一宮友歩会の例会が10月6日に開催されますが、当日は都合が悪く参加できませんので、今回、コースの下見に参加させて貰いました。
地下鉄藤が丘駅 ― 長久手古戦場 ― 岩崎城 ― 地下鉄赤池駅 と名古屋市の東部郊外を歩きました。
今回、歩いたのは長久手市と日進市です。長久手市はこれまで長久手町だったのが、最近市制を敷き長久手市と名が変わりました。日進市も市になって日が浅く新しい市です。どちらの市も新しい街で名古屋市のベッドタウンですが、所々には古くからの田園的な雰囲気が漂い、両面性の顔を持つ街と言う感じがしました。
長久手市を歩きましたが、長久手市は久手の字を使っていますが、漢字で書くと湫(クテ)で、クテと言うのは沼や低湿地の場所を意味すると教えて貰いました。
そういえは、名古屋市千種区に大久手があり岐阜県瑞浪市に細久手宿がありました。どちらも、湫が語源なのでしょう。
これから、名古屋市から長久手市に入ります。
並木が整備され新しい街ながら、都市計画がしっかりした街の感じがします。
古戦場がシンボルであり、プレートにも古武士が載っていました。
木下勘解由塚。
ポイント、ポイントにこのような表示が有り、携帯から情報を得る事が出来ました。
http://www.n-s-m.net/guide/s01/
掘久太郎本陣跡。
岩作(ヤザコ)城跡の石碑と長久手市役所。
長久手市役所の敷地は城跡でした。
石作神社に着きます。この神社がある所は岩作(ヤザコ)地区なのですが、お宮さんの名は石作神社です。石と岩の違いですが、面白いですね。
石作神社の本殿。右は会長が本番の時に説明して貰らえるか、神社の世話役の人と打ち合わせです。
境内の緑陰では女性たちが太極拳をやっていました。
色金山の床机石とその説明板。
首塚とその説明板。
合戦のとき死者の屍があちこちに累々としていたようです。
それを弔って塚が設けられました。
ここへ来る途中には耳塚の石碑が有りました。
やっつけた敵の耳をそぎ取り、手柄にしたのでしょうが、残酷な話です。
岩作(ヤザコ)の街中を歩いていると洋品店の店先には笠と前ダレが陳列されていました。
店の横には警固祭りの幟旗。この幟旗を石作神社の境内でも見かけました。
警固祭りは棒の手の祭りです。
棒の手は東尾張地方の民間防御武術です。その日が間もなく来るのでしょう。
高架の長久手古戦場駅に停まるリニアカー。
長久手古戦場資料館へ寄りました。
館内に小牧・長久手の戦いが解説して有りました。
信長が本能寺で光秀に討たれて、関ヶ原の合戦までの時期。
信長の嫡男と家康。そして秀吉。
急激に激動する時代背景が感じれます。
資料館横のモニュメント。
文化財に指定されている妙仙寺の山門。
山門の天井絵には四十七士の絵が描かれていました。
字が薄くなり読み難いですが、大高源吾、杉野十平治、片岡源吾右衛門などの名が読めます。
なぜこんなお寺の山門の天井絵に四十七士が在るのでしょうか。
本番になるとはっきりするでしょう。
岩崎城歴史記念館へ到着です。
小高い山が有り、すずかぜ公園になっていました。
この場所には斜面を利用して登り窯が作られ、その跡が香久山古窯として保存して有りました。
八剣社と言うお宮さん。
日進市のレトロでんしゃ館に着きました。
名古屋市の路面電車や地下鉄車両が展示されていました。
夏休みは終わったのですが、日曜日と言うこともあり、多くの親子連れで賑わっていました。
今回は名古屋市東部の郊外を下見で歩きました。
新しい街でありながら古戦場が有り、あちこちに遺跡が点在していました。
下見と言うことも有って、資料館ではじっくり見る事が出来ませんでしたが、またの機会にはしっかりと見たいと思いました。
渡されたコース資料では、歩行距離が16キロ余りとなっていましたが、実際の距離は20キロに近いそうです。
残暑の中でのウオーキングでゴール近くにはヘロへロになりましたが、何とか無事に歩き通せました。