十九夜観世音(河和田町36°21'29.6"N 140°24'30.6"Eあたり)
右に「文政十三歳(1830)」、左に「寅(とら)十一月十九日」とあります。左下に「女」の文字が見えますので、女人講と地下にあるのかもしれません。観世音の下に塔の字もあるのかもしれません。文政13年は、徳川斉昭が藩主になった翌年です。
十九夜観世音塔(河和田町36°21'44.2"N 140°25'03.8"Eあたり)
右に「天保2年(1831)辛卯(しんぼう)」、左に「十一月吉日」とあります。隣にある石造物は、二十三夜塔です。ただ、こうしてまとまっている石造物群は、道路工事などによって一か所に集められたことが多いようなので、もともと並んでいたかどうかはわかりません。
十九夜観世音(遠木共有墓地 中原町36°22'37.3"N 140°21'42.8"Eあたり)
側面に、「文久元年(1860)酉(とり)二月吉日」「中原村」「女人講中」などとあるようです。この年は辛酉(しんゆう)で、昔から辛酉(しんゆう)革命といって、王朝が交替するという革命が行われると考えられていたそうです。それを防止するために改元がおこなわれていたそうで、この年もおこなわれたそうです。万延2年が、旧暦2月19日に、文久1年になったそうですが、これが最後の辛酉による改元だったそうです。
十九夜念(光台寺 上水戸3-1-39)
かろうじて右は「十九夜念」、左は「九十人二世安楽」と見えます。念仏とか二世安楽とかいった言葉と如意輪観音のある十九夜塔は、文政(1818-1830)のころまででなくなり、十九夜などの文字だけになっていったそうです。(榎本正三、印西町中心の研究) そうすると、これは、上にある文字塔の十九夜塔より古いものかもしれません。最近、このあたりは改修されたようで、この石仏は現在見あたらないようです。、
十九夜念仏(千束共同墓地 河和田町36°22'00.4"N 140°24'26.6"Eあたり)
十九夜念仏、奉待?以外は古いせいかもしれませんが、読めません。如意輪観音が彫られた十九夜塔です。
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