「燃える秋」 五木寛之著
旅立つ女の愛と哀しみのフーガ
祇園祭の夜に芽生えた青年との若い愛。
初老の画廊主が誘う暗い性の深淵。
心に満たされぬ空白を抱いて、亜紀は今、幻想のペルシャの遥かな地平に旅立つ。
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その土の家には、二人の女がいた。
七十歳は越えたと思われる老女と、7歳か8歳くらいのやせた女の子だった。
彼女らは、薄暗い燈火の下で、二人並んで1枚の絨毯を編んでいた。
見事な赤を主体にした絨毯で、すでに三分の一が編み上げられていた。
柔らかな髪をした女の子は、きちんと正座をして小さな手を動かしていた。
糸を結び、ナイフで切る動作が、痛々しく思われるほどだった。
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「今はどこででもっとはやく作り上げるんですよ。
何人もの人手でね。
だが、この老人と幼い女の子とでは、これは手にあまる大物です。
ここまで三年掛かったとすると、完成するまでには、そうですね、もう、六、七年は掛かるんじゃないでしょうか。
こんな編み方をしている連中はもうどこにもいやしません。
きっとこのおばあさんは気が変なんだ。
それとも・・・・・・」
その時老女が何か言った・・・・・・・・・・・・
「私が死んでも、この子が織り上げると言ってます」
ふと、女の子が振り返って、亜紀を眺めた。
大きな、暗い光をたたえた目だった。
亜紀はその時、その幼女の目の中に、なにか、永遠、とでも言えるようなものの確かな光を見たような気がした。
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高校の頃、若い国語の教師から聞かされたドストエフスキイの小説に出てくるソーニャという女の人のことを、私はどれほどあこがれたことか!
ソーニャはすべてを許す女だ、とその先生は言ってました。
すべてを許す女だからこそ、すべての人から愛されるのだと。
私はその反対の人間です。
わたしは小さな、とるに足らないことにこだわって、それを許すことの出来ない女なのです。
だから私は本当に幸せになることが出来ないのです。
それがわかっていて、そうできないのがわたしなのです。
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私達の国では、古くから男は義に生きるものとされてきた。
そして、女は愛に生きることを良しとされる雰囲気が濃厚だったと言って良い。
アントン・チェホフの<可愛い女>を、女の理想像とみなす人々は、チェホフのあの作品の背後にひそむ痛烈な批判に気付かないか、もしくは故意に見てみぬふりをしているかのどちらかだ・・・・・中略
時勢に背を向けて、愛に生きる男がいても一向におかしくないように、義に生きる女がいて悪い理由がない。
義というのもひっきょう(畢竟)一つの愛のかたちだからである。
・・・・・・・・・・・文章はすべて「燃える秋」の本文・あとがきより抜粋
寒河江の季節は すでに初冬に入った
先日 秋にちなんだ 昔の本を読み返してみた
この本を読んだのはもうだいぶ前のことだ
再読してみると なんと粗筋さえほとんど記憶になかった
NHK大河ドラマ「天地人」
主人公直江兼続が戦国の世にあって いかにして義と愛を貫いて生きるかが このドラマのメインテーマである
「燃える秋」も又 一人の女の義と愛に生きる姿をテーマにしている
義というのは こころの中ではひっきょうひとつの愛のかたちであるが 現実には自分が今 誰の助けも借りることの出来ない荒涼たる世界と向き合って立っているということだった・・・・・・・・・・・・・・・・・・