北朝鮮が、核爆弾を保持して 先軍政治を行うとしていることは、もちろん、ご存知の通り。
これについて、今日は考えてみたい。
そもそも、核爆弾は、1945年に広島、長崎に 落とされて以来、実際に戦争で使われてはいない。
過去、ソビエト連邦は、多くの核爆弾を保有したが、結局 崩壊した。
戦争というのは、元をたどれば、力と力がぶつかり合い、そこで強いものが勝つ という単純なものである。
強い者は 弱いものを従えていき、そして さらに強くなる。
強くなるために、さらに戦争をし続ける。
というのが、戦争の原理である。
もちろん、正義のための戦争だとか、さまざまな理屈付けは、軍隊の軍人が「俺たちは 何のために、一体 誰のために命をかけているのか?」と自問自答し続ける限り、必要である。
しかし、それは 戦争の核心部分ではない。
戦争は、勝者と敗者ができる。
それが、核心部分なのである。
もし、この定義を 現在に、当てはめてみるならば、今後、核爆弾を使用して戦争をする可能性は、絶対にないといえる。なぜなら、その後に残るのは、地球と言う名前の核爆弾の残骸だけだからだ。敗者も勝者もいない 放射能の砂漠には 人も植物もいなくなる。
だから、それは戦争ではなく 人間という愚かな動物の集団自殺でしかない。
核爆弾は、アメリカが北朝鮮を攻め込むことを躊躇させるだろうと 北朝鮮は考えている。
もちろん、北朝鮮が そこまで追い詰められて考えなければならないほどのことを、アメリカは行ってきた。最近では リビア。過去には、フセイン、ビンラーディン などなど 常に邪魔な者は殺す。このメンタリティーは、21世紀になっても 西部劇の当時から変わっていない。
あなたは、アメリカのインディアン悲史を 読んだことはあるだろうか。
アメリカに住んでいた レッド インディアンを虐殺したアメリカの歴史は、アメリカ人自身が言っているように、どれほどの言葉を尽くしても決して正当化されうるべきものでは、なかった。
しかし、アメリカはそういう彼ら自身の行ってきたことを、謝ることはしない。ベトナムでの枯葉剤で多くの奇形児を作ったことも、また、日本での原爆で多くの無辜を殺したことも、アメリカは、悪いことだとは思っていない。アメリカにとって、正義というのは、アメリカに都合の良い 市場とビジネスが得られることであり、そのために、戦争を起こすことは、自然の成り行きなのだ。
アメリカのオバマ大統領が アフガニスタンでのオーストラリアの兵士たちを 懇ろに称えている。
英語のジョークも交えながら。
「オーストラリア人たちは 別れ際に チーズ (CHEERS)というが、どうしてそんんあに チーズ(CHEESE)が好きなのかね?とアメリカの兵士は思ったんだ。しかし そうではなく、チェアー(Chairs)だったんだな。」などと ぼけてみて、その上で、「私たちは、英語を使うが時々 違う単語を使う。しかし、意味するところは同じだ。共に戦おう」と結んでいる。
英語圏の人間たちなら、大笑いしながら、聞くわけだが、日本人にとっては、「なにがおもろいねん?」となるだろう。
絶対的な 感覚の違いが ここにある。
しかし、この感覚の違いほど恐ろしいものは、また他に ないといえる。
私が いつも言う 「なんとなく」の恐ろしさである。
「なんとなく」は 私に言わせれば、 核爆弾よりも、もっともっと 恐ろしいものなのだ。
日本人は、ある程度 そのことに気がついているが、そこに到達するまでには大きな大きな 壁がある。日本生まれの日本育ちの、純日本人の感覚で、ある日 アメリカの大統領やオーストラリアの首相たちと出会っても、せいぜい笑顔で握手するくらいで、本当の意味での「感覚の共有」ということは難しいであろう。
もちろん、日本にもそういうことが出来る人が たくさんいる。日本人にも世界へ羽ばたいて 外国の水を飲んで苦労してきた人がたくさんいるのだが、今度は、彼らを 日本人たちは 煙たいと感じる。「欧米か!」という漫才が端的に物語っているかもしれないが、欧米でもまれてきた日本人を、日本で過ごしてきた日本人たちは、ちょっと違った人 という扱いをする。
ちょっと違った人 である「欧米か!」の日本人にとっては、そういう扱いに やや戸惑いながら、日本で生活をしている。このちょっと 違った日本人たちが、例えば日本の政治の表舞台で、日本のために活躍するということは、今のところ、まだ 行われたためしがない。
それでも、日本は他のアジア諸国のなかで、かなり開けているほうだ。
シンガポールやフィリピンに比べると、国際感覚はやや後進的かもしれないが、それでも、まだまだ、中国や北朝鮮 ベトナム カンボジア インドネシア などに比べると、はるかに進んでいる。
こんな中で 核爆弾について考えてみる。
中国や北朝鮮が、核爆弾を伝家の宝刀のように思っているのは、アメリカを理解していないからだし、また、戦争の本質をより強い武器に頼るという戦略にのみ固執しているからだ。
戦争は、武器の競争だけでは もう成り立たない。
少なくとも、日本人はこの点、世界的にはかなり先を行っている。
戦争の本質は、これからは経済である。
より、頭のいい人間・・・数字に強く 勘のいい人間・・・がこれからの世界を制覇していくのではないだろうか。
つまり、核爆弾という究極の兵器が出来上がった時点で、世界は第三次世界大戦を バーチャルな世界以外では、やれなくなってしまった。代理戦争で、小さく、核爆弾のない国同士や、あるいは 核爆弾を使わないというシバリ? を行ったうえでの戦争ならば、成り立つが、そんなものは、戦争ではないのである。戦争とは、勝つために行うものだし、そのためには手段を選ばないことこそが、戦争なのだ。
例えば、相撲は土俵の上で、力士が争うが、コブシで殴ることは反則だし、倒れた力士に 蹴りを入れてもいけない。それは相撲という体技の中でシバリがあるからで、殺し合いではないからだ。
しかし、戦争は殺し合いだ。
ならば、シバリなどは、存在しないはずなのである。
したがって、核爆弾を持つことで アメリカからの侵略に備えようという北朝鮮は、戦争を前提にして、世界を無茶苦茶にしてしまう決意をもっているならば、とても正しい選択をしているし、もし、そうではなく、彼らのいうように戦争抑止力としての核兵器保持ならば、それは 旧ソビエトの轍を踏むことにはならないであろうか?
旧ソビエトは、内部から滅んだのである。
内部に向かって核爆弾は使えない。
そして、内部崩壊は 経済崩壊とともに起こる。
中国のバブルが、私の予想通り2015年に弾けたなら、北朝鮮の経済も一気に崩壊してしまうのだ。
北朝鮮がイランに大量に核爆弾を販売するという、別の角度での問題は しかし、同時に考えておかねばならないだろう。
この場合、宗教がからんでいるので、イランとイスラエルという最悪の戦争シナリオが起こる。
イスラエルとイランが戦争をしたら、核爆弾を使うことに、まったく なんの躊躇いもないだろう。
御互い 一人の人間も残らなくなるまで殺し合いを していくに違いない。
宗教の力は強い。
中東での核爆弾を考えるとき、先ほどまで述べてきた 旧ソ連や、中国 アメリカ 北朝鮮などのスタンスとはまったく別の定規が必要になる。
繰り返すが、彼らは、己の信じる神のためならば、核爆弾を使うことに なんの躊躇いもない人たちなのだ。
もし中東で核爆弾が使われたなら、どうなるだろうか?
石油の高騰とともに、アメリカ、NATO それにロシアなどの介入が 起こるだろう。
そして、それはいつ起こるのか、全く予断を許さない状況なのだ。
EUが崩壊すると、EUから中東への睨みが弱くなる。こういう微妙なバランスの崩れが、一気に 最悪の状況になることだってありうるのだ。
私は、中東での核爆弾の販売を、北朝鮮が止めるべきだと思う。あるいは もし 止めなければ、アメリカの空爆が遠からず始まるであろうことをも、予想している。アメリカの大統領が、オーストラリアに来て、ただ、オージービーフに舌鼓をうって帰るとは、誰も思ってはいない。きちんとした戦略のもと、来年の大統領選挙までに、強い指導力を示す アメリカの大統領というパフォーマンスの始まりであるのなら、来年は、北朝鮮にとっては、正念場になる。
ともかく、日本のためにも、北朝鮮のためにも、アジア全般のためにも、北朝鮮は今、核爆弾に野心を持つ時期ではないし、ましてそれをイランに輸出するなどということは、やめたほうがいい。
アメリカは、選挙で国内のユダヤ人の票を得るために、北朝鮮に空爆を大統領が許可(サイン)することだって、ありうるのだ。
ここは、みなが知恵を出し、賢く考えるべきところだ。
地球はひとつしかない。
これについて、今日は考えてみたい。
そもそも、核爆弾は、1945年に広島、長崎に 落とされて以来、実際に戦争で使われてはいない。
過去、ソビエト連邦は、多くの核爆弾を保有したが、結局 崩壊した。
戦争というのは、元をたどれば、力と力がぶつかり合い、そこで強いものが勝つ という単純なものである。
強い者は 弱いものを従えていき、そして さらに強くなる。
強くなるために、さらに戦争をし続ける。
というのが、戦争の原理である。
もちろん、正義のための戦争だとか、さまざまな理屈付けは、軍隊の軍人が「俺たちは 何のために、一体 誰のために命をかけているのか?」と自問自答し続ける限り、必要である。
しかし、それは 戦争の核心部分ではない。
戦争は、勝者と敗者ができる。
それが、核心部分なのである。
もし、この定義を 現在に、当てはめてみるならば、今後、核爆弾を使用して戦争をする可能性は、絶対にないといえる。なぜなら、その後に残るのは、地球と言う名前の核爆弾の残骸だけだからだ。敗者も勝者もいない 放射能の砂漠には 人も植物もいなくなる。
だから、それは戦争ではなく 人間という愚かな動物の集団自殺でしかない。
核爆弾は、アメリカが北朝鮮を攻め込むことを躊躇させるだろうと 北朝鮮は考えている。
もちろん、北朝鮮が そこまで追い詰められて考えなければならないほどのことを、アメリカは行ってきた。最近では リビア。過去には、フセイン、ビンラーディン などなど 常に邪魔な者は殺す。このメンタリティーは、21世紀になっても 西部劇の当時から変わっていない。
あなたは、アメリカのインディアン悲史を 読んだことはあるだろうか。
アメリカに住んでいた レッド インディアンを虐殺したアメリカの歴史は、アメリカ人自身が言っているように、どれほどの言葉を尽くしても決して正当化されうるべきものでは、なかった。
しかし、アメリカはそういう彼ら自身の行ってきたことを、謝ることはしない。ベトナムでの枯葉剤で多くの奇形児を作ったことも、また、日本での原爆で多くの無辜を殺したことも、アメリカは、悪いことだとは思っていない。アメリカにとって、正義というのは、アメリカに都合の良い 市場とビジネスが得られることであり、そのために、戦争を起こすことは、自然の成り行きなのだ。
アメリカのオバマ大統領が アフガニスタンでのオーストラリアの兵士たちを 懇ろに称えている。
英語のジョークも交えながら。
「オーストラリア人たちは 別れ際に チーズ (CHEERS)というが、どうしてそんんあに チーズ(CHEESE)が好きなのかね?とアメリカの兵士は思ったんだ。しかし そうではなく、チェアー(Chairs)だったんだな。」などと ぼけてみて、その上で、「私たちは、英語を使うが時々 違う単語を使う。しかし、意味するところは同じだ。共に戦おう」と結んでいる。
英語圏の人間たちなら、大笑いしながら、聞くわけだが、日本人にとっては、「なにがおもろいねん?」となるだろう。
絶対的な 感覚の違いが ここにある。
しかし、この感覚の違いほど恐ろしいものは、また他に ないといえる。
私が いつも言う 「なんとなく」の恐ろしさである。
「なんとなく」は 私に言わせれば、 核爆弾よりも、もっともっと 恐ろしいものなのだ。
日本人は、ある程度 そのことに気がついているが、そこに到達するまでには大きな大きな 壁がある。日本生まれの日本育ちの、純日本人の感覚で、ある日 アメリカの大統領やオーストラリアの首相たちと出会っても、せいぜい笑顔で握手するくらいで、本当の意味での「感覚の共有」ということは難しいであろう。
もちろん、日本にもそういうことが出来る人が たくさんいる。日本人にも世界へ羽ばたいて 外国の水を飲んで苦労してきた人がたくさんいるのだが、今度は、彼らを 日本人たちは 煙たいと感じる。「欧米か!」という漫才が端的に物語っているかもしれないが、欧米でもまれてきた日本人を、日本で過ごしてきた日本人たちは、ちょっと違った人 という扱いをする。
ちょっと違った人 である「欧米か!」の日本人にとっては、そういう扱いに やや戸惑いながら、日本で生活をしている。このちょっと 違った日本人たちが、例えば日本の政治の表舞台で、日本のために活躍するということは、今のところ、まだ 行われたためしがない。
それでも、日本は他のアジア諸国のなかで、かなり開けているほうだ。
シンガポールやフィリピンに比べると、国際感覚はやや後進的かもしれないが、それでも、まだまだ、中国や北朝鮮 ベトナム カンボジア インドネシア などに比べると、はるかに進んでいる。
こんな中で 核爆弾について考えてみる。
中国や北朝鮮が、核爆弾を伝家の宝刀のように思っているのは、アメリカを理解していないからだし、また、戦争の本質をより強い武器に頼るという戦略にのみ固執しているからだ。
戦争は、武器の競争だけでは もう成り立たない。
少なくとも、日本人はこの点、世界的にはかなり先を行っている。
戦争の本質は、これからは経済である。
より、頭のいい人間・・・数字に強く 勘のいい人間・・・がこれからの世界を制覇していくのではないだろうか。
つまり、核爆弾という究極の兵器が出来上がった時点で、世界は第三次世界大戦を バーチャルな世界以外では、やれなくなってしまった。代理戦争で、小さく、核爆弾のない国同士や、あるいは 核爆弾を使わないというシバリ? を行ったうえでの戦争ならば、成り立つが、そんなものは、戦争ではないのである。戦争とは、勝つために行うものだし、そのためには手段を選ばないことこそが、戦争なのだ。
例えば、相撲は土俵の上で、力士が争うが、コブシで殴ることは反則だし、倒れた力士に 蹴りを入れてもいけない。それは相撲という体技の中でシバリがあるからで、殺し合いではないからだ。
しかし、戦争は殺し合いだ。
ならば、シバリなどは、存在しないはずなのである。
したがって、核爆弾を持つことで アメリカからの侵略に備えようという北朝鮮は、戦争を前提にして、世界を無茶苦茶にしてしまう決意をもっているならば、とても正しい選択をしているし、もし、そうではなく、彼らのいうように戦争抑止力としての核兵器保持ならば、それは 旧ソビエトの轍を踏むことにはならないであろうか?
旧ソビエトは、内部から滅んだのである。
内部に向かって核爆弾は使えない。
そして、内部崩壊は 経済崩壊とともに起こる。
中国のバブルが、私の予想通り2015年に弾けたなら、北朝鮮の経済も一気に崩壊してしまうのだ。
北朝鮮がイランに大量に核爆弾を販売するという、別の角度での問題は しかし、同時に考えておかねばならないだろう。
この場合、宗教がからんでいるので、イランとイスラエルという最悪の戦争シナリオが起こる。
イスラエルとイランが戦争をしたら、核爆弾を使うことに、まったく なんの躊躇いもないだろう。
御互い 一人の人間も残らなくなるまで殺し合いを していくに違いない。
宗教の力は強い。
中東での核爆弾を考えるとき、先ほどまで述べてきた 旧ソ連や、中国 アメリカ 北朝鮮などのスタンスとはまったく別の定規が必要になる。
繰り返すが、彼らは、己の信じる神のためならば、核爆弾を使うことに なんの躊躇いもない人たちなのだ。
もし中東で核爆弾が使われたなら、どうなるだろうか?
石油の高騰とともに、アメリカ、NATO それにロシアなどの介入が 起こるだろう。
そして、それはいつ起こるのか、全く予断を許さない状況なのだ。
EUが崩壊すると、EUから中東への睨みが弱くなる。こういう微妙なバランスの崩れが、一気に 最悪の状況になることだってありうるのだ。
私は、中東での核爆弾の販売を、北朝鮮が止めるべきだと思う。あるいは もし 止めなければ、アメリカの空爆が遠からず始まるであろうことをも、予想している。アメリカの大統領が、オーストラリアに来て、ただ、オージービーフに舌鼓をうって帰るとは、誰も思ってはいない。きちんとした戦略のもと、来年の大統領選挙までに、強い指導力を示す アメリカの大統領というパフォーマンスの始まりであるのなら、来年は、北朝鮮にとっては、正念場になる。
ともかく、日本のためにも、北朝鮮のためにも、アジア全般のためにも、北朝鮮は今、核爆弾に野心を持つ時期ではないし、ましてそれをイランに輸出するなどということは、やめたほうがいい。
アメリカは、選挙で国内のユダヤ人の票を得るために、北朝鮮に空爆を大統領が許可(サイン)することだって、ありうるのだ。
ここは、みなが知恵を出し、賢く考えるべきところだ。
地球はひとつしかない。