どれも、水戸市立博物館で見た花押です。
佐竹義舜(よしきよ)
佐竹氏15代当主で、100年近く続いた佐竹氏の乱を終わらせたり、家法二十三ヶ条を制定し、中興の祖といわれたそうです。江戸氏とは、「一家同位」の盟を結んだそうです。5代後の義宣(よしのぶ)が水戸城を江戸氏から奪ったそうです。写真は、永正7年(1510)に奉納された佐竹義舜の起請文(神仏に誓約する言葉を書き表した文書)だそうです。
江戸忠通(ただみち)
江戸氏7代の当主で、佐竹氏と争ったものの従ったようです。正室は、佐竹義舜の子だそうです。病弱な跡取りの健康回復のために、鹿島神宮に鎧兜等を奉納したことを書いた、永禄4-6年(1561-63)に書かれた書状にある花押だそうです。
徳川家康
徳川家康が、常陸の佐竹氏18代・佐竹義重(義宣の父)の子である芦名義広にあてた慶長5年(1600)の書状にある花押だそうです。徳川方に加わらなかったために、関ヶ原の後に秋田へ転封になる佐竹氏ですが、家康に連絡をとっていた佐竹氏の人物もいたようです。
徳川光圀
水戸藩2代・徳川光圀が弟の保内藩初代藩主(後、常陸府中藩主)・松平頼隆に寛文3年(1663)に書いた書状にある花押だそうです。徳川光圀が、父の頼房の花押によく似た花押を書いていた時期があったようです。頼房の花押よりも、縦棒が1本多いようです。花押の上にある光圀の「国」は、「圀」ではないようです。(1)にある光圀の花押は、これ以後のもののようです。
徳川光貞(みつさだ)
紀州2代当主・徳川光貞が、水戸藩3代綱條(つなえだ)に、元禄年中(1688-1704)に出した書状にある花押だそうです。綱條から贈られた水戸の鮭に対する礼状だそうです。
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