
2011/10/12 大震災で壊滅的被害を受けた女川町中心部

2011/10/12 女川町 町立病院
津波は高台(海抜15~6m)にある町立病院≒1.5mまで達した

2011/3/11 津波到達時の町立病院の様子(Utubeより転載)

同上 震災前の女川町

震災後 同上 女川町中心部

津波で倒壊したRC造建物 津波はPC製杭をも引きちぎった まさに得体の知れない巨大津波の持つエネルギーが残した痕跡

同上

同上

同上

同上

同上 女川魚市場より町の中心部を見る
対岸から見る町立病院 とても津波が到達する筈の無い高さのように思えた
女川町の全てが失われていた
石巻市の震災被害 犠牲者約3000名
被害は甚大だった
目で見る限りでは
沿岸部の一部に限られていた
女川町は違っていた
町が廃墟と化していた
一瞬 街のすべてが消え去った
異常な光景を目の当たりにして
茫然自失の長い時間が過ぎて行った
眼下に広がる女川町の光景が
以後 北上する三陸海岸沿いの街々
で目にする更なる惨状の
ほんの一部の序奏に過ぎなかったとは・・・・・・・・・・
その時の私に 知るよしも無かった
なにやら晴れぬ・・・・・
胸の痛みを抱えたまま
女川町の中心部を後にした
くねくねと曲がった見通しのあまり利かない
海沿いの細く急な勾配の続く
山道を北上
暫らくすると
女川湾と町全体を見下せる
眺望の開けた高台の前に出た
前回の旅でも立ち寄った場所だった

震災後の女川湾 外海と内湾を仕切る巨大防波堤 全て水没 僅かに2本の航路灯だけが残っていた
目眩く朝の光の中
眼下に広がる コバルトブルーの海
なんと穏やかな表情をしているのだろうか
何故にこの豊饒なる海が・・・・・・・?
人々は その日一日だけの
ささやかな幸せに
誰もが満ち足りた想いを抱き
貧しく ひっそりと暮らして来た筈なのに
全ては海に始まり
全ては海に終わる
そんな単調な日々の繰り返し
が彼らの幸福な1日であった
嗚呼 なんと理不尽な海の仕業であろうか
何故にことごとく全てを
奪い去ってしまったのだろうか・・・・・・・・・・?
たったひとつだけ 叶う願いがあるとするなら
あの日の出来事が どうか悪夢であってくれ
いつかその悪夢から目覚めさせてくれ・・・・・・・・・・・・・・・・・
華やかなショッピングアベニュー
煌びやかなネオン
そこには何ひとつなかった
「どちらから来られたのですか・・・・・・・・・・?」
と不意に一人の若者に問いかけられた
見晴台には 私より先に3人の若者がいた
道端に 京都NOの車が停まっていたことは
既に知っていた
3人は遠くに見える女川町を双眼鏡で眺めていた
私・・・・? 山形からです
それから若者3人といろいろな話をした
彼らが一週間仮設住宅でボランティアをしていた事
大阪から仕事を休んで来ている事
そして 何よりの驚き
彼ら三人共
皆私と同じ建築設計の仕事していたことであった
私は三人の若者を前にして
いつの間にか年甲斐もなく
都市・建築・災害 人々との関わり
そして復興の道程・・・・・・・・・・
胸に秘めた想いのままを
語っていたのだった
しかし いくら思いのほどを熱く語っても
自然の脅威の前にはいかなる人間の所作(建築)
もただただ無為に等しいという
暗闇のような無常感が漂っていた
これから先 設計を業として生きていこうとしている若者3人
震災から得たいくつかの尊い教訓
きっとこの先
何らかの形で生かされていくだろうと
私は秘かに確信した
女川湾を見下ろす高台の公園で
それぞれの名前を教えて貰い
まもなく三人の若者と別れた
女川町を出ておよそ15分
小さな漁港の集落に立ち寄った
かって数十軒の家々が立ち並び
人々の暮らしがあった筈なのに
高台にあった住宅1軒のみが残った

2011/10/13 御前浜

同上 右上の高台に建つ1軒の住宅のみが被災をまぬがれた

同上

同上

同上
2日目の早朝 女川町に入る前
万石浦に建つ「銀河の館」に立ち寄った

2011/10/12 石巻市万石浦 「銀河の館」

同上

同上
僅か2〜3km離れた石巻市は大きな津波の被害を受けた
万石浦は幸い最小の津波被害で済んでいた
「銀河の館」も被災をまぬがれた
まさしく私のアバターは
震災を切り抜け 生きていた
きっと辛かったろうに・・・・・・・・・
設計にあたって 建物のオーナーが
私に最初に注文してきた事があった
津波対策だった
それゆえ 1Fの床高が2.5mにしてある
しかし この辺1帯は地盤沈下が激しく
海面の高さと陸地の高さが
ほとんど同じになってしまっていた
大潮や台風時
石巻市渡波地区は今でも海水が入っている

同上 万石浦
柔らかな秋の日差しがいっぱい降り注ぐ
目の前に拡がる万石浦
海苔 ワカメ 牡蠣 の養殖
そしてたくさんの種類の魚
まさにこの浦は太古の昔から
万石の米にも値する
海の宝庫であった
震災の爪痕など
見た目にはどこにもなかった
海の香がほんのり薫る さわやかな潮風
が通り抜けた
穏やかな水面
牡蠣の稚貝を引き上げる
小船が3艘
黙々と作業を続ける漁師
まるで逆光の世界に映る
漆黒の影絵のようであった

2011/10/12 石巻市雄勝町中央公民館
雄勝町の被災のシンボルとなっている 公民館の屋上に乗った大型バス

同上 雄勝湾と町の中心街

同上 湾岸沿いの集落

同上 集落跡

同上

同上

同上 雄勝町立病院
3階建てのRC造の町立病院も被災した
人気のない建物 震災後火災が発生したのだろうか 建物は黒く煤けていた
津波で3階までの窓ガラスが壊れ 残されたカーテンだけが潮風にむなしく揺らいでいた

同上 町硯資料館中庭
公共建築物の内部は今でも震災当時のままの姿をとどめていた

同上 同上内部
街のあちこちにうず高く積まれた瓦礫の山
瓦礫の山に 2〜3台の重機が
ガ^ガーと鈍いエンジン音を立てて
ガレキを掴んではクルッと素早く回転し
大型ダンプの荷台に積み込んでいた
いつ終わることとも知れない位
膨大な量の瓦礫の山
家並みを全て失ってしまった
白っぽい乾いたアスファルト道路
人の気配は何処にもなかった
大型ダンプカーがもうもうと土埃を上げて
ひっきりなしに往来していた
石巻市に入る前
以前ブログで紹介した
矢本町にあるS氏の自宅を訪問した
みなし仮設住宅ということで
民間のアパートを借りて夫婦2人で
元気に暮らしていた
いろんな話をしてきたが
彼らに将来に向かった明るい眼差しは
見られなかったような気がした
唯一 故郷の雄勝の高台へ
集団移転する話が
ボチボチ出始めていて
将来は(早くても2〜3年後になるだろうと言っていた)
またふるさとの雄勝に戻って住みたいと
そう話してくれたのが
せめてもの救いであった
S氏が生まれ育った雄勝
町の中心部の集落で 被災を免れた民家はわずかに4〜5軒
あとは全てを津波に破壊され尽くされてしまった
商店街も学校も病院も役場も消防署も・・・・・・・・
ありとあらゆるものが流されてしまった

2011/10/12 雄勝湾

同上
雄勝湾は
震災前と何ひとつ変わらず
青い海は穏やかに
時を刻む振り子のように
波に揺れ
見えぬ時間を刻んでいた・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・続く