黄門神社(三の丸2-2-4)
朽(くち)残る老木(おいき)の梅も 此宿(このやど)のはる(春)に二たひ(二度)あふそ(会うぞ)嬉(うれ)しき
徳川光圀は、家老・三木之次(ゆきつぐ)屋敷で生まれたそうですが、母・谷久子は生誕を前に庭へ梅の実をまいたそうです。後年、40歳のとき、三木屋敷で花見の宴をもよおし、その際に光圀の詠んだのが碑の歌だそうです。光圀没後、梅の木は瑞竜山の徳川家墓地に移植されたそうです。碑の歌は、水戸徳川家13代圀順(くにゆき)の妻・彰子の書だそうです。
神崎寺(天王町8-17)
億光年の 深き空より くる光 理解のそとに 野の花はさく
作者の大高冨久太郎は、明治35年生まれで、家業の呉服店を継ぎながら短歌をつくり、昭和8年には歌友とともに歌誌まどを発刊したそうです。昭和17年に作歌を中絶し、昭和20年には空襲で店は焼失したそうですが、戦後、昭和38年に歌作りを再開し、昭和48年にはいばらき新聞歌壇選者になったりしたそうです。
香積寺(こうしゃくじ 渡里町111)
和の一字 是れ吾が至宝 秋の月
香積寺の住職墓地にあった宗泰和尚の墓には、句が刻まれていました。和の字には周囲に輪が彫られています。「輪」も「和」をあらわしているのでしょう。
護国神社(見川1-2-1)
蝉(せみ)しぐれ また 新たなる 声加ふ
大正4年生まれで、ひたち野の主宰をした俳人・嶋崎専城の句碑が、俳誌・ひたち野800号記念に建てられたそうです。専城は、飯富町にあった竜光院跡に埋もれていた俳僧・遅月が建てた芭蕉句碑を発見したりしたそうです。冒頭に快晴と書き初日記 などの作品があるそうです。平成25年に建てられた碑のようです。
偕楽園公園田鶴鳴(たづなき)梅林あたり(常磐町)
紅梅は 水戸の血の色 咲きにけり
今瀬剛一は、俳誌・対岸を創刊・主催した、昭和11年生まれの俳人だそうです。東京新聞茨城版ひたち俳壇の選者をつとめたそうです。対岸創刊30周年記念に、平成29年に建てられた碑のようです。
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