呪術というのは「超自然的な方法によって意図する現象を起こそうとする行為,信仰,観念の体系の総称。 (コトバンクより)」である。宗教と呪術の位置はとても近い。それは前回記事でも述べたが、この世界の根源的な問題が理屈では割り切れないということにあるのだろうと思う。それで宗教にはどうしても呪術的要素が入り込みやすいのである。
そのことについては仏教も例外ではない。地獄・極楽だとか六道輪廻だとか、誰も見たことのないはずのものが仏教的説話にはいくらでもある。かつては鎮護国家というような考え方もあった。私は子どもの頃「蒙古襲来」(インターネットで確認したところ、正確には「日蓮と蒙古大襲来」が正しいらしい)という映画のポスターを見かけたことを覚えている。日蓮が「南無妙法蓮華経」を唱えて、モンゴル軍を撃退したというお話しである。日蓮にはこのような超自然的な逸話が多い。
問題は、このような超自然的要素を含んでいる宗教の方がそうでない方よりバイタリティがあるのではないかということだ。というのは、明治以降に日本に生まれた新興宗教には日蓮系のものが多い。創価学会、霊友会とそれから枝分かれした立正佼成会や仏所護念会等々、いずれも伝統的な仏教諸派より活動的な気がする。新興宗教に共通していることは、先祖供養とか前世の罪業について言及することが多い。つまり、呪術的要素が多いということだろう。そちらの方が無とか空だとかいう話より分かりやすいということがあるのだろう。
しかし、仏教は本来呪術的なものを一切含まない極めて知的な宗教、もっと言えば普遍的な思想と言ってしまってもよいと私は考えている。その根拠は無記ということである。釈尊は超自然的なことには一切言及しなかったのである。無記は仏教においてはもっとも重要な要素の一つであるはずである。そういう意味において、日蓮系や密教系の諸派は釈尊の提唱した仏教からはかなり外れているように思う。もっとも、そんなことは御坊の個人的見解で、世間では「仏教」という言葉はもっと広く使用されている、と言われればそれまでであるが、私としてはあくまで釈尊は呪術というものを否定していたと考えたいのである。
先祖の御霊の安寧を願って供養するというのは良いことだと思う。それはおのれを空しくして祈ることに通じ、釈尊の教えにもかなっている。しかし、高額の壺を買って祖先の霊に手向けるとなると、それはもう呪術の範囲である。自分の財力によって霊的な世界に影響を及ぼそうとする、そういう行為を親鸞は「自力作善」と言うのである。ある種の思い上がりである。そもそも先祖の御霊は金品を必要としていない、必要なのは敬虔な祈りだけである。
そう、神仏の世界に金品は必要ないはずである。金品を必要とするのは生きている人間だけである。お布施にしてもそれが神仏の手に渡るわけではない。坊さんだって霞を食って生きていけるわけないので、結局お布施は坊さんの生活費や教団の運営費となるわけである。だからお布施はするべきである、もしその宗教があなたにとって必要ならばであるが‥‥。
それにしても統一教会のように、豪勢な施設を韓国に造るために信者の生活が破壊されかねないほどの法外な額の献金を集める、というのはどう考えてもおかしい。信者の為に教団は在るべきであって、教団の為に信者があるのではないはず。信者に高額な献金額をほのめかした時点で、その人物は宗教者などではなくて詐欺師であると即断しても良いというか、そのように即断すべきだと思う。重ねて言うが、神仏の世界に金品は必要ないのである。
ちなみに、呪術を英語では magic というが、magic には奇術という意味もある。日本語では超自然的かそうでないかで呪術と奇術を区別するが、英語ではどちらも magic と言う。しかし、普通に考えれば超自然的なことと云うのはあり得ないことなのだから、人の目をくらますことをすべて magic と呼ぶのは理に適っているという見方もできる。統一教会のやっていることも心理学を悪用した magic すなわち「奇術」にちがいない。
東海道線根府川駅のホームからは相模湾が一望できる。