前々回記事「仏教とはなにか?」のなかで、私は『超越概念を排除した素朴な仏教は、現代人が抵抗なく受け入れることのできる唯一の宗教である、と私は思う。』と述べたのですが、それに対して「外れ者」さんという方から次のような質問の形でコメントをいただきました。
1、超越概念は何なのか。
2、どうやって排除できるのか。
3、素朴と視点はどこに基準するのか。
4、抵抗が無いというのは認知過程の方法論なのか。
5、唯一の宗教になりえる根拠は何なのか。
超越概念というのはいわゆる神さまとか地獄・極楽のように、この世界以外のどこかにあると考えられているものと受け止めて下さい。釈尊の唱えた仏教にはもともとそのようなものはなかったはずだと私は考えているのです。その根拠は、原始仏典の中で釈尊は形而上学的な問題には答えなかったとされていることです。いわゆる「無記」ということですね。
形而上学的な問題について言及しないという釈尊の態度と、現実に日本に敷衍されている仏教との落差は非常に大きいと言わざるを得ません。「死後の世界」だの「永遠の魂」などということについては仏教はノータッチのはずが、現状は「死後の世界」にまつわる仕事であると、多くの人々に見られているのではないでしょうか。
宗教を広めるためには、分かりやすさと物語性というものが必要なのでしょう。長い年月と多くの人々の手を経てきた間に、仏教はその核心部分より付属部分の方が大きくなったのだと思います。
このような考え方に至ったのは、私が最初に仏教に触れるきっかけとなったのが禅宗であったからでしょう。禅宗では仏典による教理を学ぶより、ひたすら坐禅による己事究明に努めます。崇める偶像も無く、ただ世界を綿密に見つめなおし、その真底に到達することを目指します。しかし、決して「これこれこうです」と言うような解答に至ることは決してありません。もともと世界は無根拠であるからです。無根拠であるから無常であり空であるというのが仏教の真理観です。この世界がこのようであるということがそのまま真理であり、絶妙であることから仏教の倫理性が生まれてくるのです。私は仏教というものを、このように微妙かつシンプルなものと見ています。迷信や神秘的言説とは無縁の仏教、「素朴な仏教」と表現したのはそういう意味です。
もっとも禅宗以外の方々には、上記のような主張は受け入れがたいものだと思います。例えば、浄土系では阿弥陀仏の本願こそが最も重要な要素でしょうし、六道輪廻や地獄・極楽というものを信じておられる方もいるでしょう。むしろ、そのような神秘的な教理こそが本来の仏教だと信じている方も多いのではないでしょうか。
鎌倉時代のような昔には、人々は本気で阿弥陀仏や地獄・極楽を信じていたと思います。仏典に書かれていることや、えらいお坊さんのように権威ある人の言うことは、すべて本当のことだと思っていたからです。しかし、情報にあふれる現代はすっかり事情が変わりました。仏典やお坊さんの権威は実証的な科学の方に移ってしまったのです。浄土真宗は今でも大きな勢力を誇っていますが、阿弥陀様が本当にいると信じている人はきわめて少ないと思います。ひょっとしたら僧の中にも信じていない人がいるような気がします。浄土真宗の門徒でありながら、正月には神社へ初詣、結婚式は教会でという人は非常に多い。本願寺の建物は巨大で壮麗ですが、宗教としての生命は尽きかけているのが実態であると思います。
現代は、神や阿弥陀仏というような超越的概念を信じるのは難しい時代だと思います。信じたつもりでも実は信じきれない人も多いはず。その点、神秘的な概念を一切必要としない禅宗のように「素朴な」仏教は、現代人にとって入りやすい宗教ではないかと思うのです。
言葉使いが難しく、すぐには
入ってこなかったでしたが、
おっしゃっていることの
イメージはつきました。
真心で応えて頂けましたので、
読者登録し直しました。
哲学用語無しで哲学を語るというのは
無理ですか?
易しくなるのは、難しい問題を解説するより難儀だと思いますが、多くの哲学を語る者が出来ない分、試してみる価値はあると思います。