
山形城址 二の丸西門
※ もののふの夢の続きか石垣の漣立ちぬ城跡の濠
※ 城跡の濠に映りし枯枝の漣立つはもののふの夢

山形城址 二の丸西門
二の丸西門は
山形城址に4つある門の中で一番小さな門である
表玄関にあたる東大手門は
十年ほど前に立派に復元されている
西門に比べ他の3つの門は東大手門を始め
どれも遥かに規模が大きい
でも私はこの西門の佇まいが1番好きである
濠の幅も他に比べてかなり狭い
陸奥(みちのくの)の関ヶ原 と言われている直江兼続との戦いに勝ち
60万石の伊達正宗に並ぶ 東北一の大大名となった最上義光
しかし
愛娘駒姫を京都三条河原で秀吉によって斬首された心の傷は
果たしてその事によって癒されたであろうか・・・・?
義光の死後僅か八年の時を経て
義光の孫、家信の代に改易され、
その後鳥居氏が入部、現在の二の丸は鳥居時代のもの

山形城址二の丸 南門付近
※ 山形城は、延文2年に斯波兼頼によって築かれた。 兼頼は、奥州探題斯波家兼の次男で、出羽国から北朝方勢力を一掃を使命としての入封であった。 その後、最上氏を称して室町時代を通じて勢力を拡大した。
最上氏10代義光は、天正年間に対立する一族・国人を平定して最上一円24万石を領した。 この時代に山形城は近世城郭へと大修築された。 関ヶ原の後57万石の大大名となったが、元和8年にお家騒動により最上義俊は改易となった。
最上氏改易の後に、磐城平より鳥居元忠が24万石を領して入封、二の丸の堀などの修築している。
山形へは、鳥居・保科・松平(越前)・松平(奥平)・奥平・松平(越前)・堀田・松平(奥平)・堀田・松平(大給)・秋元と度々城主が代わり、遠江浜松より水野忠精が5万石で入封して明治を迎えた。
※印の文章は羽前山形城の記述引用

本丸復元工事 JR山形駅西口に建つ霞城セントラル
十年ほど前から本丸の復元工事が進められている
太平洋戦争当時 陸軍によって本丸のお濠は埋められた
太平洋戦争が終わって六十年経って復元工事が始まった
山形城が明治維新の古き面影に戻れる日は
果たしていつの事になるでしょう~