ば○こう○ちの納得いかないコーナー

「世の中の不条理な出来事」に吼えるブログ。(映画及び小説の評価は、「星5つ」を最高と定義。)

ニコニコし乍ら、足を踏んでいたらしい

2020年04月11日 | スポーツ関連

連日の様におネエ系タレントがTV番組に出演しているが、其の的存在がカルーセル麻紀さんだった。もう50年近く前になるが、父親が見ていた“大人向けのTV番組”に出ていたのが、彼女を見た最初。見た目は女性なのだけれど、喋り方が時々男性になるという、子供心に不思議さを感じさせる人物だった。

当時はおネエ系タレントなんて呼称は影も形も無く、今では差別用語になってしまうのだろうけれど、“オカマ”という呼称が普通に使われていた時代。カルーセルさん自身も自分の事をオカマと呼んでいたけれど、そんな彼女が“オカマの大先輩”として紹介している人物がた。「日本髪に白塗りの顔。紫色の着物を着て、鼻に掛かった声で話す。基本的には女性の喋り方なのだけれど、時にはべらんめえ調の男声で捲し立てる。」という、実に強烈なキャラクターの持ち主で、カルーセルさんは彼女の事を“青江のママ”と呼んでいた。「戦時中、大日本帝国陸軍少尉だった。」という異色経歴を持つ青江のママは、“1970年代の大人向けTV番組”に結構出演していた記憶が在る。

35年位前だったろうか、週刊誌で意外な事実を知った。「青江のママと日本球界の大物OBが、大学時代の同級生だった。」と言うのだ。其れ以降、野球解説の仕事等で彼の姿をTV番組で見掛けると、「青江のママの同級生なんだよなあ。」と思う様に。そんな彼、関根潤三氏が4月9日、老衰にて93歳で亡くなられた。

1950年、近鉄パールス投手として入団した関根氏は、1957年に「65勝94敗」という成績を残す。然し、1957年の開幕直後の試合でノックアウトされた事で、自ら外野手転向を決断。1965年にジャイアンツで引退する迄、打者として「安打数:1,137、本塁打数:59、打率:.279」の成績を残す。“元祖二刀流”と言っても良い存在だが、実は2015年に大谷翔平投手が選ばれる迄、関根氏は「オールスターにて投手と野手の両部門で、ファン投票により選出された唯一の人物だった。」と言う。

世代的に自分は、現役時代の関根氏を全く知らない。初めて彼の存在を知ったのは、長嶋茂雄氏が初めてジャイアンツの監督に就任した1975年、長嶋監督に乞われてジャイアンツのヘッド・コーチに就任した時だった。ジャイアンツは其の年、史上初の最下位に沈み、責任を取る形でヘッド・コーチを辞任。翌年からジャイアンツの2軍監督に就任するも、其の年に解任となった。

以降、1982年~1984年は大洋ホエールズの、そして1987年~1989年はスワローズの監督を務める「チームの成績を上げる。」という意味では結果が出せなかったけれど、「選手を育てる。」という意味では、評価出来る部分の在る監督だった。

又、自身が大洋ホエールズの監督に就任する前、長嶋氏を監督に就任させ様と自らが動くも叶わず、就任会見の席では「ミスター(長嶋氏)が来るなら、何時でも(監督の座を)譲ります。」と言ってしまう程、「生涯、長嶋氏が大好きな人。」だった。

監督としての印象も強いけれど、解説者としての印象はもっと強い。フジテレビ系列地上波で「プロ野球ニュース」という番組が放送されていた時代(地上波で毎日の様にプロ野球の中継が放送されていて、結構な視聴率を叩き出していた時代。)に、彼は其の番組の解説者の1人だった。今では考えられない事だが、此の番組だけで10数人の解説者を抱えていた。そんな中、西本幸雄氏と別所毅彦氏、そして関根氏の3人は“長老格”の存在。今回関根氏が亡くなられた事で、3長老は全て鬼籍に入られた事になる。

「何時もニコニコとしていて、言葉遣いも柔らかい(「デシンセイ、遣るですよ。」と全く外れてしまった“予言”も、今となっては懐かしい。)。」事から、関根氏と言えば好々爺のイメージが在る。でも、古くからの友人で在る根本陸夫氏が潤ちゃんは、見た目は紳士だけど、中身はヤクザ。と語っていた様に、“瞬間湯沸かし器的熱さ”を持つ人だった様だ。今回の訃報を受け、大洋ホエールズ時代の“教え子”で在る山下大輔氏が出したコメントが、非常に印象に残った。

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当時の投手から聞いた話だが、ノックアウトされた時でもニコニコし乍らマウンドに来る。『交代しようか?』と穏やかに話し乍ら、足をぎゅうぎゅう踏んづけるらしい。
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・・・と今回の記事を書いていたら、「映画監督大林宣彦氏が昨日、肺癌にて82歳で亡くなられた。」という報が飛び込んで来た。1977年、商業映画としては彼のデビュー作で在る「HOUSE ハウス」を映画館で見て、其の キッチュな撮影スタイルにすっかり魅了されてしまった。以降、「尾道三部作」等、彼の作品をずっと追い掛け続けて来た程、大好きな映画監督の1人だった。4年前、肺癌で在る事を公表したが、自分の中では「肺癌に負ける事無く、ずっと良い作品を撮り続けてくれる。」と信じていたのだが・・・。新作「海辺の映画館‐キネマの玉手箱」の公開を待たずに亡くなられた事が、本当に残念だ。

関根氏と大林氏の霊に黙祷


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