志賀直哉著 エッセイ 「山形」
明治40年の夏の事をありのままに書いた
と 志賀直哉自らが後にそう述べている
山形を舞台にした名作である
その名作「山形」の中
「奥羽線のない頃私はこの辺を一度旅したことがある、
大石田から二日がけて最上川を下り、酒田から象潟を通り本庄まで・・・・・・・・・・」
と記されている
おそらく明治30年(1897年)
14歳の直哉が友人の黒木三次と共に旅した時のものと思われる
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/66/19ce0f60c86a55f88f1dff3a4dc12f8c.jpg)
洞興寺山門(とうこうじ) 寒河江市白岩 2010/3/17 AM11時
志賀直哉のエッセイ「山形」の中に出て来る洞興寺
この辺りの寺では滅多に見ることの出来ない
見事な楼門を構えた寺である
寒河江周辺では最も古い歴史を持つ曹洞宗寺院で
後に澄江寺 祐林寺 陽春院・・・・と
曹洞宗寺院が大江家との関係で
多くなっていった
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/9f/6ce10d526359a575e041659937458bb0.jpg)
画竜点睛・・・・・・楼門の天井に描かれていた 今にも抜け出して来そうな見事な迫力の龍の絵
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/1f/d4e4c500827043f2f4edd5865c3733bf.jpg)
洞興寺本堂
洞興寺は今からおよそ500年前 文明十年(1478年)
葉山修験道途中に当たる白岩城鬼門の地に
時の城主 大江家広によって開基された
志賀直哉がこの地を訪れた時代は
東京から赤湯温泉までしか汽車がなかった
山形から大石田までの13里
炎天下の中を下駄履き姿で
全て徒歩で移動しなければならなかった
時代である
この洞興寺 ・・・・・・・・・・・・
かって志賀直哉が訪れた頃の明治時代には
寺子屋として「国民教育揺籃(ようらん)之地」とされ
この地方一帯の学問の場としての
重要な役目を担った事があった
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/12/cd910aae38f0ddbe07815c3c3d85e870.jpg)
寒河江市白岩 旧六十里越街道 曲がりくねった細い道は昔の面影を僅かに残している
今では南側にバイパスが走り 近年更にもう1本のバイパスが走り 地元に住む人以外にこの道を通る人は皆無に近い
この洞興寺のある白岩という所
戦国時代には
寒河江城を西から攻めてくる
庄内の敵を迎え撃つ為の
要衝の地でもあった
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/28/d9d98160e4f60c6f496dafa45e225d93.jpg)
旧六十里越街道標
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/5d/33cc6dc083b2d619c442e3ce5c5f33c3.jpg)
旅館饅頭屋
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/7f/9816730479210cff60fbd4585039a76f.jpg)
同上
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/92/122449cd055bbedad8a5937b27eace2b.jpg)
同上(大正時代)
出羽三山巡礼の宿泊者で往時の賑わいを偲ばせる饅頭屋
志賀直哉がこの地を訪れた時も
きっとこんなふうに
大勢の巡礼者で賑わいを見せていたのだろう・・・・・・・・・・・・・・・
くしくも時代を遡る事 およそ100年である
それではこの先100年
いったいどんな世の中に変わっているのだろうか・・・・・・・・・・?
明治40年の夏の事をありのままに書いた
と 志賀直哉自らが後にそう述べている
山形を舞台にした名作である
その名作「山形」の中
「奥羽線のない頃私はこの辺を一度旅したことがある、
大石田から二日がけて最上川を下り、酒田から象潟を通り本庄まで・・・・・・・・・・」
と記されている
おそらく明治30年(1897年)
14歳の直哉が友人の黒木三次と共に旅した時のものと思われる
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/66/19ce0f60c86a55f88f1dff3a4dc12f8c.jpg)
洞興寺山門(とうこうじ) 寒河江市白岩 2010/3/17 AM11時
志賀直哉のエッセイ「山形」の中に出て来る洞興寺
この辺りの寺では滅多に見ることの出来ない
見事な楼門を構えた寺である
寒河江周辺では最も古い歴史を持つ曹洞宗寺院で
後に澄江寺 祐林寺 陽春院・・・・と
曹洞宗寺院が大江家との関係で
多くなっていった
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/9f/6ce10d526359a575e041659937458bb0.jpg)
画竜点睛・・・・・・楼門の天井に描かれていた 今にも抜け出して来そうな見事な迫力の龍の絵
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/1f/d4e4c500827043f2f4edd5865c3733bf.jpg)
洞興寺本堂
洞興寺は今からおよそ500年前 文明十年(1478年)
葉山修験道途中に当たる白岩城鬼門の地に
時の城主 大江家広によって開基された
志賀直哉がこの地を訪れた時代は
東京から赤湯温泉までしか汽車がなかった
山形から大石田までの13里
炎天下の中を下駄履き姿で
全て徒歩で移動しなければならなかった
時代である
この洞興寺 ・・・・・・・・・・・・
かって志賀直哉が訪れた頃の明治時代には
寺子屋として「国民教育揺籃(ようらん)之地」とされ
この地方一帯の学問の場としての
重要な役目を担った事があった
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/12/cd910aae38f0ddbe07815c3c3d85e870.jpg)
寒河江市白岩 旧六十里越街道 曲がりくねった細い道は昔の面影を僅かに残している
今では南側にバイパスが走り 近年更にもう1本のバイパスが走り 地元に住む人以外にこの道を通る人は皆無に近い
この洞興寺のある白岩という所
戦国時代には
寒河江城を西から攻めてくる
庄内の敵を迎え撃つ為の
要衝の地でもあった
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/28/d9d98160e4f60c6f496dafa45e225d93.jpg)
旧六十里越街道標
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/5d/33cc6dc083b2d619c442e3ce5c5f33c3.jpg)
旅館饅頭屋
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/7f/9816730479210cff60fbd4585039a76f.jpg)
同上
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/92/122449cd055bbedad8a5937b27eace2b.jpg)
同上(大正時代)
出羽三山巡礼の宿泊者で往時の賑わいを偲ばせる饅頭屋
志賀直哉がこの地を訪れた時も
きっとこんなふうに
大勢の巡礼者で賑わいを見せていたのだろう・・・・・・・・・・・・・・・
くしくも時代を遡る事 およそ100年である
それではこの先100年
いったいどんな世の中に変わっているのだろうか・・・・・・・・・・?
クロッカスの咲いている様子に、植物の適応性
に驚かされます。ラビイーさんのブログから
色んな知識を、吸収させていただいてます。
精神的に豊かな生活を送りたいので、
刺激になっています。解り易く、詩的な文章
や写真も魅力ですね。雪国は春がいっせいに
来るとか! 春の模様の写真を楽しみにしてお
ります。
今日の寒河江は今年一番の暖かい日でした
いよいよ春本番
身も心も一気に衣替えの季節がやって来ました
山形の春はこれからまさに・・・・・百花斉方
今年 どんな春に巡り会えるのか 今から楽しみです