残虐行為を一人たりとも成さなかったというのは常識的に考えられないと思うし、又、他国だけではなく実際に従軍した日本兵の側からもそういった行為を成したという証言が幾つも出ている以上、全く何もなかったと断言してしまうのは無理が在ると思う。
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新しい歴史教科書をつくる会のメンバーが執筆し、扶桑社から出版された「改訂版 新しい歴史教科書」。この教科書を巡って、多くのメディアが「歴史修正主義的な内容に過ぎる右傾化したものだ。」とバッシングしている。自分は未見なので何とも言えないのだが、このブログを訪問して下さる方を含め多くの方が実際に読まれた上での私見を書かれているのを拝読した限りでは、さして大騒ぎされる様な極度に偏った内容ではない様だ。実際、先日のラジオ番組内で爆笑問題の太田光氏も「実際に全部読んだけど、そんなに問題視される様な内容ではなかったと思う。」と語っていた。もしそうならば、マスメディアによる世論誘導がこの教科書に働いていたと言え、決して許される事ではないだろう。
しかし、同時に太田氏が発言していた内容にも共感を覚えるものが幾つか在った。
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「日本海海戦で日本軍がロシアのバルチック艦隊を打ち破った件を、さも勇ましく愛国心を煽情するかの様に描いていたが、あれはどうなのかなあと。今時の子が、そういった形で愛国心を高めるとも思えないんだけど。」
「学校で歴史を教える前に、『此処に書かれている事だけが真実ではない。』って言うべきなんですよ。一つの事象を取り上げても、幾つかの見方が存在する訳で、少なくとも否定する材料が無い事柄に付いては教科書に全てを載せるべきじゃないかと。其処から、生徒個々人が自らの頭で何かを学んで行けば良いと思うんだけど。」
「教科書”を”学ぶのではなく、教科書”で”学ぶものだと思うんです。」
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現行の入試制度等を考えると、全ての事柄を教科書に盛り込む事は現実問題として難しいだろう。理想論になってしまう事は充分判っている。でも、一面的な事だけを扱うのではなく、多面的に扱う事は非常に重要だと思う。そして、「私たちは忘れない!」で気になったのも、この多面的な捉え方が欠落している様に感じられたからなのだ。
所謂南京大虐殺で、中国側が白髪三千丈的とも思える死者数と並べ立てて日本を糾弾する。この一面的な捉え方も自分は受け容れ難いが、だからと言って虐殺自体が全く無かったとする日本側の一部の意見も受け容れ難い。中国側だけではなく、日本側の関係者の中からも虐殺行為を認める意見が在る以上、絶対的に虐殺行為が在った事を否定するのは無理が在ると思う。「Aという意見も在るが、Bという意見も在る。でも、あの状況下ではA(乃至はB)で在った事を自分は否定出来ないと思う。」というならばまだしも、「Aが絶対的に正しくて、それ以外は全く間違っている。」という論調では、中国や韓国の”話が出来ない”連中と同類になってしまわないか?真に気高き志を持った日本人で在るならば、そういった連中と同じ土俵に上がる事なく、多面的な見方をした上で、罵倒ではなくコミュニケーションを図るべきではないかと。
自虐的史観で自国を見詰めるのはウンザリだ。でも事の大小に関わらず、起きた事が完全否定出来ないもの迄も、自国を美化する為に完全否定する事も又ウンザリ。中国や韓国の話が出来ない連中を否定するからには、自らもそういう立場になってしまっては、何等説得力を持たないのではないだろうか。又、中国や韓国の人々も、「一面的な見方に固執している事が、結局は(彼等が批判している)右傾化なる方向に日本人を追い込んでしまっている。」側面が在る事も知るべきだろう。
過去を反省する事は勿論大事。でも、もっと大事なのは、未来に向ってどれだけ双方が幸福になれるかを考え合う事ではないか。御互いに言いたい放題では、何も生まれない。
当方のブログへのコメントと本記事のご紹介、ありがとうございました。
このエントリ、とてもまとまっていて本当に素晴らしいですし、また皆様のコメントも興味深く拝見しました。
私は時間切れで遊就館の見学はできなかったのですが、特に「私たちは忘れない」の映画は一度見てみたいと思いますし、日を改めてぜひもう一度足を運んでみたいと思います。
> 多くの参拝者が境内に見えるが、若い人や外国人の姿が目立ったのは意外でもあった。
私も同様の感想でした。
それにしても、当該エントリに限らず、貴ブログは勉強になります!
自ブログは、単に中年のおっさんが戯言をグダグダ書いているだけのもの。歴史が好きなので、それなりにその手の書物は読んでいますが、史学等という高尚な学問は全く無縁の人間。Kazu様の記事を拝読させて戴き、己の雑文ぶりに眩暈を感じている所です(笑)。
沖縄は非常に複雑な歴史を持っている地域だと思います。江戸時代に薩摩の支配化に置かれていた琉球。そして戦中に於いては、多くの無辜の民が、日本政府(軍部)の犠牲となって散って行きました。言葉は良くないのですが、時の為政者達に良い様に利用され続けて来た歴史という感じが致します。
沖縄の人々が本州在住者を「内地の人」と呼び、「うちなんちゅう」と自らを名乗るのも、利用し続け&最後には放置した為政者への反感と、辛い環境下で堪えて来た同士への誇りが在るのではないでしょうか。
沖縄(琉球)の歴史は、本州のそれに比べると深く掘り下げられていない様に感じます。唯、ここ数年TV番組等で沖縄が取り上げられる頻度が上がりましたので、その事で沖縄の歴史にももっと光が当たって行く様になるのではないかとも思っております。
これからも宜しく御願い致します。
実証的なやり方をされている事から正式に史学を学ばれた方なのかと思いました。僕は司馬作品から史学に関心を持ったものですから史学の基礎的な手法を知りません。
出来ましたら僕のブログをご覧頂いて一言ご指導コメントを頂ければと思います。
宜しくお願いします。
自分も完璧に勘違いしていました(^o^;;;。ドイツでは「戦争」と「ホロコースト」を分けて考えているという事ですよね?確かにそう言われてみれば”自分の頭に浮かぶ”「反省の色を明確に打ち出している」モニュメントは、ホロコースト絡みの物ばかりです。世界史に疎い事は自覚していたのですが、非常に勉強になりました。有難うございます。
韓国と中国が騒ぎ立てるのも、「戦争の平和条約の対象ではないから」というのも成る程です。賠償責任という事ではないにせよ、日本が少なからずODA等の援助を続けて来た事を意図的に(としか思えないのですが)自国民に知らせて来なかった彼の国の遣り方には自分も抵抗を覚えていましたが、こういった背景も在った訳ですね。
「A級戦犯を強調し過ぎる事で、逆に戦争に進んで行ったメカニズムが見え難くなってしまっている。」というのは同感です。右左問わず、戦争という不幸な歴史を繰り返さない為に、冷静に過去を見据えて行く事は本当に必要ですね。
それにしても、他の方の所でも書かせて戴いたのですが、今の若い子の間では「A級戦犯」を真剣に「”永久”戦犯」と思い込んでいる人が少なくないという話です。それだけ、”歴史の世界”に入ってしまった事柄なのかなあと思うと同時に、積極的に様々な情報に当たって行く事が老若男女を問わず大事なのではないかと感じますね。
これからも宜しく御願い致します。
これは多くの日本人が勘違いしていることなのですが、ドイツは戦争について謝罪も賠償もしていません。有名な西ドイツ首相がワルシャワで跪いて謝罪したのは「ホロコースト」に対してです。
戦争というのは国家間のことですので、最終的には平和条約と戦後賠償によって終了します。しかし「ホロコースト」はユダヤ人という個人の人種の問題ですので、補償は個々人に対して向けられます。そして対象者にはドイツ国籍の人を含むこと、そして当時国際法によって認められていた戦争とは異なり文字通り「狂気」であることから、優先して積極的に対応策が実施されてきたわけです。ドイツ首相はロンドンをV2ロケットで爆撃したことやオランダやベルギーといった中立国を侵犯したことに対して謝罪も賠償もしていません(冷戦・東西分裂=正当な政府が無いといったことも原因ですが)。日本はソ連を除く戦争当事国全てと賠償・謝罪を済ませています。
韓国と中国(中華人民共和国)だけが騒ぐのは、彼らが戦争の平和条約の対象ではないからです。そもそも日本は韓国とは戦争していません(ですので戦争犯罪に関するA級戦犯がどう彼らに関係するのか理解に苦しみます)。また日本は既に中華民国と平和条約を締結しており、中華人民共和国が「1つの中国」を標榜する以上、1つの国と2回平和条約を結ぶわけにはいかず、従って戦争の平和条約・賠償条約の対象では無いのです。
彼らが(この2国のみが)南京やら慰安婦やら強制連行を強調するのは、戦争賠償という観点ではお金が取れないので、日本も「ホロコースト」と同じことをした、と言いたいわけです。ところが「ホロコースト」という狂気を行うには(マインカンプのような)何か強い理由が必要なわけで(全く合理的ではないですから、お金も時間も資源も無駄遣い)、その為に、「日本人は世界で最も残酷で残虐」と強調したりあるいは「田中メモランダム」を作り上げたりする必要があるわけです。
私が思うのはA級戦犯を強調しすぎることで、逆に戦争に進んでいった本当のメカニズム(誰が何故戦争を始めたのかということ)が見えなくなってしまっているのではないかということです。冷静に考えることすら難しくなっていることが問題だと思っています。私は別に防衛戦争だとは思っていないし将来同じことを起こさないためにも冷静に考えていく必要があるのではと思っています。
TBありがとうございました。またお返事が遅くなってしまい申し訳ございませんでした。
いただいた内容をベースに記事を書いたのですが草稿のままなかなかアップできません。
今回の教科書や靖国に関しては、ものを知らない市民に対して「悪いことだ」という刷り込みをしようとしたり「愛国心を」と過剰な期待を煽ったりとしているように思います。
メディアというのは火のないところに煙を立てて火事まで起こすのを仕事にしていますが、こと教科書や靖国は国益を大きく損なうので、いいかげんメディアの好き勝手にはさせずに各自がしっかりと自分の目で確認すべきだろうと思います。
日本国民すら読ますにコメントしている教科書ですが、外務省は韓国語や中国語への翻訳を検討しているようで何よりです。
>それが法律論なのか(国内法なのか国際法か当時の法か)道徳論なのか(日本OR外国のか)宗教論・慣習の話なのかごちゃまぜで、ある人が国際法の話をしだすとその反論に宗教論をする、みたいに、議論がかみ合っていないところに問題があります
僕もそう考えています。
ただ、中国や韓国の人のとって、日本人がA級戦犯とされる人が祀られる宗教団体に参拝する事は、これらの国の背景、教育、政治を考えると当然なのかもしれません。
また、仮に首相をはじめ公人とされる人が参拝する事に問題があったとしても、それを規制するものがなにもないという現実もありますね。
一般法自体には当然ないですし、憲法の正教分離でもってそこまで規制できるかも疑問ですね。
最高裁の判断はまだですし、過去の他の宗教の裁判の判例を照らしあわせて考えれば「違憲とはいえない」とみるのが妥当のような気がします(どうしてかってのまではなすと、長くなるので割愛します)。
結局、法律問題にできないから、歴史問題になり、道徳的問題になり、思想的問題になり、挙げ句の果てには感情論になってしまうような気がします。
あえて、感情的問題として考えると、
「相手の気持ちを考えると、首相が参拝すべきではない」
というかんがえがあります。
この場合の相手は、中国、韓国、北朝鮮でしょう。
先日、TVである方が言ってました。
その方は、夫が戦死して靖国に祀られている妻のようでした。
「どうして、首相は参拝していただけないのでしょう。納得がいきません。」
大日本帝国(あえてこう書きます。)は、碓かに加害国かもしれないが、この女性は被害者でしょう。
少なくとも、加害者ではありませんね。
この方の、気持ちは考慮する必要はないのでしょうか?
疑問が残ります。
こう考えると、この問題が解決することがあるのか?とさえ思います。
僕の考えを整理すると、
1)一般法では、公人の参拝を規制できない。
2)靖国参拝を違憲として、規制するのも無理であろう。
3)靖国参拝を規制する法律を制定するとそれこそ憲法違反になる可能性がある。
4)その他の問題として解決を図ろうとすると、関わる人の背景が複雑であり、考えをすりあわせる事は難儀である。
4)についてですが結局、日本人がせめて公人とされる人だけでも参拝するのをやめるか、中国、韓国、北朝鮮が、日本人が靖国を参拝することを理解するかという選択になるような気がします。
そして、どちらを選択しても、それを批判する人がいて、問題の解決になっていないということなんでしょうね。
>唯、ドイツが此処迄する必要が在るのだろうか?と思う程、戦争被害国(本来は戦争した国全てが被害者の立場で在るとも思うのですが。)に対して反省の色を明確に打ち出しているのは知っています。
個人的には、選挙で選ばれたナチスと、東條が首相になった経緯、また戦時中に東條が失脚したことを比較すれば、相違点が多くドイツがこうだから日本はこうしなければならないということはないと考えています。
もちろん、だからこそ問題が単純ではなく複雑なものになっているような気がします。
靖国問題以外もね。
先ず最初に、上でkawahara様が書かれておられる事に頭を殴られた思いが在りました。と言うのも、頭の何処かで「右派=全て靖国神社に賛成」という思い込みが在ったからなのです。でも、良く考えてみれば仏教徒の人間が神道を受け容れ難いという可能性は充分考えられる事。改めて、思い込みの怖さを知らされた次第です(^o^;;;。
靖国問題が論じられる際、「何が問題なのか?」が曖昧になっているのは感じますね。「朝まで生テレビ」の様に、それぞれの立場の人間が一面的な意見ばかりを投げ合っているというのが大半。「戦争」に付いて、「道徳的見地」や「法的見地」、そして最優先される「勝者の立場での見地」はそれぞれ意見が異なる様に、何を以ってして論じるべきかを区分けしないと駄目なのでしょうね。
自分は個人的な興味から日本の近・現代史の資料はそれなりに読んでいます。でも、それ以外の時代は意外と知らなかったりします。歴史って、或る時代だけをスパッと切り取って論じるのもどうかと思うので、そういう意味では自分の意見も一面的なのかもしれません。ましてや、世界史はかなり疎いのが困った所です。唯、ドイツが此処迄する必要が在るのだろうか?と思う程、戦争被害国(本来は戦争した国全てが被害者の立場で在るとも思うのですが。)に対して反省の色を明確に打ち出しているのは知っています。日本がまずい所は、反省を口にしながらも、しばしば政治家が軽率で無配慮な発言を繰り返す所ではないかと。どういう思想・信条を持とうがそれは個々人の自由ですが、首相と同様に立場を考えて軽々しく言葉を発するのは控えるべきかと思います。決して、他国に媚び諂う必要は在りませんが、挑発的な発言はどうかと。
それと、「新しい歴史教科書」が昔の教科書よりも自虐的な面が強いというのも驚きです。かなり興味を惹かれましたので、時間を見付けて読んでみたいと思います。
P.S. 「受験に必要なのは暗記であり、教科書の記述はどうでも良い。」という事は、記事内で書きましたラジオ番組で、太田氏の他に参加されていた方(御名前は失念してしまったのすが、ジャーナリストの方だったと思います。)だったと思いますが、同じ様な事を言っておられました(笑)。
日本人が歴史を知らないというのは当たっているかもしれません。日本はソ連との国交回復に、また国連加盟の最初の代表にA級戦犯を送っています(満場の拍手で迎えられたそうです)。ソ連も国連もA級戦犯を日本の代表として相手したわけです。A級戦犯として逮捕された人を首相にしてますしね(でもなぜ当時に抗議がなくて今問題になっているのでしょう)。日本が戦前に朝鮮半島を支配していたように南洋諸島も支配していたのをどれくらいの人が知っているでしょうか。その日本の支配下にあったパラオも大統領が靖国を参拝しています。中国と同様に日本に侵略されたソロモン諸島の大統領も靖国を参拝しています。日本が韓国を併合したようにドイツもオーストリアを併合したことをどれくらいの人が知っているでしょうか。朝鮮兵の多くが最前線ではなく捕虜収容所の担当になったようにオーストリア兵もユダヤ人の発見や輸送の担当になりました。そして1993年にオーストリアの首相はイスラエルに謝罪に行っています。まあ日本人がどう考えるかとは別かもしれませんが。
あたらしい教科書是非お読みすることをお勧めします。日本サッカー協会とヤタガラスのエピソード等読み物としておもしろい部分もあります。そして気づくのは私達の中高の時の教科書と比較してかなり「自虐的」だということです(この言葉は好きではないのですが)。私のように中高大生時代にマルクス主義歴史観にどっぷりとつかった者でもそう思います(マルクス主義歴史観は個別の「虐殺」等にはあまり注目しませんからね)。でも実は教科書の役割なんて大きくありません。受験に必要なのは暗記ですから。高校の時の中間試験なんて徳川15代将軍の名前を全員順番に漢字で書け、なんてものでしたから、教科書の記述なんてどうでも良いと思ってます(なぜマスコミはそこに注目しないのでしょうね)。
私は西日本に住んでいて中々東の方へ行く機会がないので残念ながら靖国神社を参拝する機会に恵まれておりません。
ご指摘の通り実物を見ずして批判をするということは、適切ではないかもしれません。しかしながら、靖国神社が明治維新後の日本の国策に大いに貢献した神社であること、また靖国神社のサイトの主張を見る限りでは、靖国神社のあり方には疑問を抱かざるを得ません。
東京裁判の評価ですが、私も理不尽なものを感じておりますが、戦争に勝敗はつきものであり、日本でも「勝てば官軍」という言葉もあるとおり、敗者が理不尽な思いをするのは、ある意味仕方がないと思います。そのような思いをしたくなければ何としても負ける戦争は避けるべきだったと思います。日本人に「韓信の股くぐり」はできない国民性でしょうか。
扶桑社の教科書ですが、本年度版を書店で立ち読みしましたが、左派が「子供達を戦場に送り込むもの」といきり立つものでも右派が「愛国心や日本人の誇りを取り戻すもの」を歓迎するものでもなく、単なる教科書といった印象がありました。ただ、今年度版は採択率を上げ、実績を積むために表現を穏当にしたとも言われていますし、採択率が上がれば「豹変」するかもしれません。また扶桑社教科書のマスコミによるバッシングですが、印象操作というよりは、「つくる会」メンバー及びその支持者の過激な発言が、マスコミをミスリードした部分があるのではないでしょうか。
いずれにせよ、コメントでご紹介のありました通り日本ではこのように国家のあり方にもつながる歴史観による議論ができるということは、自由な国であると思います。それにしては日本人の多くは歴史、特に近代史を良く知らないというのも悲しい事実であると思います。
靖国神社に関する議論で、明治維新以降の歴史に多くの人が興味を持ち、多面的に理解できていければ、日本人にとっては逆によかったことになると思います。
私としても過去を美化して教えるのはどうかと思いますね。
確かに領土問題、戦争問題、派兵問題と、何かにつけて日本が非難されるのを聞くのは良い気分ではありません。
しかし当の日本が何でも良い方に誘導するのはどうなのでしょう。
私もくだんの教科書については読んでいないので何とも言えないのですが、過去の歴史について学ぶ方法は限られているのだから、国民にとって近しい筈の教科書は努めて誠実に伝えて欲しいものです。
靖国神社問題、参拝を是とする小泉首相にも頷けますが、一国の首相である以上、諸外国への反発を押し切ってまでとなると配慮もすべきなのかなという気もします。
確かにA級戦犯とした東京裁判自体の疑問は囁かれていますし、祀られた人達は日本の為に戦った人達です。
ただ日本が正しかった訳ではありません(どこが正しいとは言えないのですが)。戦争では何人もの人達が命を落とし、日本もその戦争に加担していたのですから。
ただ無理やり気持ちに蓋をさせるのも頂けないですね。批判が出るのは仕方ないにせよ、参拝そのものが間違っているとは思いません(とは言え個人で参拝するのは立場上難しい、もしくは無理なのかも知れませんが)。
私も参拝はおろか、靖国神社関連の書籍を手に取った事すらありません。
事情を知らないと言われれば、確かに私は勉強不足なのですが・・・。
で、撮った写真等を今は認知症の祖母に送るわけです。祖母はどうやら靖国に行ったことがあるわけではないようですが、数年前までは「私」と「靖国」に大いに反応していたそうです。今はそれもないそうですが・・・。
靖国神社に関してはいろいろな観点があるでしょう。例えば右派の論客・福田和也は「仏教徒として死んだら靖国というのは受け入れがたい」、と朝日新聞に語っています。実際、寺院関係者は靖国を良く思っていない、と聞きます。私も親たちも全面的に支持しているかというと微妙です。遺族会に対してもそれは同じです。まあ田舎のことで、護国神社への寄付を集めに来る係りの婆さんがいわゆる「放送局」的婆さんでやたら遺族年金の額をしつこく聞いてきたり、祖母が老人病院に入ったのを近所の人に「あのうちは遺族の金をでかいこともらっとるからや」と陰口を叩かれ、どうも出所は「放送局」婆さんとその取り巻きだったり、と非常に個人的な不信感があるせいもあります(笑)正直当事者たちはなんだか「もらっている額」にこだわる感があり、「靖国」等は二の次の感もあります。また田舎のことなので「遺族年金までもらっている」とかなり恵まれているらしく、それへの妬みや怨嗟も時折、「遺族ではない」イジワル婆さんにつつかれ不愉快なこともあるようです。
>日本兵は”一人たりとも”略奪や
父の話では昔父の実家の近くに「梅毒の元将校」がいたそうです。で、皆「外地でやりたい放題やってきたからだ」とかなり冷たくしていたそうです。で、いつのまにかその人物はどこか人目の付かないところへ消えた・・・とのこと。また母方の法事となると必ず年寄り(現在80代の方々です)の話題は「戦争」です。上官のイジメがどうとかかなり際どい話をしてます。正直、戦争が風化しているからこういう考えや美化が起こるのかな、と思います。
長文失礼しました。
「戦争を知らない子供たち」という歌が在りましたが、自分はその喩えでいけば「戦争を知らない子供たちの子供」という事になります。従って、第二次大戦を体験している訳でもなく、祖父母から聞いた話や映像&書籍等によって情報を得ているというのが実情です。実際に体験されて来た方々や、専門に調べられておられる方々からすれば、「何も知らない癖に、知ったかぶりをするな。」と言われるかもしれません。でも、自分なりに色々情報を当たった上で、自分の頭で考えた意見というのは大事だと思うんです。その意見は、人それぞれ違うでしょう。又、人によって情報の多さや深みは違うでしょうが、それだけで「何も知らない癖に。」としてしまう事が在ってはいけないと思っています。
前置きが長くなってしまいましたが、今回のhigu様の御意見には自分も全く同意の思いです。
何度かこのブログでも書いていますが、戦争という或る種異常な世界を、平常時の理屈で捉えるのは無理が在ると思っています。平常時では、人一人殺せば当然殺人として断罪されますが、戦時下に於いては人を多く殺す事が尊ばれ評価される世界。唯、これも勝戦国になった場合で在り、敗戦国となった場合には、勝戦国の論理が例え”平常時に於いてはおかしな事で在っても”勝戦国の論理がすべからく正とされるのが現実。過去の歴史に於いては日本も、勝戦国となった際にはその論理で敗戦国に当たって来たと思いますし、又、それは日本だけではなかったと思うのです。
東京裁判には賛否両論在ります。日本人の一人として、”心情的には”あの裁判を否定する意見が在るのは理解出来ますが、とは言えどういう形で在れ、少なくとも一旦は受け容れた(受け容れざるを得なかったにせよ。)以上は、後からどうこう言うのも、何か今回の自民党の反対派議員達の様でどうかと考えます。重複しますが、戦時下並びに敗戦時の論理を、平常時の論理と比較するのは現実的ではないと自分は思うのです。
首相の靖国参拝に付いても以前書きましたが、個人的には避けた方が良いと思っています。戦没者を悼む気持は大事だと思いますし、首相がどの様な御考えを持とうがそれは自由です。でも、一国のトップという立場で在れば、日本を問わずそれなりの制約が在って然るべきかと。近隣諸国に媚び諂う必要は全く在りませんが、少なからず過去の歴史に於いて”結果的に”近隣諸国に不快の念を起こさせる事(事の大小を問わず。)が在った以上は、首相の立場で参拝する事はどうかと思うのです。それに、”真に”戦没者を悼む気持が在るので在れば、”あの日”に”あの場所”に固執する必要は無く、例えば自宅に於いても365日哀悼の意は表せると思うのです。(ましてや、ゾロゾロ徒党を組んで参拝する議員連中の姿には、票欲しさのさもしさしか自分は感じられません。行くなら正々堂々と一人で行くべきかと。)
日本だけではなく、その近隣諸国の人々も、無知で在ってはならないと思います。その知識の深さ&広さを問題にしているのではなく、全く知ろうとせずに他者を責め立てるのはどうかと思うのです。一面的な考えだけを絶対視して、他者を責め立てるだけでは生まれて来るのは双方に対する憎しみだけ。これは双方にとって不幸でしょう。
先日、爆笑問題の太田氏がラジオ番組で「新しい教科書」に付いてコメントしていた事を記事内で触れましたが、その際に同席されていた方(御名前は失念してしまったのですが、ジャーナリストの方だったと記憶しています。)が、或る中国人から言われた言葉を述べておられました。それは、「日本人は自国の歴史に付いて、”自由に”語れるから良いですね。我が国では、政府が良しとした歴史観を教科書で叩き込まれるので、それ以外の歴史観を持つ事が出来ないんです。」と。そのジャーナリスト氏は、「日本の歴史観がきちんと定まっていない事や、教える側もどう教えて良いか揺れ動いている事が、皮肉な事に結果的には日本の若い人が色んな歴史観を持つ事に繋がっているのかも。」としていました。そういう見方も出来るんだなあと思ってしまった次第です(笑)。
それと、「死者に鞭打たない」という美学に付いては、自分も以前記事にしました。戦犯の話は別にしても、全ての死者に鞭打たない姿勢というのもどうかなと思うのです。死者に鞭打たないというのは日本の美徳でも在るのでしょうが、それが良くない面に出ている気もするんです。例えば、日本では一定間隔で大規模な汚職事件が発生しています。大概の場合、下っ端の人間が一身に泥を被って自殺(もしかしたら、自殺という形で殺されている場合も在るかもしれませんが。)し、その事で捜査や追及が中座するケースが殆ど。どんな悪辣な事を成した人間でも、死んでしまった段階で「良い人」になってしまい、死者に鞭打たない事が美徳とされる中で、事件そのものも徹底追求されずに終わり、それが故に同じ様な事件が繰り返されるのではないかと。勿論、他にも要因が在りましょうが、時によっては死者に鞭打つ形も必要なのではないかなあと最近良く思います。
長々とした文章になってしまって済みませんでした。
ピアノマンや旧日本兵発見の報道等、「大山鳴動して鼠一匹」どころかその鼠すらも居なかったという大騒動の結末。マスメディアの報道を鵜呑みにしてしまう事の危険性を感じさせるものでした。受け手の側で在る我々も、様々な情報に積極的に触れ(自分の目で確かめ)、自らの頭で”咀嚼”した上で、それぞれが理論武装していかないといけないのでしょうね。
自分も他の皆様方のブログの御蔭で、「実物を見ないで批判する」事をせずに済んだ事に感謝しております(^o^;;;。
付け加えれば、日本人のメンタリティーは良い面も悪い面も周辺の国に比べて個性的であることを日本人は意識すべきであると思います。アメリカに国土を蹂躙されるまで(しかも本土の陸戦は無し)、外国に国土を広範囲にわたって蹂躙された経験を持たない幸福が関係しているのでしょう
A級戦犯の問題が靖国では良く語られます。ここで良く言われるのが「死者に鞭を打たない」との考えですがこれは“日本の常識、世界の非常識”の典型たるものですよね。世界標準がいいのかは分かりませんが何かにつけて曖昧な日本と違い、罪人はあくまで罪人の各国。
そもそも東京裁判の正当性事体が怪しいですが、日本はこれを一度受け入れた以上あまり蒸し返すのはまずいでしょうから止めておきます。
誰かが責任を取る、取らされなけねばならなかったでしょうし、当時の日本を取り巻く状況が厳しかったとはいえ日本の首脳達には“責任”があった……。
要は「止められる立場にあったが止めなかった、止められなかった」責任。
納得いかない部分もありますがこれを日本は受け入れた以上、A級戦犯が祀られた靖国神社に日本の首相が参拝することには必ず(体制維持の目的は別としても)内外から異論は出るでしょうね。
一度も参拝したことのない人間が中途半端な知ったかぶりの知識であまり偉そうに言うのは憚れるのですが、根本的な解決は新たな追悼施設を作ること、になってしまうのでしょうか。
気になるのは今の日本人があまりにも“過去”に無知だ、と言われること。柳条湖事件、満州事変、、南京事件、重慶空爆、バターン死の行進、泰緬鉄道……。3・1独立運動や5・4運動。
中韓はともかく、欧米人より知らない、と言われるのはさすがに恥ずかしくないでしょうか。日本人留学生が留学先の欧米で現地の学生と話をして「日本がアジアの人にそんな酷いことをしたなんて知らなかった」という体験をした学生の投書が時々新聞に載ります。
自虐史観には反吐が出ますがこうした投書を読む度、まるで日本人全員が恥をかいたかのような思いに捉われます。
8月6日や9日を知らない、という人もいるのだから無理もない気がしますが。
戦争体験の風化が言われています。かく言う私も戦後の人間、体験してはいません。
ただ最低限知っておくべきことは今からおよそ60年前。日本がアジアに辛酸たる思いをさせたこと、日本人も大変苦しんだこと。そして日本は東京裁判を矛盾はあったものの受け入れて国際社会に復帰したこと。
これらのことは忘れるべきではないかと思います。
けんぼー様ご指摘のとおり、自分の目で見ないまま知ったかぶりはつつしまねばならない、と痛感いたしました。ありがとうございます。
自国の偏向教科書は棚に挙げて頭ごなしに日本を批判するそれらの国が,ウヨ/サヨに属さない中道勢力の反感をも増長してると言えるでしょう.
これらの反日勢力を批判する以上は,ただの嫌韓厨(嫌中厨)にならないよう,自分で勉強していくしかありません.
ただ,既存のマスコミに蔓延る事実の隠蔽と歪曲報道にはホトホト閉口していますので,giant-55さんのように実際に自分の目で確かめなくてはダメですね.
小泉さんが靖国に参拝するのは別に悪いことと私には思えません。ちょっと仏教的かもしれませんが、いくら戦犯も祀られていたにしても、亡くなってしまえばみな仏様。仏様を信じる中国の人や韓国の人たちならば、冷静にそう思えないのかしら?と不思議に思うのですが。(仏様に限らず、キリスト様も同じと思うのですが)土の下に眠る死者にまで鞭打つ仕打ちはしなくても。中国や韓国の方も一度、靖国に行ってみるといいと思います。
自分の考えに固執しすぎて相手を攻撃するのは、何の話し合いにもならないですよね。若い頃の私も気が強く、似たような感じでした。父は、そんな私をなだめ、相手の考えもしっかり聞いて、冷静に「話し合う」ことが必要だ。と教えてくれました。
最近は、年をとったのか、熱くなることもなく、一歩下がり、冷静に相手の話や周囲の状況を(ちょっとは?)見られるようになったように思います。
「けんか」は何も生み出さないけれど、「話し合い」は、きっと何か光を生み出すはず。そのためには、怒りと偏見にもたげた頭を一度ひっこめ、目を閉じて深呼吸するようなことが必要なのではないでしょうか。
偉そうに、すみません。