W A K I の気ままなトンボの目

自分流の勝手な生き方ですが、何か気付いたことを書いてみます。
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私には語る義務がある 「核なくせ声を大にし叫びたい」

2015年08月06日 | TOWN

 広島に原子爆弾が投下されて今日で70年の歳月が過ぎた。WAKIは1936年生まれだからこの時は国民学校4年生であった。親父は家族6人とともに米軍の空襲を予測して大阪市から今の堺市北野田に疎開した。北野田はまだまだ田舎の風情があっていいところであった、当時のWAKIの重要な仕事は畑のナスビヘの水遣りでこれが大変にしんどい仕事であった何しろ池の水を汲んで土手を上がり下がりの繰り返しで夏の天気を恨んだ。大阪市内の家は空襲で焼けて無くなったが、焼け残った祖母の家には時々用事を言いつかって出かけたが南海電車はいつも無賃乗車であった、それは切符の発売制限があって買えないからで乗降は駅の柵から出入りして実に悪いませた少年であった、そのころは何回も空襲警報が発令されて1km先の学校にも通えず、近くの竹藪のあるお屋敷の門構えの下が教室になって学校どころではなくなってしまった。そして艦載機グラマンの空襲にも遭遇、これほど恐ろしいことはなかった、そこへ広島に米軍が新型爆弾を投下したらしいという噂が広まり数日後には子供たちのあいだでももう「ピカドン」と呼ばれていた、その後次第に広島の惨状が伝えられて、WAKIは心を痛めた、だから地球上から核の脅威がなくなることを心から願う。

コメント (3)
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