安倍政権の目玉にしたいらしい教育再生。国家の将来を担う子供達の教育は非常に重要な課題だと思うし、学級崩壊や陰湿な虐めによる自殺が問題化している中、教育制度に敢然とメスを入れる事自体は評価したい。
福岡県筑前町で中学2年生の男子生徒が虐めを苦に自殺した事件の様に、担任教師が虐めに加担していた様なケースは言語道断で、一人の教師という以前に一人の人間としてどうかと思う様な人は即刻首に出来る仕組みで在って欲しいし、そういった土壌を放置&助長させていた学校及び教育委員会も風通しの良い組織に改善させるべきだろう。
唯、学校や教育委員会だけに教育現場の荒廃の責任を押し付けるべきでは無いと思っている。学級崩壊にしても虐めの問題にしても教師の力量不足云々以前に、本来は家庭が子供達に教え&体得させるべき最低限の常識や躾が全く為されていないのが一番の問題ではないか。「我が家は子供の自主性を重んじている。」というのをエクスキューズにして、その実は単なる親の責任の放棄に過ぎないというのでは、教育現場の荒廃の元凶が何処に在るのか言わずがもなだろう。
だからこそ「教育の再生」が、教育現場のみならず家庭の側にも言及されるのは当然だとは思うのだが、安倍首相の言動を見ている限り、一抹どころかかなりの不安を覚えるのも事実。国歌斉唱&国旗掲揚の強制の是非はさて置き、それさえすれば教育現場の荒廃が収束するかの様な発想はどんなものか。「仏作って魂入れず」という言葉が在るが、立派な仏ばかりを作ってもその中身が伴っていなければ笑止千万と言える。
安倍首相の著書「美しい国へ」には、”魂”と言える彼の政策が具体的に載っている様だ。「様だ」と書いたのは生憎未読な為だからなのだが、その中には「地域に悪影響を及ぼす恐れの在る問題家庭を24時間監視する。」というのが在るとか。近所迷惑といったレベルを超越した問題家庭は確かに存在するので、こういった強制措置が採られるのも100%否定はしないが、でも「問題家庭」の判断基準が為政者達にとって都合良く用いられる、即ち恣意的に利用されると、これは何処ぞの”北の国”の様に統制国家への道を歩む事にも為り兼ねない。*1「そんな大袈裟な。」とか「杞憂に過ぎない。」と一笑に付すのは容易いが、あのヒットラーだって最初は国の救世主として絶大な支持を集めていたのだ。「狼は羊の皮を被って近付いて来る。」という言葉も在る。
安倍首相が教育再生の旗振り役に任じている様な教育担当補佐官の山谷えり子女史。この方に付いては、TVキャスターをされていた頃より存じ上げているが、正直その言動にはかなりの偏り、ハッキリ言うとエキセントリックな面を感じてならない。どんな主義&主張を持とうがそれは自由。でも相手の主義&主張を右から左に聞き流し、一方的に自身の主義&主張をまくし立てている様に”見える”のはどんなものかと思う。申し訳無いが深い思想の感じられない安倍首相と、聞く耳を持たない山谷女史が牽引する教育再生計画には、どうしても懸念を覚えてしまう。
重複するが教育再生は重要課題だし、積極的に推し進めるべきものと考えているが、拙速で安直な結論を引き出すのでは無く、広く且つ深く議論すべきだろう。そして我々国民も、その内容を具に検証しなければならない。国家の至宝で在る子供達の将来が懸かっているのだから。
*1 学生の頃、全国で校内暴力の嵐が吹き荒れていた。幸いにも自分の廻りで校内暴力を目にする機会は無かったが、当時は何処も過ぎた校則が幅を利かしていた時代でも在った。そうでもしないと校内暴力の嵐を抑え切れなかったという事なのかもしれないが、それにしても異常な程の校則の厳しさで、「オン・ザ・眉毛何mm」等という言葉も流行った程。
「眉毛の上から○○mm以内の髪の毛は許さない!」とか「スカート丈は膝下から○○mmでなければならない!」といった校則が厳然と存在し、教師達が定規を手にして逐一計測していた。少しでも伸びた髪の毛は、その場で問答無用に鋏で切り落とされる事になるのだが、教師達の中にはサディスティックな表情を浮かべ、嬉々として切り落としている様な者も居た。理不尽な言いがかりを付けられて、教師から体罰を受けている生徒も。こうなると教育等では無く、単なる教師がストレスの捌け口に生徒を利用しているだけとしか思えなかった。”真面目という仮面”を被り、こういった被害に遭わなかった自分ですら、過ぎた校則には辟易の思いだけ。
今の校則がどうなっているか判らないが、少なくともこういった嫌な経験をしている分、我々の世代は他の世代よりも”必要以上の”権力の介入に敏感な人間が少なくない様に思う。
福岡県筑前町で中学2年生の男子生徒が虐めを苦に自殺した事件の様に、担任教師が虐めに加担していた様なケースは言語道断で、一人の教師という以前に一人の人間としてどうかと思う様な人は即刻首に出来る仕組みで在って欲しいし、そういった土壌を放置&助長させていた学校及び教育委員会も風通しの良い組織に改善させるべきだろう。
唯、学校や教育委員会だけに教育現場の荒廃の責任を押し付けるべきでは無いと思っている。学級崩壊にしても虐めの問題にしても教師の力量不足云々以前に、本来は家庭が子供達に教え&体得させるべき最低限の常識や躾が全く為されていないのが一番の問題ではないか。「我が家は子供の自主性を重んじている。」というのをエクスキューズにして、その実は単なる親の責任の放棄に過ぎないというのでは、教育現場の荒廃の元凶が何処に在るのか言わずがもなだろう。
だからこそ「教育の再生」が、教育現場のみならず家庭の側にも言及されるのは当然だとは思うのだが、安倍首相の言動を見ている限り、一抹どころかかなりの不安を覚えるのも事実。国歌斉唱&国旗掲揚の強制の是非はさて置き、それさえすれば教育現場の荒廃が収束するかの様な発想はどんなものか。「仏作って魂入れず」という言葉が在るが、立派な仏ばかりを作ってもその中身が伴っていなければ笑止千万と言える。
安倍首相の著書「美しい国へ」には、”魂”と言える彼の政策が具体的に載っている様だ。「様だ」と書いたのは生憎未読な為だからなのだが、その中には「地域に悪影響を及ぼす恐れの在る問題家庭を24時間監視する。」というのが在るとか。近所迷惑といったレベルを超越した問題家庭は確かに存在するので、こういった強制措置が採られるのも100%否定はしないが、でも「問題家庭」の判断基準が為政者達にとって都合良く用いられる、即ち恣意的に利用されると、これは何処ぞの”北の国”の様に統制国家への道を歩む事にも為り兼ねない。*1「そんな大袈裟な。」とか「杞憂に過ぎない。」と一笑に付すのは容易いが、あのヒットラーだって最初は国の救世主として絶大な支持を集めていたのだ。「狼は羊の皮を被って近付いて来る。」という言葉も在る。
安倍首相が教育再生の旗振り役に任じている様な教育担当補佐官の山谷えり子女史。この方に付いては、TVキャスターをされていた頃より存じ上げているが、正直その言動にはかなりの偏り、ハッキリ言うとエキセントリックな面を感じてならない。どんな主義&主張を持とうがそれは自由。でも相手の主義&主張を右から左に聞き流し、一方的に自身の主義&主張をまくし立てている様に”見える”のはどんなものかと思う。申し訳無いが深い思想の感じられない安倍首相と、聞く耳を持たない山谷女史が牽引する教育再生計画には、どうしても懸念を覚えてしまう。
重複するが教育再生は重要課題だし、積極的に推し進めるべきものと考えているが、拙速で安直な結論を引き出すのでは無く、広く且つ深く議論すべきだろう。そして我々国民も、その内容を具に検証しなければならない。国家の至宝で在る子供達の将来が懸かっているのだから。
*1 学生の頃、全国で校内暴力の嵐が吹き荒れていた。幸いにも自分の廻りで校内暴力を目にする機会は無かったが、当時は何処も過ぎた校則が幅を利かしていた時代でも在った。そうでもしないと校内暴力の嵐を抑え切れなかったという事なのかもしれないが、それにしても異常な程の校則の厳しさで、「オン・ザ・眉毛何mm」等という言葉も流行った程。
「眉毛の上から○○mm以内の髪の毛は許さない!」とか「スカート丈は膝下から○○mmでなければならない!」といった校則が厳然と存在し、教師達が定規を手にして逐一計測していた。少しでも伸びた髪の毛は、その場で問答無用に鋏で切り落とされる事になるのだが、教師達の中にはサディスティックな表情を浮かべ、嬉々として切り落としている様な者も居た。理不尽な言いがかりを付けられて、教師から体罰を受けている生徒も。こうなると教育等では無く、単なる教師がストレスの捌け口に生徒を利用しているだけとしか思えなかった。”真面目という仮面”を被り、こういった被害に遭わなかった自分ですら、過ぎた校則には辟易の思いだけ。
今の校則がどうなっているか判らないが、少なくともこういった嫌な経験をしている分、我々の世代は他の世代よりも”必要以上の”権力の介入に敏感な人間が少なくない様に思う。
しかし、今、いじめ事件では、学校関係者ににしかマスコミは、張り付いてませんよね。いじめた少年、その親は、
「あ。世間てこんなもんよ。助かったなあ~」と感じているだろうに・・・と、考えると、なんで、この社会はバランスが悪いのだろうと、腹立たしいです。
簡単なこと、学校関係と、いじめた側と両方取材すりゃあいいのに。全国のいじめをしたこどもの家庭を徹底的に調べて、それを純粋に研究の分野にまで昇化させる。そして教育にいかす。
「本来は家庭が子供達に教え&体得させるべき最低限の常識や躾が全く為されていないのが一番の原因ではないのか?」
それについては、まあ・・わかりやすい例がありますね。亀田親子。笑。わざとやってる部分はあるかもしれないけど、それにしても、あの父さんが、子供を、品性のある大人にするのは、それこそ、鼻の穴からスイカを出す!くらい難しいです。
ある、先生が言ってましたが、とにかく態度が悪すぎる子供を注意すると、その悪がきをデフォルメしたような品性も知性も常識も、NO!NO!NO!づくしの親が登場するらしくて・・
つくづく思うに、教育の格差よりひどい悪性の連鎖は・・ほんとに怖いです。
良き社会をめざすなら、結局のところ、一人の子供を一人のまともな大人に育て上げることが大切なのです。過激に言ってしまうと、虐待親からは、躊躇せずに子供をとりあげ、まともな口の聞き方を知らない親は、社会の一般常識を教える「大人の矯正プログラム」に、ほりこむ!!とか。。(少なくても、子供のことで呼び出された職員室で、タバコ吸わないで足を机の上に投げ出さないで、担任の話を聞けるくらいには・・普通にしてやってください・・)
長くなってすいません・・急に思い出したので。。
まだ、まだ、わたしがそんなに亀田親子を知らなかった頃。売り出し中だったのしらん。。「東京フレンドパーク」に出てたあのファミリー。父はカメラの前で、一時間ずっとくちゃくちゃガムを噛み続け、マイクを向けられると、もちろんくちゃくちゃ噛みながら司会者と話していた。司会者も微笑みながら、父にマイクを向けていた。おまけに、父はプレーにも参加してたけど、その時もくちゃくちゃくちゃくちゃ口を動かしてた。。普通のことのように番組を流していたTBS。
ものすごい違和感ありました。。
「地域に悪影響を及ぼす恐れの在る問題家庭を24時間監視する。」ということは書いていません。
そういったことを連想させるような表現が無いとは言い切れませんが、
彼がそんなことをするわけがありません。
出来るはずもありません。
以上
でもいまから考えれば、非常に厳しいモノでした。
頭髪は、男子丸刈り、女子は肩に触れない程度の長さ。
外出は制服かジャージ、などなど。
入学当時は、そんな感じだったと思います。
その後、少しずつ緩くなって行きました。
緩くなったからといって、中学の風紀が乱れたということも無かったと思います。
一方で、最近の中学、高校では僕の時代より、校則は緩くなっているとききます。
校則の厳しさと躾に因果関係があるか否かは、正直わかりません。
ただ、現状がよいとは言えないような気がします。
某県では、コンビニやえきのホームでのお若者の座り込みを防止するため、迷惑座り込み条例なるものができました。
親が、学校が、どうにもできないから、とうとう条例でどうなかしようと仕始めたのかもしれませんね。
・・この方達に限らず、深い思想と聞く耳を持つ政治家がなかなかいないですね。
個性、ということと、自分勝手をはきちがえている親がなんと多いことかと思います。
自分を主張をしたいなら、まず人の意見を聞くべきで、その中に自分の意見を相手に聞いてもらう糸口もある、ということを知らない人ばかりのように思います。
教育問題の恐ろしいところは山谷某のようなものも怖いが陰山メソッドも結構怖いよ、というところ。あとどうも中流家庭ですら子供に関しては高学歴以外望んでいないので教師も結局偏差値でしか子供を見なくなる。高偏差値であればいかに人間性に問題があろうとべた褒め、低偏差値であれば人間性をも否定する(往々にして不良は気の弱い、実は優しい子が多かったりする)。
でも個人的にこのコメント欄、あるいはあらゆる教育問題に関する素人・プロの言論を見て思うのは一言「不毛」。結局日本人は管理教育が一番じゃないですかね?それ以外だと不安らしいし。なんだか「自分は幸せだと思う率」がなんと世界で90位というお国柄は永遠に変わらない気がしてきますが。
福岡の教師のような人は論外ですが、いじめた側の責任が問われないのは絶対にオカシイです。
私は管理強化より校区制度の廃止が良いと思います。
安定して生徒が入ってくることが解かっていれば教師達は良い学校にしようという努力をしない。
生徒・保護者が学校・教育を選べるようにすることが改革の第1歩です。
鴻池元大臣の発言在りましたねえ。「犯罪者の親の顔もTVに晒すべき!」といった事も言われていた様に記憶しています。ハッキリ言って過激な発言で、人権云々を考えれば不適当な発言なのですが、個人的には彼の意見に賛同を覚えたのは事実です。
虐めという行為はどんな御為倒しを口にした所で、決して許されない卑劣極まり無いものだと思っています。そしてこの卑劣な行為自体に上だ下だというのは無いのでしょうが、敢えて言うならば個人対個人の虐めよりも、集団対個人の虐めというものにより嫌悪感を覚えます。
虐めに積極的で在れ消極的で在れ加担していた人間は同罪。勿論、生徒だけでは無く教師に関しても同じです。積極的に虐めを行っていた生徒はそれなりの罰を受けるべきだと思いますし、その親が明白に子育てを放棄していた様な輩ならば、鴻池氏の言動には個人的に頷けてしまう所が在ります。
唯、マスメディアの極端に走り過ぎた報道ぶりは、情報伝達者としてどうかとは思います。確かに今回の事件では元担任が虐めを誘発する要因になった様に思われますし、彼が断罪されるのは致し方無いと思いますが(とはいえ、この教師も自殺すべきだ!的な某巨大掲示板的”祭り”には全く与したく在りませんが。)、そうで在っても被害者少年を虐めていた生徒達が許されるべきものでも無く、元担任ばかりを論うのも妙なものですね。
亀田親子、実はこの記事を書いている中でこの親子の事が正直頭を過ぎりました(苦笑)。パフォーマンスでやっている部分はまあ在るのでしょうが、パフォーマンスと理解せずに、ああいったスタイルが全てに於いて通用すると思ってしまう人達(これは老若男女を問いません。)が居るとしたら、これは困ったものです。
子供は親の後姿を見て育つと言いますね。出来た子供ならば親が駄目でも、それを反面教師にしてまともな人間に育って行くのでしょうが、やはり親が子供に対して誇れる存在にならないと駄目でしょう。教師をしている知人も、問題行動を繰り返す生徒の親を呼び出すと、正に生き写しのスタイルの親が登場するケースが多く、溜息が出ると漏らしていましたし。
TBS、昔はバランスの取れた良い放送局だったのですが、最近は何かその姿勢に疑問を感じる事が少なくなく残念です。
T様は「美しい国へ」を読まれたんですね。自分は記事でも触れました様に未読でしたので、敢えて「在るとか」という書き方をしたのですが、そうズバリ書かれている訳では無いんですね。失礼致しました。近い内にこの本を読んでみたいと思います。情報有難うございました。
安倍氏に付いては当然面識が在る訳でも無く、その人となりを詳細に知る由も在りません。唯、これはあくまでも画面から伝わって来る感じですが、小泉元首相程の”腹芸”が出来る人では無い様に思いますし、どちらかと言えば感情や思っている事がそのまま顔に出てしまう、或る意味不器用な人なのかなあという気はしております。
唯、人間的にどれだけ素晴らしい人で在ったとしても、いざ権力を握ると変わってしまう”可能性”が在るのが人間の哀しい性。人間的には素晴らしくも何とも無い自分ですが(笑)、実際に権力を握ったらセルフ・コントロールをきちんと出来る自信は無いです。
権力とは非常に危ういもの。だからこそ、何処かの野党の様に何でもかんでも権力に対して反対というのではナンセンスですが、権力に対して懐疑的で在る必要は在ると思っております。
凶悪犯罪を為した犯人を知る近所の人々が、「あんな良い人がそんな事をするとは信じられない。」、「物凄く子煩悩だし、会ったらきちんと挨拶してくれる良い人だったのに。」といった事を口にするのが、そう珍しい事ではなくなりました。人間としての安倍晋三氏が仮にとても高潔で素晴らしい人間だったとしても、それがイコール権力者としての安倍首相が素晴らしい人と捉えてしまうのはどうなのかなあと思います。勿論、「権力者=全て悪」と思っている訳では無く、基本的なスタンスとして権力に対しては懐疑的で在った方が良いのではないだろうか?という考えからです。
これからも何卒宜しく御願い致します。