浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

恩師の歌集「愛」より

肉体の限度にいどみ人救う
愛の行い我が内の神

「御垂訓」

2020-11-15 00:18:16 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
恩師のご著書「講演集」より

            講演集、 二

        愛によって相手が救われた時の喜び


先の続き・・・

翌日、お墓に参って欲しいと言われたのですね。
雪国ですから風雪にさらされて、お墓の石が相当傷んでおります。
お墓の前でも仏壇同様に、「お墓に意識を残しておられると成仏できません」
と話しておりますと、その墓石が今建てたばかりの新品のようになりました。
すぐに村中に広がってしまいました。
村中の皆さんは「そんな尊い方が来て下さるのに、
どうして知らせてくれなかったのか」と、
今度は反対に村中から叱られたそうです。
次に寄せていただくと、各家庭の有線で村中に放送してくれたので、たくさん
集まって下さって、使命を果たして私は命からがら逃げて帰ったのです。
それこそ夜中の十二時、一時まで治療をさせてもらいました。
ま、ご奉仕ですね。

今年お参りしますと、その家からお嫁に行かれた七十二歳のおばあちゃんが
お見えになっていました。
そのおばあちゃんは幼い頃曽祖母(ひいおばあちゃん)と一緒によくお仏壇の
掃除をしたそうです。
盆とかお彼岸とかにね。
この阿弥陀さんはどうしてこんなに真っ黒なのかと思っていたというのですから、
七十年前にすでに真っ黒だったのです。
それが今年はさらのお仏壇よりも阿弥陀様のほうが光り輝いています。
ですから、私が何も説明しなくても、「私が幼い頃阿弥陀様は真っ黒だったんですよ」
「へえー」「ほんとう・・・」「私が子供の時・・・」「不思議なことや」
「尊いことや、有難いことや」と、皆さんがコソコソと勝手に話し合って
感心しておられましたね。
では、なぜ物質にそういう現象が起こるのか―――あまり不思議なことが
起こりますと、あれは動物霊が化かしているのだとか、悪霊のなせる業だとか
言う人がおります。

もし私が動物のような生活をしておりますと、これは動物霊の力です。
また私が悪霊のような生活をしていましたら、こういう現象は悪霊の力です。
しかし、私がもし神仏のような生活をさせてもらっていましたら、
それは神仏のなせる現象です。
「モーセの杖から変わった蛇は、魔法使いの杖から変わった蛇を飲みこんだ」
と聖書に書いてあります。
私の力とは違います。
見えない世界の偉大な力が働きかけて、信じられないことが起こります。
そしてその現象は、何百人、何千人おられましても目の前に見えます。
一人だけが見たのでは、ほかに証明する者がありませんが、
複数の人がこれを認めた場合、これは科学的現象です。

そこでは昼の部、夜の部とたくさんお見えになって、
皆さんがそれぞれ喜びを持って帰られました。
それは私の心の安らぎとなり、私の皆さまを思う愛、
どうぞ幸せになって下さいと言うその思いが皆さまの心の中に伝わります。
だから満たされていきますね。
福井県でも皆さまに喜んでいただいて、
私の思いを受け取っていただけたと思います。


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「御垂訓」

2020-11-14 00:21:57 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 恩師のご著書「講演集」より

          講演集、 二

    愛によって相手が救われた時の喜び


先の続き・・・

お仏壇は買いたての新品ですごく立派なのですが、
ご本尊は先祖代々の阿弥陀如来像が祀ってあって、
それが墨を塗ったように真っ黒でした。
仏壇を買った時に、この黒い阿弥陀様を
洗ってもらえませんかと頼んだそうです。
すると仏壇屋さんに、「ご本尊さんは黒い程値打ちがあるのです。
綺麗にしたらいけません」と叱られたというのです。
お仏壇にお参りをして、「M家の先祖代々の皆さま、
今日はご縁を頂きましてこの場所にお招きいただきました。

ありがとうございます」とお礼を申し上げてから、
「もし、このお仏壇の中に、この場所が我が住みかと思い、
位牌、仏壇の中に思いを残しておられる諸霊が
おられましたらよくお聞き下さい。
又この屋敷に縁のある諸霊も共にお聞きください。
私たちは本来、光り輝くすばらしい世界から、
この地上の世界に魂の修行に来ております。
この地上の修行が終われば又、あの光り輝く天上の世界に帰ってこそ、
まことの成仏ができます。
この地上のどのようなものであっても思いを残しますと、
その思いが執着となって救われることはできません。

この地上界から一切の思いを離しなさい。
又、この地上において生活をなさいました五十年、
百年の間をよく振り返ってみて下さい。
私たちは、この肉体の五官の故に或る時は腹も立てました。
愚痴も言いました。
恨み、憎しみ、不要の心配、恐怖、貪欲、
それらの思いはいかがでございましたか。
この思いこそ、私たちの苦しみの原因となっておりました。
その思いが心のおもりとなって、
その重さの故に天上界へ上がることができません」と、
お話させてもらいました。

さらに「神様の御心―――幸せに生きよ、健やかに生きよ、
と言っていただくその神のご意志に背いていることに目覚めて下さい。
自らの心を苦しめ、神のご意志に背いては、
何ものも救われることはできません。
この過ちに気付けば、今、心素直に自分の過ちの一つ一つを
真の神にお詫びして下さい。
その時、皆さまの心は安らぎます。
そして必ずあの光の世界に帰れます」とお話させてもらいますと、
阿弥陀様は突然パーッと光って、忽ちにして
黒いところが消えていきました。
そして仏壇の周りの新しい金箔に曇りがあったのが
見ている間にサーッと消えて、
磨いた鏡のようになりました。


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「御垂訓」

2020-11-13 00:16:39 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より

           講演集、 二

       愛によって相手が救われた時の喜び


先の続き・・・

これは小さいことでもいいのです。
家庭の中で両親に対して、或いは夫婦の間で、
また子供に喜んでもらうことを積むことです。
これを行じていきたいと思います。
ただ、心からさせていただくことですね。
これだけしてあげたからあなたはこれだけ私にして下さいという
交換の心を持ってはいけません。
それでは自分が不幸になります。
子供に対しても、自分に気に入らないことがあっても関係ありません。
ただ、させていただくと、その時必ず相手の心が変わってきます。
自分に向かって怒鳴ろうが裏切ろうが関係なく、
誠心誠意させていただくと、
その愛は相手を変えます。

この間、石川県と福井県に招いていただきました。
石川県のその地方は、蓮如上人が法を説かる基盤とされたところです。
門徒さんの多い地域です。
その村の戸数は百八十戸。
門徒信仰のものすごく篤い場所ですから、S宗教の家は一軒もなく、
全く他宗教の入り込む余地のない、いわば門徒の聖地のような地域です。
去年、そこへ私が呼んでいただいた時は、
その家では大変気を使われまして、
変な宗教をもってきたのと違うか、もし門徒以外の宗教なら、
自分たちは村八分にあって大変なことになると、
その家族と親戚だで私を呼んでいただいたのです。

その時、お釈迦様の話しをさせてもらったら、
大変喜んでいただきました。
門徒さんのお仏間は、家によって違いますが、
十畳四間どりで襖をとると四十畳の広さになり、
廊下も幅一間半ぐらいある広いものでした。
私は仏間の隣の奥座敷に案内していただきました。
廊下をはさんで向かい側にある親戚の皆さんがおられましたら、
そこへいっばい金が出てきたのです。
私がその部屋に入ったのならば、ポケットに忍ばせて
撒いたと思われるでしょうが、
私はまったく一歩もその部屋には入っておりません。
部屋中キラキラになったので、
皆さんが「不思議なことがあるものだ」と
びっくりなさったのです。


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「御垂訓」

2020-11-12 00:25:12 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
    恩師のご著書「講演集」より

           講演集、 二

       愛によって相手が救われた時の喜び


「法」とは有難いものです。
一昨日、二十歳前後の兄弟の弟さんのほうが来てくれました。
そのお兄さんのほうは家庭の破壊者だったのです。
気に入らないと、物はぶつける、お膳はひっくり返すと、
手に負えなかったのですが、以前こられた時、
僅か半時間か四十分お話させてもらっただけで帰り際の靴をはくところから
もう変わってきたのですね。

変われるというのは、ご本人の魂がもともと高かったからです。
ただ道を知らない為にそういう過ちを犯しておられたのが、
一旦道が示されますと、即もう百八十度の転回となったのです。
お母さんも、息子を恐いものに触れるように、
ハラハラした生活をしておられたのですが、

あまりの変貌ぶりにびっくりされ、また周りの方も驚かれたのです。
これが機縁でヘソ曲がりの弟さんもここに見えて、
それ以来いい子になってくれました。
高橋信次先生の「心」についての本を買って帰られて、
その本を夢中になって読み、
ある朝澄まして起きてきて、「私はゴータマ・ブッダだよ」と言って、
まあ、えらく感動してしまったのですね。

兄さんは、「僕はイエスの跡を踏まねばいけない」と頑張ってくれ、
では、お母さんはさしずめマリア様、長尾先生は忠岡の
イエス様と決まっていますと、
そのお宅で大笑いなのです。
こんな話を弟さんから聞き、そういう喜びを目の当たりに見せてもらい、
破壊寸前の家庭が調和されていく姿は、ほんとうにうれしいものです。

この世に生を頂いた人間として、もちろん自分の力ではありません、
私という肉体を通して家庭が調和され救われていただく時、しかも大勢の
何人もの方からこんな喜びを頂けることを思わせていただいた時、私ほど
幸せな者はそうたくさんはいない、或いは世界一の幸せ者か分からないと
思います。

A先生も「私は世界一の幸せ者」と常にお話なさっておられます。
そのA先生が「長尾先生は私は何倍かの幸せ者です」と
おっしゃって下さいましたが、
その喜びは何ものにも代えることができません。


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「御垂訓」

2020-11-11 00:23:34 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      恩師のご著書「講演集」より

          講演集、 二

         良心(神の分け御霊)と自我(悪魔)


先の続き・・・

もし静かな時間がとれましたら、大いなる神の命と、
この私たちの内なる命とは全く同じ命を頂いているのだということに
思いを馳せて下さい。
なんともいえない喜びが湧いてきます。
私たちは神の分け御霊です。
同じ家族の皆さまも神の分け御霊です。
では、お互いに尊敬し合い、キリスト教でいう神を賛美する如く、
家族の中でお互いに褒め称え信頼し合う、
そういう生活がもしできますと、
そのお宅は仏国土、ユートピアです。
キリスト教的に言いますと、神の御国です。
それをまず家庭の中に築き上げることです。
必ず幸せになれます。

信頼し、すばらしいところを褒め称え、
愛し合う幸せな家庭を私たちは作っていきたいと思います。
それがほんとうの幸せです。
相手に尽くさせてもらった時の相手の喜びが、
自分の心の安らぎに変わります。

静かに座禅し瞑想に入って、ああ私は安らぎが得られたと
思いますけれど、本当の安らぎは人さまにご奉仕した結果、
相手の方が喜び、又苦しい方が救われて下さった時の善なる
行為によって現れる喜びこそが、
心の安らぎにつながるのです。

また無我もそうです。
私は無我を悟ったといって、山奥でひとり喜んでいつまでも
坐っていても、これは狐が野原で禅をしているのと同じで、
何の価値もありません。

巷の中で自我を滅した無我の生活をしてこそ価値が現れます。
「自分が自分が」という自我を完全に無くした時、
無我の境地に至ることができます。
その時、無限の光が注がれます。
限り無い光、エネルギーが望むことなしに与えられます。


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「御垂訓」

2020-11-10 00:11:02 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「講演集」より

           講演集、 二

         良心(神の分け御霊)と自我(悪魔)


私たちの心の中には、神の分け御霊である良心が与えられています。
と同時にサタン(悪魔)の心もちゃんと与えられています。
この悪魔とは自己保存と自我我欲です。
これがどこから出てくるかというと、肉体の五官から出て来るのです。
「良心と自我」「神なる心と悪魔なる心」これが
心の中で絶えず葛藤しています。
そして勝ったほうへ、もしエゴが勝てばエゴの行動を起こし、
良心が勝てば良心に沿った行いをとります。

エゴが勝ち続けてエゴの生活をずっと続けますと、
その人は必ず不幸になります。
又良心のおもむくままに生活の行動をした人は、
必ず幸せになっていきます。
それは神の心だからです。
私たちはどうしても自分本位に走り勝ちになるのですね。
A先生は、ほんとうに自分を捨てて、
人々を救う為に東奔西走して下さっています。
私もその真似をしております。
ただ、させていただくのみ、いっさいの望む心なしに行動を起こし、
自我の望む心はいっさいなしに尽くさせていただきますと、
その時、私たちは神の光に満たされます。

なぜ神の光に満たされるかというと、
神ご自身がそのような思いを持っておられるからです。
その神のお陰で私たちは生きさせてもらっています。
ただ与えるのみ、ただ与え給うのが、神の御心です。
私たちはその神の分け御霊です。
神と全く同質であり同根であります。
私たちは神様となんら変わるところはありません。
それはどういうことかというと、
この宇宙は一秒の狂いもなしに循環しております。

宇宙の全惑星が正確に一秒も狂うことなく動かされています。
このエネルギーこそが命です。
大いなる大生命です。
私たちが胸に手を当てますと、ドッドッと心臓が動いてくれています。
これも生命です。
命は、神様の命と、私たちの命と、なんら変わることはありません。
太平洋の水を神様とします。
その一滴の水をすくい上げてみますと、これも太平洋の水で、
神様と変わることなく、
神様の大生命の中から私たちの生きる小生命を頂いております。
生命が肉体から離れた時、私たちの「肉体の死」が起こります。


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「御垂訓」

2020-11-09 00:05:54 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       恩師のご著書「講演集」より

          講演集、 二

    「愛」は無償の思い・行いである


先の続き・・・

この世に生きる人は、一人一人魂の次元が違います。
次元の高い人は他の人に尽くそうとしますが、
次元の低い人は人の世話になろうとします。
そして、低いが故に人の恩を知りません。
人の恩を裏切ります。
高い人は自分の魂の段階が高い故に、
低い人から裏切られても又、次の人に尽くすのです。
そしてまた裏切られます。

その時の高い方の思いは、たださせていただいているのであれば、
裏切られようがどうしようが、腹は立ちません。
魂の高い方が落いり易い落とし穴は自分と相手とは
同じ魂の段階だと思うことです。

そこで、私はあの人にあのことをしてあげたとか、
これだけ世話をしてあげたという思いを少しでも持ちますと、
裏切られた時に苦しむことになります。
「何という恩知らずだろう。あれだけ尽くしてあげたのに、
あれは人間ではない」と言って、
自分の心を苦しめます。

自分の心の内だけでは済まないから、
「あの人はあんな人です。あれだけしてあげたのに恩知らずです」と、
人にも言って歩くことになります。
これは毒を撒いているようなものです。
せっかく善を行っても心の在り方を知らないが為に自分の心を
苦しめています。

その証拠に、環境、肉体の上に苦しみが現れてきます。
病気になったり、不幸が起きたりします。
神様、仏様のようないい人が、どうしてあんな不幸な一生を
送っていられるのかと、
不思議に思うような例はよくありますね。
どこにでもそういう方がおられます。

私は日本より外に出たことがないので、他国のことは
分かりませんけど、
日本国中どこに行きましても、そういう方はおられます。
親切の故に人に尽くし、それ故に不幸な方です。
その逆で、冷たくて他人はどうなっても構わないという人が、
うまくいっている場合があります。
これは冷たいが故に、他人が辛かろうが倒れようが自分に
関係はないと思い、
自分さえよかったらいいという生き方をするからです。

人に尽くすことがないから裏切られることもなく、
従って腹を立てることがないという方です。
自分の心を苦しめないから、あんがいこの世でうまくいっています。
では、人のことは放っておけばいいかと言いますと、
それでは、この世に生まれた使命が果たせません。
その裁きは必ずやってきます。
自分の良心が自らを裁きます。


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「御垂訓」

2020-11-08 00:02:34 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
  
 恩師のご著書「講演集」より

           講演集、 二

          「愛」は無償の思い・行いである


「汝の敵を愛せよ」とイエス様は言われます。
なぜ敵を愛さなくてはいけないか。
なぜ隣人を愛さなくてはいけないか。
愛の定理とは、また愛とは何でしょうか。
「愛」とは自らを犠牲にして他を生かそうとする想念、
行為です。
そして、後悔しないことです。
自分を捨ててでも相手を生かそう、幸せにしようというその思い、
行いこそが愛です。
人間の心には、白色、黄色、黒色のいかんを問わず、
どの人種にも共通して
持っている「思い」があります。

それは「自分にとって都合のよい人はみな好きで、
自分に都合の悪い人はみな
嫌いという「思い」です。
自分の為にしてくれる、
自らを犠牲にして愛を尽くしてくれる人がいますと、
自分に都合がいいからこの人は大事な人だと思います。
そして、愛する人が多くなればなる程、
今度はその方達から愛を頂くことになります。
すべての人の愛を自ら頂くのです。
愛するが故に愛されることになります。
まず隣人を愛しなさい。
自分の最も隣にいてくれる身近な方を愛しなさい。
隣人の為に尽くさせていただきなさい。
しかも無償の愛です。

求める心があったら、してはなりません。
もし求める心があって愛を行ったとしますと、
これは愛ではないのです。
これは自分を不幸にします。
「求めて得られない時は、
毒矢で胸を射抜かれたような苦しみを味わう」と、
お釈迦様はおっしゃっています。
求めたら与えられないようになっているのが、
この世の法則です。
なぜかというと、心は無限大ですが、
この地球上は有限の世界だからです。
限りある世界で限り無い心の欲望を持ちますと、
絶対に与えられないし、
与えられるはずがありません。
だから、求める心を持ちますと、
求めて得られないのがこの世の法則ですから、
得られない時には必ず苦しみます。


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「御垂訓」

2020-11-07 00:01:46 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       恩師のご著書「講演集」より

        講演集、 二

       なぜ「感謝」するのか


自分の心を苦しめては絶対に幸せになれません。
それは神のご意志に背くからです。
少しでも安らぎ、喜び、感謝をすることです。
すべての宗教は「感謝せよ」と言います。
では、なぜ感謝しなくてはいけないのでしょうか。
人間の心は一念三千といって、一瞬にして三千の方向に飛び回ります。
その三千の方向に飛び回りましても、
実は一つずつしか思っていないのです。
二つを同時に思えないような構造に作られています。
一つのことしか思えないようになっています。
「いえ、私は二つのことが同時にできます」という方は、
泣くのと笑うのと同時にやってみて下さい。
これは難しいことです。

悲しみと喜び、苦しみと安らぎは同時には味わえません。
苦しい時は苦しいだけ、喜びの時は、喜びの心しかありません。
感謝に心を満たしますと、
感謝の思いだけですから自らを苦しめる諸々の
他の思いが入らないのです。
一日の中で十分間感謝の時間を持ち続けますと、
この尊い人生の中の今日という日の十分間は、
自分を苦しめる想念から自分を守っていただけるのです。

もし一時間感謝に心を満たしますと、
自分を不幸にする苦しみの原因が入り込まない
一時間を持つことができます。
「思いは一つ」ですから、
朝から晩まで有難い有り難いという感謝の心で過ごしますと、
今日という日が一切の苦しみの入らない一日として
過ぎたことになります。
感謝とは、自らを不幸から防御していただく
鎧みたいなものですね。
あらゆる宗教家に、なぜ感謝しなくてはいけませんかと尋ねて、
そのわけの話せる方にあまり出会ったことがありません。
それは知らないからです。


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「御垂訓」

2020-11-06 00:06:40 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

  恩師のご著書「講演集」より

        講演集、 二

     「思い」は環境を変える


人生とは人との出会いです。
一人では人生は展開しません。
そして、人との出会いの中でさまざまな出来事が起こります。
都合の悪いことが起こると、腹が立ちます。
都合の良いことであれば、心が安らぎます。

しかし、この人生というのは、魂の修行をする場所ですから、
都合のいいことばかりが起きないようにちゃんとつくられており、
しかもいいことよりも都合の悪いことのほうが
多く起こるようにつくられています。
その時、私たちがどのようにして都合の悪いことを喜びに変えてしまうか、
或いは苦しみを苦しみとして自分の中に入れ込んでしまうか、
そのことによって、その人の人生、運命が変わっていきます。

或る女の方が結婚前に怪我をされました。
小指の先がとんでしまって、「私は生まれもつかぬ不具者になった、
結婚もできない」と嘆き、
勤め先の会社を恨み、人生を怨み、自分の運命を怨んで、
自殺してしまったという方があります。
或る方は片方の手首から先を切断してしまった時、
「ああよかった。こちらの手が助かった。
あの時両方の手がちぎれずに済んで有り難い」と言って、
感謝していられます。

今は義手の技術が進んでいますから、
手に嵌めておられても気が付きません。
その方は幸せに生きておられます。
小指の先をとばしたことで恨んで、悲しんで、苦しんで、
自殺する方もあれば、
一方、五本の指をとばしても、
ああよかったと喜びに変える方もあります。
これはその方の心の持ち方、思い方の中に違いがあるのです。

私たちは環境の中に生活していると思っていますが、
しかし環境の中ではありません。
その思いの中に生きているのです。
人を恨み、憎んで、心を苦しめていますと、
肉体の上や環境の上に苦しみとなって現象化し、
形となって現れてきます。
この世は物質化、現象化の世界といいます。

心が物質と化して形となって現れるのがこの世の法則です。
もし私たちが心を苦しめますと、必ず環境の上に、肉体の上に、
苦しみとなって現象化していきます。
環境がどんなに苦しくても、辛い立場にありましても、
感謝、喜びに思いを変えた方は幸せに生きています。
その見方からしますと、人生は環境の中に生きているのではなく、
ただそう思っているだけで、実相は自分の心の中にあり、
その心の在り方が自分の環境を変え、健康にしていくのです。
それに気付かなかったのです。


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「御垂訓」

2020-11-05 00:02:22 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

   恩師のご著書「講演集」より

         講演集、 二

     精進は厳しく、生涯が学びである


日々の生活の中で、私自身できておりませんし、
難しいことは一切ようしません。
しかしせめて腹を立てないようにしよう、
愚痴を言わないようにしよう、
人の悪口は言わないようにしようと、こころから始めました。
これらは私の持っていた大きな欠点だったのです。
それを少しでも少なくし、無くしていこうと日々努力いたしました。
すばらしいお方は、幼い頃からそんな思いは持っておられません。
私などはその塊でした。
腹を立てると、もう見境なしに怒りました。
私の顔を見て「あいつは怒ったら鬼より嫌な顔をしている」と
言われました。
また、人を憎みました。
憎んだら許しません。

まあ言ってみれば、悪の塊のような人生を送ってきました。
この正法の教えにご縁を頂いて、
それら心の曇りが苦しみの原因だったことを
教えていただきました。
では、苦しみの原因を何とか取り除かなくてはいけません。
諸々の苦しみの原因がありますけれど、
まず腹を立てないようにしよう、
次に愚痴を止めよう、足ることを知った生活をしよう、
そのように努力しました。
そして、人さまに少しでも喜んでいただくようにしよう。
少しでもお役に立たせてもらおうと心掛けてきました。
有り難いことに私はそういう環境を与えていただき、
あちらこちらのお話に行きなさいということで、
行かせていただく中で学ばせていただいております。
A先生とも朝から話しをしていたのですが、
皆さまに聞いていただけるからこそ、
私も話しをさせていただけます。

聞いて下さる方がなかったら、
いくら喋りたくても一人では喋れません。
お話をさせてもらって、私自身も学ばせていただけますし、
又このお話によっていろんな方に会わせてももらえます。
会わせていただくことによって、人さまの苦しみ、
悩みを共に解決し、
少しでも楽になっていただく方法を学ばせてもらえますね。
人間は生きている限り学びでございます。
もうこれでいいということは生命ある限りありません。
今の自分はあまり腹も立たなくなった、
心も大分楽になったという心境に至りましても、
乗り越えたと思っておりましても、
何かのテストを受けて腹を立ててしまいますと、
長い間の精進はそれで失ったことになります。
毎日の生活が修業です。
しかし、有り難いことは法を学ばせていただいておりますと、
悔い改めが早くできます。
反省が自然と身についてくれます。


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「御垂訓」

2020-11-04 00:36:56 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「講演集」より

          講演集、 二

       心の曇りとは何か


幸せになれないのは心の曇りによるのです。
私たちが知らず知らずに出している心の曇りによって、
幸せの光を自ら遮断していたのですね。
その曇りとは何か。
これはいつも申し上げています。
〔怒り、妬み、憎しみ、謗り、人さまの悪口、愚痴、恨み、取越し苦労、
不安、恐怖、己を守る為の嘘、貪欲〕

このようなものが、本来は神と変わらぬ、神の分け御霊を頂いている私たちの
表面を包み、神様と私たちとを遠く離していたのです。
人間はどうしても自分本位になっていき、その時、人に尽くすことを忘れます。
そして「何でもあって当たり前」と思う心から、感謝を忘れ、
幸せを失っていたのです。


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「御垂訓」

2020-11-03 00:09:34 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       恩師のご著書「講演集」より

          講演集、 二

       幸せを求めて皆が歌う


ご縁といいますのは、ほんとうに有難いものでございます。

縁なくして巡り会うことはできません。
こうして大勢の方とのご縁を頂き、一堂に会しますことは尊いご縁です。
縁を大切にせよ、縁こそ宝である、私たちはこの宝を大切にしていきたいと
思います。
先日、T地方へ、そしてO地方へ招いていただきました。

いま又こうしてはるばるO地方から立派な先生にわざわざ
訪ねていただけるということは、
私にとりましてこれ以上の喜びはございません。
又東京から岐阜県から富山県から、
或いは広島の尾道からおいでいただき、
ほんとうに有難いことです。
私のような未熟な者がどうして皆様に訪ねていただけるのか、
大切にしてもらえるのかとよく考えます。

それは尊いご縁によってですけれど、
皆様が心の中に幸せにならなければならないという
共通した思いをお持ちになり、
幸せになる為にはどうしたらいいのかとその道を尋ねて、
こうして集うていただいたのだと思います。
私たちはほんとうにすばらしい光の世界、
幸せいっぱの中に住まわせていただいているのです。
それを無智で知らないが為に、幸せをつかむことができなかったのです。
今日迄の生活の中で、私たちは幸せをつかむ方法を見失っております。


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「御垂訓」

2020-11-02 00:06:37 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       恩師のご著書「講演集」より

             講演集、 二

       「故郷」の歌合唱――心の調和の為に


今回もう一つ嬉しいことは、お話に先立って皆様に心を調和していただく為に、
Fさんのお譲ちゃんのUちゃんにバイオリンを弾いていただくことになりました。
Uちゃんは西宮から来ていただいております。
このお母さんがいろいろと信仰の道をたどられて、
この子もややこしいところに連れていかれて随分反発していたのですが、
ご縁を頂いてすばらしいお子になっていただきました。
私にとって可愛い可愛いお子でございます。
ではお願いいたします(拍手)。

――バイオリン演奏――「ユーモレスク」他一曲、続いて「故郷」の歌合唱(拍手)。

Uちゃんが途中で泣き出して、バイオリンが止まってしまいました。
ありがとうございました。
すばらしいバイオリンの響きです。
特にお願いをして「故郷」を弾いていただきました。
この歌の中に「こころざしを果たして、いつの日にか帰らん、山は青き故郷、
水は清き故郷」とあります。
私たちはあの素晴らしいふるさとから、この地上の世界へ自らの志を果たす為に、
魂の修行をしに招いていただいております。

いつの日にか志を果たして、あの素晴らしい魂のふるさとに
帰っていかなくてはならないのです。
いま歌わせていただいたこの歌は、単に学校で習った唱歌と思っておりましたが、
この世のほんとうの志を果たして、ほんとうの光り輝くふるさとに帰ることを、
このように表していただいた歌ですね。
思わず涙がこぼれてしまいます。
毎回お話に先立って、高橋信次先生の残して下さいました心の行い、「心行」の
朗読をさせていただいております。
どうぞよろしくお願いします。
――「心行」の朗読――


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「御垂訓」

2020-11-01 00:00:16 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「講演集」より

            講演集、 二

       遠方よりA先生、ご来阪


今日はまたたくさん集うていただきまして、ありがとうございます。
第四日曜日は毎月この浄心庵で午後一時十五分から始めることになっております。
今日はたいへん嬉しいご報告がございます。
A先生が是非話しを聞きたい、「愛」について学びたい、そのようにおっしゃって、
一昨日からおいでになっております。

私のような者は足元にも近寄れない立派な先生でございます。
午前中も朝早くから皆さんが来ておられましたので、少しでも長い時間先生の
縁に触れられるようにと思って、私は向こうで遠慮申し上げておりました。
ほんとうにすばらしい先生にご縁を頂載して集うていただくことは、
私にとりましてもまた皆様にとりましても、非常に大きな喜びでございます。
よく来ていただきましてありがとうございました(拍手)。


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