コトバンクによれば、「生きとし生けるものは,すべて仏陀になる可能性 (仏性) をもっており,すべて悟りうるという仏教の思想。」と説明されています。ひろさちやさんによれば、「宇宙すべてが仏性である。」というのが道元の解釈だそうです。天台宗では「山川草木悉有仏性」と言っているので、鎌倉以降の日本仏教では概ね無生物も含めてすべてのものには仏性があるとされているとみて間違いないでしょう。
昨日(11/21)の100分de名著「正法眼蔵」では、「無仏性という仏性」などという言葉も出てきましたが、確かにあらゆるものが仏性であるならばそういうことも言えるだろうと思います。しかし、一言くぎを刺しておくなら、「仏性」という言葉の意味が分からねばそれらの言辞はすべて空しい、ということを言わねばなりません。
「仏性」が「仏陀になる可能性」を意味するのなら、「仏陀」の意味が分からなければ「仏性」が分かるとは言えないはずです。石ころが仏陀になった状態がどういうものであるかがわからなければ、軽々しく「山川草木悉有仏性」とは言えないのではないでしょうか。
私は「仏性」というものがどういう意味なのか、率直に申しまして分かりません。分からないので、「山川草木悉有仏性」の意味は「山川草木を悉く慈しみなさい」というふうに勝手に解釈しています。禅坊さんは「水一滴にも命がある、粗末にしてはならない」と言います。この場合の「命」は「仏性」と同じ意味だと思います。つまり、石ころ一つ、水一滴に感情移入できるかどうかということが問題になるのであって、「仏性」がなんであるかということは誰も問題にしていないように考えているのです。
そういう観点から見れば、「宇宙すべてが仏性である」という言明は「世界は慈愛に満ちている」と言ってもいいかもしれない。けれど、「無仏性という仏性」という言い方は哲学的には無理があるような気がします。そういうふうに思うのは私が「仏性」の意味を理解していないからでしょうか。どなたか教えてください。
大雄山最乗寺にて (神奈川県南足柄市)
私という自我は木が木であることを意識していないという前提から捉えると、
自我自体は何を指して私ということになるでしょうか。
そもそも宗教は哲学の系列でしょうか?
宗教はもちろん哲学ではありませんが、普遍的宗教は哲学を含んでいます。その中でも特に仏教は哲学的な要素を含んだ宗教であると思います。
哲学と宗教の相違点は宗教体験にあると思います。早い話が仏教では悟りですが、「一切衆生悉有仏性」もそれなりの宗教体験が伴っていなければ、無意味だと思うのです。