その存在を見ることもないのであるが、日本の神とは、神霊が宿るところにいると思われて、そこにまつられるものである。人間は、という考えもないころに、人類はというあたりであろうか、人が神より生まれる、人が神から人となるという神話を持つ祖先には、人が人となる前に神がいたのである。それを解き明かすと、体と魂のことになる。神は、従って、からだに、はいりくる、たまであるから、それを霊魂として結び付けて、神聖な霊性を伴うところに宿りいます、と見たのである。神は、人が死んだ後にも、魂として体から抜けて、天空にいることになるから、それを集まるところとしての屋形がいることになる。それから、神社として人の死をまつることである、というのは、人の社会に、神の社会であるから、神社には魂が玉となって奉じられている。日本の神は、人々の魂のよりどころであるから、行ったりきたり、つまりは、からだにはいったり、でたりしている。したがっていえば、神に万能はないし、実は霊力もないのであるが、それを宿していそうなところだけは自然界の現象に見い出す日本人、日本民族なのである。 . . . 本文を読む
旗日である。この語も聞かれなくなったが、国旗を掲げることを、明治生まれの父は、昭和30年代半ばまでの我が家の習慣としていた。いまや国の定めた祝日という説明で、この語が忘れらていく。おそらく、その記憶は誰にも受け継がれなくなったのである。それが、国家に忠誠を誓う象徴に日の丸の旗があった、として、そこに加えられたのは忠誠の証である戦勝のことである。旗を出せ、提燈行列だと、その風景は、近代国家日本の歴史を作ったのである。戦勝祝賀の旗、提灯行列、出征者の歓送迎行列、戦死者の葬列と、当たり前に国家が行うことを、民間にも行ったのである。その日章旗と旗日がつながる、という意識があったのだろう。戦争の終結で家族を着の身、着のままで引き揚げで引き連れた父にしてみれば、大陸での戦争の思いには、日の丸の旗には思い入れがあったはずであるから、それを封印したままに、旗日の国旗掲揚だけを自らに許すこととしている、それは複雑な気持ちが交錯したものであろうから、いつか、片仮名のメモ書きをやめてしまった日と重なって、戦後の民主化を受け入れた、そこには旅がなくなった、というように思える。 . . . 本文を読む
国語史を学ぶ人のために、文体史を読む。編者はよく知る人である、その国語学という分野、はしがきともはじめにとも書かず、冒頭に置く一文の主張は、これまたよくわかるところである。いわく母国語を外国語と同列に扱う国に、どんな未来が待っているのだろうか、という言は、変わりない様子によると思いをいたすところ、これをその主張でいわく、総合された国語学を、言語学の一部分であると誤解し、国文学から分離させる傾向が強くなっている(中略)その研究分野は、言語学の下位におとしめられ云々と、その文に書いているのは、面目を髣髴とさせるに十分なまっとうさであるが、その編者による章、第7章である。これを読んだのは、この書の成立を2005年から13年までに遅くさせた難しい文体史の歴史記述にああったのである。いまから4年になるが、このシリーズの刊行時に同様にとらえることはなかったのだが、日本語史を考えると時間の経過が感じられる。国語史の困難さは表記、文体に通史をえがくことにある。それは、これからもかわることはない。 . . . 本文を読む
北朝鮮がミサイルを発射というニュース、東京メトロが地下鉄の運転を見合わせた。朝の5時半にミサイルを一発、発射したニュースが韓国から発表があり、数分の飛んで着弾することなく失敗したようだ。政府は首相官邸で国家安全保障会議、NSCの関係閣僚会合を開催した。国家安全保障会議 National Security Council 、日本は内閣に属する国家安全保障会議がこれにあたる。国家安全保障会議に、首相、官房長官、外相、防衛相によって構成される、4大臣会合である。 . . . 本文を読む