石原慎太郎 原発に関するセンチメントの愚より抜粋
長々した前節を構えて私がいいたいことは、福島の原発事故以来かまびすしい原発廃止論の論拠なるものの多くの部分が放射線への恐怖というセンチメントに発していることの危うさだ。恐怖は何よりも強いセンチメントだろうが、しかしそれに駆られて文明を支える要因の原発を否定してしまうのは軽率を超えて危険な話だ。軽量の放射能に長期に晒(さら)される経験は人類にとって未曽有のものだけに、かつての原爆被爆のトラウマを背負って倍加される恐怖は頷けるが、しかしこうした際にこそ人間として備えた理性でものごとを判断する必要があろうに。理性的判断とはものごとを複合的に捉えてということだ。
ある期間を想定しその間我々がいかなる生活水準を求めるのか、それを保証するエネルギーを複合的にいかに担保するのかを斟酌計量もせずに、平和の内での豊穣な生活を求めながら、かつての原爆体験を背に原子力そのものを否定することがさながらある種の理念を実現するようなセンチメンタルな錯覚は結果として己の首を絞めることにもなりかねない。
人間の進化進歩は他の動物は及ばない人間のみによるさまざまな技術の開発改良によってもたらされた。その過程で失敗もありその超克があった。それは文明の原理で原子力もそれを証すものだ。そもそも太陽系宇宙にあっては地球を含む生命体は太陽の与える放射線によっても育まれてきたのだ。それを人為的に活用する術を人間は編み出してきた。その成果を一度の事故で否定し放棄していいのか、そうした行為は「人間が進歩することによって文明を築いてきたという近代の考え方を否定するものだ。人間が猿に戻ると言うこと-」と吉本隆明氏も指摘している。
人間だけが持つ英知の所産である原子力の活用を一度の事故で否定するのは、一見理念的なことに見えるが実はひ弱なセンチメントに駆られた野蛮な行為でしかありはしない。
日本と並んで原子力の活用で他に抜きんじているフランスと比べれば、世界最大の火山脈の上にあるというどの国に比べてももろく危険な日本の国土の地勢学的条件を斟酌せずにことを進めてきた原発当事者たちの杜撰(ずさん)さこそが欠陥であって、それをもって原子力そのものを否定してしまうのは無知に近い野蛮なものでしかありはしない。
豊かな生活を支えるエネルギー量に関する確たる計量も代案もなしに、人知の所産を頭から否定してかかる姿勢は社会全体にとって危険なものでしかない。
以下、私の反論。
私は、三児の父だ。父親、母親に限らず、親というものは、小さな子供の健康を毎日心のどこかで気遣っているものである。それは、センチメント(なぜ、情緒的という日本語があるのにここでこういう中途半端なカタカナ英語を石原氏が使うのか分からないが、この人の変な日本語に敬意を表して同じように使わせてもらうことにしよう。多少あほらしいが・・・)などという生易しいものではない。
、子供の小さな目に、目やにがついていないか、鼻水を拭いてやりながら、風邪をひいては居ないか、あるいは、成長の過程で、間違った道を歩んではいないか、つめが伸びすぎている、服装が変だ、ちょっと足をひきずっている、大丈夫か?もし、頭が痛いなどと言い出したら、それこそ、大変な騒ぎになる。それが 人の親だ。
石原氏は、原子力の専門家ではない。さらに、医師でもない、統計を取って何かをしめしてくれているわけでもない。
彼の経歴は、文士から政治家になった人でしかない。全く原子力の専門外の人であり、人体や病気や健康などにも、まったく関係のない人である。
したがって、彼の原子力の話には、全く説得力がない。あたりまえだ。なぜなら、系統だった学問をしてきた人ではないのだから。
その結果、当然のことながら、彼の言うことは、曖昧模糊(あいまいもこ)としていて、その実、雲をつかむようなたとえ話なのである。グリム童話のほうがよほど、現実に根ざしていると言ってもいいほどだ。
彼は理性を何度も繰り返す。
しかしながら、私にとって、あるいは多くの教育を受けた人間にとって、理性というものは、数値をもとにして出てきた信頼できる、傍証的科学的データをもとにして、結論されるものだ。
親である私は、もちろん、そういう科学的データを信用するし、それを取り扱う人が誰なのかをも、常に注視している。
そのデータに基づいて、現在、福島県東部はいうまでもなく、福島県西部、栃木県北部、群馬県北部、茨城県北西部、そして千葉県の一部にいたるまで、危険な放射能物質であるセシウム137が、東電の福島第一原子力発電所の事故により撒き散らされて、危険な放射能を、放出しているのである。
親ならば、そのことをもっとも心配するものだ。
なぜなら、子供たちに被爆をさせたくはないからである。
これが、センチメントな議論だろうか?
彼は、一度の事故で否定し放棄していいのか とまでいうが、原子力発電所の事故は、一度でも起こってはいけない種類のものではなかっただろうか?
それが証拠に、今まで、散々多くの原子力発電所推進派の学者たちは、「原子力発電所の事故が起こるなど天文学的な確率だ」と言い続けてきた。しかし、実際は、天文学的な確率などではなかった。チェルノブイリ、スリーマイル、それに福島第一原子力発電所、過去20年間に多くの大事故が起こっている。これは、事実だ。
もちろん、それ以外の、多くの小さな事故は、日常茶飯事に世界中で起きている。
何度も言う、彼のいう一度の事故という言葉は、事実に基づいているものではない。
残念なことに、彼は、東京都民に選ばれた、東京都知事という立場のある人間なのだから、言葉をもっと正確に使わなければならない。何度も言う。事故は一度ではなかった。
これを、一度の事故であると決め付ける石原氏こそが、紳士的な言動ではない、これこそが、人を混乱させる 野蛮な言動だとは言えないだろうか?
日本のエネルギー政策や、豊かさを求めることは、大切なことかもしれない。経済について、関心を持ってきた私自身にとって、国の経済政策や産業政策が、重要であることは、とってもよく理解できているつもりだ。
だが、子供の命に代えて 一体何を 得たいと言うのか?
私には、とうてい、理解できない。
また、この程度の 稚拙な論文を、さもありがたがって載せる 産経新聞の程度に、とても脆さを感じる。
石原氏が、国政にまた打って出るということを言っているが、私に言わせれば、もう十分 御歳なのだから、葉山の別荘あたりで余生を送られては いかがだろう。
これからの未来の日本は、石原さん、あなたのような人にではなく、理性的な人によって、きちんとした科学的データに基づいて、構築してほしいと、願う。