ば○こう○ちの納得いかないコーナー

「世の中の不条理な出来事」に吼えるブログ。(映画及び小説の評価は、「星5つ」を最高と定義。)

「寺内貫太郎一家」

2006年03月23日 | 書籍関連
先日、久世光彦氏の追悼番組として、彼が演出した「寺内貫太郎一家」が再放送されていた。放送された当時は夢中になって見ていたこの番組。32年前の番組とはいえ、キャスティング及びストーリーの絶妙さを改めて痛感。脚本を担当されていたのが、今は亡き向田邦子女史というのは存じ上げていたのだが、この作品が小説として出版化されているのを、久世氏が御亡くなりになって初めて知った。読みたいという気持ちが抑え難く、書店にて購入し読破。

巻末に盟友の久世氏が解説を書かれている。「恐らくそうだろうなあ。」とは思っていたのだが、主人公の寺内貫太郎は向田女史の御父上をモデルに書かれているのだそうだ。「威張り散らして直ぐ手を上げるくせに、人知れず細かい所に目配りが利いて、身体に似合わず気の小さい。つまり、気は優しくて力持ちの金太郎。」といった感じの方だったと。

そんな父親を主人公にしたドラマという設定は当初から決まっていたものの、肝心なタイトルなかなか決まらなかった様だ。何でもタイトル候補の中には、彼女が後に記したエッセイ「父の詫び状」も挙がっていたという。主人公のイメージから四角張って漢字の多い、それも出来れば左右対称で末広がりに落ち着いたものにしたいというのと、比喩的なものを避けたいという意向が彼女の中には在ったと。

結局、「寺内貫太郎一家」というタイトルに落ち着いた訳だが、久世氏は「(彼女は)第二次大戦の戦記物でも捲りながら、このタイトルを思い付いたのではないか。」と推測している。つまり、寺内正毅氏及び鈴木貫太郎氏という、陸軍大将&海軍大将の名前を一つにしたのではないかと。「一見取り付く島も無い様に素っ気無くて、その実ぶきっちょでそそっかしい、まるで売れない粗忽侠客伝みたいで、何とも素敵な名前ではないか。」と久世氏はしているが、自分も上手いネーミングに思う。

「ヤクザ映画のタイトルみたいだ。」とか、「舞台となっている墓石屋は縁起が悪い。」という声がTV局側からは出されたという。「ゴールデンタイムの看板ドラマの主人公に、当時はドラマ出演経験の無かったド素人の小林亜星氏を起用するなんて悪ふざけも過ぎる。」という声や、「長女の静江の片足が不自由という設定は、身障者問題に発展し兼ねない。」*1という懸念も出たのだとか。

製作に到る迄かなり難航したこの作品だが、一番大変だったのは主役の寺内貫太郎役を小林亜星氏に決定する迄の過程だったという事で、兎に角大反対したのは向田女史。「亜星氏では母が泣く。亡くなった連れ合いがこんな男と思われたら、母は世間に対して恥ずかしくて、街を歩けなくなる。」と迄口にして反対したそうだ。此処迄言われてしまった亜星氏に同情を覚えなくもないが、当時の彼は音楽の方では勿論斯界第一人者だったが、前髪をちょろりと額に垂らした長髪で、キザな金縁の眼鏡をかけて、チェックの派手な上着を着た軟弱で幾らか好色風のイメージだった。(久世氏談)というのだから、彼女が激しく抵抗したのも判らなくも無い。

最終的には亜星氏に坊主頭になって貰い、黒い丸縁眼鏡、裁着袴に毛糸の腹巻、紺の印半纏水天宮の守り札を首から吊るした寺内貫太郎スタイルで彼女に会わせた所、「これが貫太郎なのね。」と呟く様に言った後に笑ってOKを出されたというのは、何やら久世氏のドラマの一シーンを思わせる逸話。

肝心の原作本の内容だが、ラフな文体で読み易い。彼女の他の作品(「思い出トランプ」等。)からすると、ややスマートさに欠ける所も在るが、懐かしい昭和の香りを嗅ぎ取れる作品だと思う。

それと同時に感じたのは時代の差。時代の差と言うよりも、その時代に於ける一般感覚の差と言った方が正しいかもしれない。”週刊ポスト誌上ジャイアンツ総監督”の我等がカネやんは、”放送禁止用語連発王”でも在ったが、未だとそのままの表現で放送するのは不可能(又は困難)と思われる用語が結構目に付く。「」や「聾桟敷」、「デブ」等々。これ等の用語を向田女史は、決して差別を助長する意味では無く、寧ろ差別を否定する意味合いで使っているのだが、そうは言っても当時と今の環境の違いを考えると、使うのは不可能(困難)だろう。

心の隙間を埋めてくれる小説だった。

*1 考えてみると、久世氏が演出した「ムー」及び「ムー一族」の長女役は耳が不自由な設定だった。「寺内貫太郎一家」もそうだが、身障者を決して見世物的な扱いにする事無く、そういった人々への深い愛情を感じさせてくれる設定だった様に自分は思う。

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13 コメント

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世間一般って (帆印)
2006-03-23 06:06:28
障害者がいることが、世間一般なんだしね。

何も隠す必要はないと思うんだ。

そういった面では、ある中国の映画を見たんだが、障害者が出演されていた。老人達の京劇を舞台で演じるようになっていくドラマだったが、この映画を見てて、久世氏を思い出したのは、言うまでもない。映画の出演メンバーを見る限りでは、中国の映画は先進の国だと、俺は思ったよ。映画だけだぞ(笑)
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Unknown (おばば)
2006-03-23 06:36:03
私のブログで紹介させてもらいました。ああ、懐かしい。向田邦子さんも・・。
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再放送 (麗菜)
2006-03-23 08:15:18
麗菜が見たのは再放送なのかな。

障害者…。麗菜も今は障害をもつ人間です。

時の流れ、風情に併せて差別用語になったりならなかったりと言葉のもつ意味合いも感じ方も変化していくようで。



でも、麗菜はそんな言葉より世間からの目が痛い時があります。

変なコメントを書いてしまい申\し訳ないです。
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>麗菜様 (giants-55)
2006-03-23 12:45:56
書き込み有難うございました。



麗菜様は再放送で見られた世代なんですね。若さが羨ましい(^o^;;;。



どの時代に於いても絶対的に許されない差別的&抽象的な言動は在ると思います。それ等は使用が禁止されるのも当然でしょう。でも、昨今の言葉狩り的な風潮、言葉の本質を見ずして上っ面だけの部分で批判し、使用禁止に追い込む状況は、逆差別的で不健全な様に思います。



以前にも書いたのですが、どんな言葉で在れ、それが生まれ来た背景&歴史が在る訳で、安直にそれを使えなくしてしまうのは文化&歴史を断絶させてしまう事になるのではないかと。だからこそ、言葉の使用禁止には慎重になって貰いたいと考えています。



「読売グループに利用されているだけ。」そんな意見も在りますが、あの長嶋茂雄氏が”今”、敢えて”外”に飛び出して、自らの姿を見せている事に深い感動を覚えます。障害を障害と捉えない前向きさ。そして、障害の在る姿を世間に見せる事で、妙な差別や偏見の意識を取り除いて行く事に繋がるとしたら、それは凄く意味在る事だと思います。勿論、自らのモチベーションを上げ、リハビリ効果を上げる事に直結する様にも思いますし。



ですから、麗菜様も他者の目を”必要以上に”気にされずに頑張って行きましょう!
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ありがとうございます (麗菜)
2006-03-23 14:27:48
そうです。再放送でした。とは言うものの、麗菜もよい年です(苦笑)

麗菜が障害をもってることで家族が辛い思いをしてるのではないかと思ったり。

なんてことない一言が場合によっては痛恨の一撃を食らわせてくれることもあります。

麗菜はそうしてだんだん無口な人になってきました。
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>麗菜様 (giants-55)
2006-03-23 19:02:36
書き込み有難うございました。



実際にその立場になってみないと、深く理解出来ない事は多く在ると思います。ですので、何処迄障害者の立場を理解出来ているかというのは、個人的にも甚だ怪しい所では在りますが、出来るだけ我が身に置き換えて考える様にはしています。



口にした人間にとっては何気無い一言が、受け取った側には鋭い刃となって心に突き刺さるというケースは確かに在ります。自分の場合でも、学生時代に父親を亡くしたのですが、(受験の)面接時に面接官から心無い言葉を掛けられました。今となっては、あの立場でそういった言葉を掛けるのも致し方無かったのかなあとも思いますが(もっと適切な言葉を選ぶべきだったとは思いますが。)、当時はかなり傷付きましたね。



でも、それで無口になってしまったら、自らをドンドン追い込んでしまうのも事実。「こんな事しか言えない人って、寂しい人だなあ。」と相手に憐憫の情を持つ位の、自分をより高い位置に持って行ってしまう捉え方も必要に思います。まあ、そういう思いを持つ様になったのは、結構良い歳になってからですが(笑)。
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はい (麗菜)
2006-03-23 20:39:47
そぅですね。

何気ない一言、麗菜も自ブログに書いた『処女だったの?』もそんな一言だったりしました。(苦笑)



しかし、相変わらずgiants-55さんの文章は読みやすいです。

麗菜もうまく文章が書けるようになりたいです。
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>麗菜様 (giants-55)
2006-03-23 23:38:16
文章が読み易いとの事、御世辞でも嬉しいです^^。自身の理解力の悪さを認識している為、記事を書く際には出来るだけ判り易い様に心掛けております。でも、逆にその事で回りくどい言い回しになってはいまいかとも懸念しております。



前にも書かせて貰いましたが、麗菜様の文章って味が在って良いと思いますよ。自信持って下さい。
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Unknown (麗菜)
2006-03-23 23:53:09
giants-55さん、ありがとう!



ぁたし、giants-55さんが大好きです。



本当にありがとうございます。
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天使と悪魔の間で (まなぶ)
2006-03-24 01:07:03
いつも真摯なコメントを有難うございます!



近頃は、新聞を開いてもニュースをみても、目を覆いたくなる事件や事故、そして組織や企業、政界の腐敗など、うんざりしてしまい、一切から目を背けてしまいたくなりました。

しかし、そんなことは精神衛生上は良くても、現実は何も変わらないし、目を背けてしまうのは間違っていると改めて感じました。



「帰ってきたウルトラマン」

その中で、先日亡くなられた根上淳さんが活躍するお話がありました。

“天使と悪魔の間で”

というタイトルでした。

怪獣攻撃隊(MAT)の伊吹隊長が根上さんです。

侵略宇宙人が地球人の少年に姿を変え、伊吹隊長の一人娘に近づくというエピソードです。

正体に気づいた郷隊員(ウルトラマン)が、その事実を隊長に報告、注意を促すのですが、まだ証拠が掴めぬ時点で、伊吹隊長は、

「わが子を差別や偏見で人をみるような子供には育てたくない」

と答え、あえて我が子にはその疑惑を伝えないのですが、

結果的に宇宙人は隊長自身の手によって倒され、宇宙人の顔を曝して死んでしまうのですが、

隊長を気遣い

『娘さんには「少年は遠くに行った」と話せば』

という郷隊員に対し、

「いや、真実を話すつもりだ、あの子も人間の腹から生まれた子だ・・所詮は天使にはなれんよ」

と答える伊吹隊長。

そのエピソードの重さ、伊吹隊長の我が子への思い、世の理想と現実を苦く味わった気分でした。

この世は厳しい。

だけど、我が子、愛する人を永遠に傷つけずに守ることなど誰にも出来ないのですね。

言葉の暴力、暴力、それらを否定して、糾弾することよりも、自分自身を鍛え、この世を生き抜く心の強さを培うことの方が、より価値があるように思います。

今度は同じ目に出会わない様に精神を鍛える。

我が子が傷つき、挫折し、幾つも傷をつくりながら歩いて、強さや人生の方向性を見出すことを、後方から見守ることしか出来ない親心は、辛いものでしょうネ。



こちらの記事でのご意見ですが、私もgiants-55さんの仰る通りだと思います。



先ほどの「ウルトラマン」のエピソードをから

「人はどこまで行っても人なんだ、悪魔にもなれない、天使にもなれない」

というメッセージを、最初は感じたのですが、今では天使も悪魔も、人間の一面を描いたものではないかな?と感じています。

人は過ちを繰り返します。これは避けられません。

二度目のチャンスなどない過ちもあります。

全生涯、命を投げ出しても償いきれない過ちも。

キリスト教の教えの1つに、人は常に試される存在なのだというものもありますね。

生涯にわたって試練を受け続けるのが人間なのかもかもしれません〆



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