寒河江という地名は、アイヌ語から来ているという説と、アイヌ説に異論を唱え、朝鮮説を唱える人がいる。
古代、東北地方も朝鮮半島との往来が盛んだったのだろう。
なんとなくアイヌ語の発音のような気もするが、山形県南西部、小国町に多い「近」(こん)という姓は朝鮮から来ているようだ。
同じ町内に、「今」(こん)という苗字もある。なんだかややこしい。
こちらの「今」は和名のような気がする。
寒河江の古代の歴史はいろいろ言われているが、寒河江市の地名に丸の内という地名がある。
寒河江はおよそ400年続いた城下町である。
寒河江市のほぼ中心部に寒河江小学校がある。
寒河江城は、この小学校付近1帯にあった。
歩いてみると、僅かに堀や、町並みに城址の名残を見ることが出来る。
最近、街並みの保存が見直され、堀の一部などが復元、整備された。
寒河江市は、鎌倉前期の西暦1210年ごろ大江親広から1584年第18代大江高基が最上義光に滅ぼされるまでの400年、まさに戦国時代の真っ只中を8万石の城下町として栄えた。
大江氏が滅亡した16年後の西暦1600年には、関が原の合戦が行われ、江戸幕府が今まさに始まろうとしていた時代背景の頃の話である。
城は何代にもわたり拡張を続け、最大縦550m、横400mの規模を誇った。
当時の城は、堅固な石垣、堀、本丸等の要塞としての施設が、まだはっきりとはしていなかった。
都市計画で新しくなった大通りからは、地名以外にかっての城址の面影を見出すことは出来ない。
角の公園に案内板があり、僅かにここが寒河江城址とわかるくらいだ。
寒河江城主、大江高基が滅亡しておよそ400年、・・・・・・
われわれも、400年後の未知の世界にタイムスリップの悪戯・・・・・・・、
そこでは・・・・・・・・・・・・・400年前の出来事を云々していた 。
さて、後世の歴史の評価はいかに・・・・・・・
そして、
大江高基と同様、われわれの生きたこの時代も、後世から見ればなんとはかなく、ちっぽけな時の刻みに映って見えるかも知れない・・・
だとすれば、もっとゆっくり、時には後ろを振り向いて、歩んでいかねば。