今回も18世紀にたてられた、女性のお墓に彫られた如意輪観音です。室町時代の御伽草子(おとぎぞうし)である小町草紙には、「(小野)小町(おののこまち)は、如意輪観音の化身なり。又(在原)業平(ありわらのなりひら)は、十一面観音の化身なり」とあるそうです。
八坂神社(高田町209-1)
正徳2年(1712)のような気がしますが、違うかもしれません。もしあっていたら、3代綱條(つなえだ)の時代です。水戸紀年を見ると、この年、村を離れた人たちを戻させる、「正徳年中人返の法」が令されたとあります。
童子塚共同墓地(元石川町)
享保(1716-1736)は見えますが、その下は墓石が割れたようでよく分かりません。享保年間は3代綱條、4代宗堯(むねたか)、5代宗翰(むねもと)の時代です。
小吹町の墓地(小吹町)
宝暦6年(1756)とあります。また、7月望日(ぼうじつ)ともあります。望日は、陰暦の15日のことで、満月なのでそういうようです。水戸紀年によると、この年に、羅漢寺を建てた木喰僧(もくじきそう)・観海に、藩は134石余の地を与えたそうです。5代宗翰の時代です。
円通寺(千波町1227)
宝暦11年(1761)とあります。円通寺境内にある身替わり地蔵のあたりにある石仏群の中の一つです。水戸紀年には、江戸小石川藩邸へ老中が能を鑑賞に来て、その際に出されたお膳の鯛は、1尾金二分と銭900文(今の感覚で2.5万円くらいでしょうか)だったそうです。それを100匹買ったそうです。「其(その)他費用推(お)して知るべし」と宝暦12年の項にあります。魚1匹で、お墓はできたのでしょうか。これも宗翰の時代です。
見和共同墓地(見和)
これは宝暦12年(1762)です。水戸紀年では、この年、厨房から火が出て、藩邸が焼け、宗翰は、駒込の下屋敷へ待避したそうです。当たり前のことですが、江戸とは全く違った時間が水戸では流れていたようです。