浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「御垂訓」

2022-05-31 00:08:14 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 恩師のご著書「講演集」より


              講演集、 一

        「人の悪口はいっさい止める」

原因を作れば必ず結果が現れて来ます。
結果があれば必ず原因があるということです。
原因なしに現れる結果は何ものもありません。
結果があれば必ず原因がある筈です。

お釈迦様は、因縁因果の法則を説かれました。
原因・結果は二つの言葉ですけど、
これは一つのものだったのです。
切っても切れない一つのものです。

一つだから絶対に離れることができない。
もし間違った原因を作れば必ず間違った結果を生みます。
苦しみの原因を作れば、
苦しみの結果はこれはもうちゃんとくっついているのです。
だから避けることはできない。

その代わり、有難いのは、喜びの原因を作れば、
同じように喜びの結果がちゃんとついていることです。
これがはっきりと理解できないと、
私達は平気で誤りを犯します。
人の悪口を言えば、必ず自分が人から悪口を言われます。
これはもう付きものです。
自分が悪口をいう原因を作れば、
きっと悪口という結果が帰って来る。

「内緒ですよ、人に言ったらあきませんよ」とヒソヒソと言えば余計に早い。
だから悪口は言わないことです。
人の悪口を言わない日々を過ごしますと、日常の心がとても楽になります。
私も今迄過去の話の中で、よく誤まった宗教家の話し、
間違っているお医者さん、

或いはお坊さんとか神主さんの間違った例をとりあげて話しましたが、
やはりこれは悪口になります。
だから今後はこういう話はいっさいすまいと思っております。
そして人の悪いことはいっさい思うまい、言うまいと決めました。
そうしますと、今迄に体験しない程、心が楽で安らかです。

どうか皆さんも、人に悪いところがあっても言わないことを生活の中に
実践してください。
あっても言わないことです。
常に心に関するお話をさせていただきながら、
自分が率先して人の悪口を言っていましたら、お話になりません。

人が話したことを私がしゃべっても、やはりこれば私が言った話になります。
世の悪いことはいやという程、日々の生活の中で見てもきましたし、
人からも聞かせてもらいました。
これも学びの一つの方法になるのでしょうが、そういうお話よりは、
自分を正すことのほうが大事ですね。


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「御垂訓」

2022-05-30 00:00:28 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 ~ 恩師の御著書「講演集」より ~


              講演集、 一

     「母娘の責め合いと反省の功徳」

先の続き・・・

この母娘の場合、
娘さんのほうも親に背いて親を苛めることを自覚できていないし、
又親もなぜこの子は自分を責め苛めるのが分からなかったのです。
ところが反省してこの子の上に思いを致し、
この子は辛かっただろうと懺悔した時、

悪いことをした、
可哀そうだったという思いに目覚めてきたのです。
お母さんが、その思いで娘さんの前に手をついて詫びたら、
娘さんの心も開かれたのですね。
毎日が地獄だったのがいっぺんに変わってしまって、
忽にして極楽の世界です。
信じられないことが起こります。

これを反省の功徳といいます。
反省させてもらい、自分の至らないことに目覚めますと、
今迄の憎い、許せない、
いやらしいと思った心が忽にして消えてしまいます。
自分の過ちに目覚めるのが反省ですね。

幼い頃から悪いことをしたら「お前反省しろ」と言われたものですが、
そういう意味の反省ではなくて、自己を常に振り返って、
過ちはなかったか、道をはずれてはいなかったと、
自分自身の過去を追求することです。

これが幸せに目覚める一つの功徳です。
自分が正しいと思う間は絶対に救われません。
悪いことをした、申し訳なかったと気付いた時に、
自分自身が救われます。


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「御垂訓」

2022-05-29 00:24:12 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の御著書「講演集」より ~


            講演集、 一

     「母娘の責め合いと反省の功徳」

先の続き・・・

その翌日のこと、夕方から雨が降ってきた。
娘さんは例の宗教の所に出掛けており、
洗濯物が干したままなのですね。
ああこれを取り込んでおかないと濡らしたら叱られると思って、
取り入れていた時に、
その意地の悪い娘さんの幼い頃がふと思い浮かんできたそうです。

子供さんが三人ありまして、
上の二人は嫁に行って下の娘が養子を取って跡取りです。
この人の幼い頃はちょうど姑さんの具合が悪くて
看病に多忙な時だったそうです。
末娘は女中さんに任せっきりで、
自分は姑さんの世話についていた。
「ああ、あの子を抱いて育てることがなかったなあ」と、
その思いが蘇ったというのです。

上の子二人は我が胸に抱いて育てた、
あの子は抱くこともできなかった、
それでも姑さんの看病に精一杯尽くしたんやから
これは正しいと思っていたけど、あの子の立場に立ってみると、
どんな思いをしただろうか、
母親に抱かれることもなく寂しく辛かったのと違うだろうか、
と気付いてくると、もう末の娘に対して、しまった、悪い事をした、

申し訳ないことをした、と可哀そうで、
涙がこぼれてたまらなくなってきたそうです。
すると、そこへ娘さんが帰って見えた。
お母さんは仲の悪い娘さんの前に手をついて詫びられたのですね。

あなたの幼い頃、抱いてあげることも遊んであげることもできなかった。
寂しいかったのと違うかと泣いて話されると、娘さんも、
私だけ、なんで上の姉さんのようにしてもらえんのかと思って
ずーっと寂しかった、辛かった」と娘さんもワンワン泣き出して、
そしてお母さんが「可哀そうなことをした、堪忍して」と詫びますと、
娘さんも「今迄の親不孝を許して下さい。

私は今迄言えなかったのです。
これからは本当の親孝行をさせて下さい」と言って、
親子で抱き合って泣いて詫び合ったそうです。
このことがあって、お母さんから電話がかかって来ました。

今まで張り詰めていた心がほどけて、変な気持ちだと言います。
「心の中の芯が抜けてしまったようです。
しかし有難いです」とおっしゃっています。
この子はいやらしい子だ、敵の生まれ変わりだという一心だったのが、
自然に消えて、
何とも言えないと泣いて話しておられました。



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「御垂訓」

2022-05-28 00:02:29 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
~ 恩師の御著書「講演集」より ~


             講演集、 一

      「母娘の責め合いと反省の功徳」

神戸にあるお城のような大きなお屋敷で、
一度入ると今度は出口が分からんようになる程の大邸宅があります。
普段使うのは勝手門、
門から100メートル程離れた所にその勝手門があり、
土塀をめぐらしてある。

そんな大きなお宅ですけど、住む親娘は敵同士のように仲が悪い。
六十近いお母さんと、四十前の末娘さん、
その娘さんが養子さんをもらって住んでおられるのです。
お孫さんは小学校の小さい子です。
お母さんが言うには、「この娘は敵、
前世の敵が自分の腹を借りて生まれて来たのか思う」
それ程、親を苛めるのだそうです。

箸がこけたのまで、
お母さんの心掛けが悪いからだと言って責める始末。
その娘さんは妙な信仰に凝って、お母さんのすること為すこと、
またお母さんの出掛けた先まで全部、
宗教の所に行って連絡するのです。

そうすると、宗教の神様が「そりゃ、お母さんが悪い」と言う。
それをまた家でお母さんを責める材料に使う。
親にしたら堪らんです。
よく嘆きの相談に来ておられましたので、
「その娘さんが信仰に行っていたら、
お母さんも一緒に行ってあげなさい」と言いますと、
「妙な霊にとりつかれると怖い」とのこと。
「本当に愛があれば自分を捨てて、
その娘さんを救ってあげる為にも
共に行ってあげるのが愛ではないでしょうか」と話したのです。

しかし「そこまではようしません」とおしゃいます。
そうして自分はいつも正しいと思うから
苦しいのだという話をさせてもらいました。
自分を主として見た時、必ず苦しみが生まれます。
なぜかと言うと、自分を主として見ると、
この五感を通して見ることになります。
目、耳、鼻、舌、身ですね。

この五感は私達の肉体を保護保存する為に与えられた道具です。
どれ一つをなくしても生きるのが困難です。
この五感を通して自己中心に見て判断すると、
間違う場合が多いです。

必ず自己保存と自我・我欲つまり
「業」に捉われた見方になるのです。
だから自分を中心として見た時、必ず苦しみの中にいます。
この苦しみからのがれる為には、
常に相手の立場に立って自分から離れて見ることです。

相手の立場に立つ、善意なる第三者の立場、
或いは私達を生かして下さる神様の立場にたって、
自分と相手とを観察していく時、
自己保護から離れた間違いのない見方がしていけるようになるのです。

私達は自分が正しいと思って生きていますが、
自分を反省して相手の立場で考えてみますと、
とんでもない迷惑をかけている場合があるのです。
自分より相手はどうだったかと思う癖を常につける練習をした時に、
物の見方が変わってきます。
そのように話をさせていただきました。


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「御垂訓」

2022-05-27 00:04:47 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 ~ 恩師の御著書「講演集」より ~


               講演集、 一

        「心を入れ変えた息子さん」

先の続き・・・

そうして今浪人中の弟さんがいるそうですが、
これも又ヘソ曲がりなそうです。
お母さんが丹精こめたご馳走でも、
「こんなもん腹がへってるから旨いのだ」といった調子で、
何とか理屈をつけて喜びを表さないのですね。

お兄さんが余りにも変わってしまった、
それで弟さんが一度先生に会わせて欲しいと言って
来てくれたのです。
前からすごくヘソ曲がりと聞いていましたから
「ちょっとおヘソを見せてくれ」と転がして腹を出させました。
そして言いました。「ボク、ヘソ曲がりと聞いてたが、
曲がってないで」するとその言葉に感激しまして、
その子も又すごくエエ子になった。

「先生がヘソ曲がってないいうてくれた」と言ってね。
こうして兄弟揃っていい子に変ってくれました。
今迄お母さんは食事の世話などで手を取られて
外出もままならなかったのが、
先日の梅田第四ビルの席にも来てくれておりまして、
息子さんがお母さんに「行って来なさい」と
勧めてくれたということです。

「その代わり先生のお話をよく聞いてあとで教えて下さい」と
言ったとか。
今までは地獄の苦しみだったのが、今はもう極楽。
ちょっと目覚めたら、
心の切り替えができるのですね。

もともとは魂の次元の高い子供だったのです。
だからいっぺんに変ったのですね。
この間もお母さんがお見えになって、
「弟のほうが先生にしてもらった治療を覚えて帰り、
お母さんに治療してあげると言いますが、
いやだとも言えなくていてもらうけど、痛くて困ります」とのこと。

そうはいっても、そうして母親に接する態度は、
今迄のそれと比べて全くの天と地の違いです。
息子さんが目覚めてくれたらいっぺんに変ってしまったのですね。
ほんとうに不思議なものです。



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「御垂訓」

2022-05-26 03:06:52 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 ~ 恩師のご著書「講演集」より ~


             講演集、 一

       「心を入れ替えた息子さん}

先の続き・・・

そうしたら自分で行く世界は自分で計算できます。
いかがですか。
天上界に上がれるなあと云う自信の持てる方は少ないと思います。
極楽に上がれる方はね。
自分の心はすぐ分かりますものね。

砂の材料、量によって、死後の行く先は決まります。
そういう話を息子さんにしますと、すごく感激してくれました。
僅かこれだけの話で「よく分かりました」と言って
この話を学生手帳に書き、
僕は今後絶対に砂を入れないようにしますと言って
誓ってくれたのです。
すばらしいなあと思い、それから数日後、電話があって、
「先生えらいことが起きました。

うちのあの子が物凄く変わりましたんや」との話です。
今まで不調和なことをしていますから身体はガリガリに痩せて
死にそうな身体ですよ。
だから悪くなったのか思って聞きますと、
大変良い子に変わったと言うのです。

まず先生の所から帰る時、玄関の所で、
いつもなら靴を揃えと言うのが、
「お母さんお先に失礼します」と言って自分が履き、
お母さんの靴を揃えて「どうぞ」と言うのだそうです。
そこでびっくりしたのですがね。

帰りの電車の中でも、
いつもなら身体が弱い子だから
お母さんが席をとって坐らせるようにしていたのを、
何と自分で席をとって「お母さん早やく坐って下さい」
と言って代わってくれたというのです。
家に帰ってからも、昼から出掛けていて夕食の時間が過ぎており、
言われた通りのご飯もできてないので、
お母さんは今迄のことを思ってヒヤヒヤしておられたのです。

しかし食事が出来あがって出しますと、前に坐って合掌して
「お母さん、こんなご馳走を作っていただいて
ありがとうございました」
と言ったので、お母さんは腰を抜かす程です。
これはまあいっときの変化かと思って二、三日様子を見ていたところが、
毎日がそういう子に変ってしまった、
とそのお母さんの喜びは大変なものでした。


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「御垂訓」

2022-05-25 00:01:54 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の御著書「講演集」より ~


              講演集、 一

      「心を入れ変えた息子さん」

大阪のTさんの子供さんは、
手の付けられない子だったそうです。
私は知らないのですが、思い余った母親が、
何とか話を聞かせてやってもらえないかと連れて見えたそうです。
大学四回生です。外に出る時、
必ず「履物を揃え」と言うんだそうです。
お母さんが履物を揃えるんですね。

ちょっとでも曲がっていると「もっと真っ直ぐにせい」と言って、
納得がいくまで直させる。
母親は「私はあなたの嫁とは違うで」と言いながら直す。
しかしその通りにしてやらんと怒ります。
また夕飯の時間もキチンと、一分違ってもいけない。
おかずは何が何グラム、
何は何グラムという具合で高く付くんです。

それは大変な息子さんで、後になって聞いたのですが、
気にいらんことがあると、
物はぶつける、お母さんを殴る、お膳はひっくり返すと、
しょうがなかったようです。
その子を連れて見えたので、何か話をせなしょうがないから、
「あなたはあの世はあると思いますか」と聞いたのです。
「僕は見たことないから知らん」と言います。

その通り、見たことがないのだから知らんのは当然です。
しかしあると仮定して、
ではこの世とはどういう所だと思いますか、
と質問をしたのです。この世――それは
あの世の地獄と極楽のちょうど中間に幻のように現れている世界、
それが、この世の存在です。下は地獄、上は極楽。
その中間に物質化現象として現れている世界、物質と化し、
形として現れているのがこの世です。幻のようにね。
オギャーと生まれて成長して五十年、百年で皆消えて行く存在です。

特に口にいただくものは早く消えて行きます。
お饅頭、お蜜柑、いろいろご馳走を出していただいても、
今、目の前にあるものはあたかも実在しているが如くにありますが、
いただきます」と言って口に入れたら、
もう完全にこの世から消えております。
「お饅頭は本当はないんですよ、
ただ形として現れただけです」と言いましたら、
どなたも皆、「いや、ここにある、
あなたは頭がおかしいのではないか」と言われます。
しかしいただいたらもう二度とこの世には現れません。
消えた存在です。ご飯にしてもおかずにしても全部同じです。
ここにある綺麗なお花も同じです。

今こうして存在しているが如くにありますが、
しかし時間が経てばこの花はしおれてしまいます。
水遣りを忘れたらこの葉もなくなります。
すべてが現れた世界に、
或る方は砂袋をつり下げたようにしてぶら下がっておられます。
砂袋とはその人の心です。
砂を一杯詰めた砂袋をぶら下げて人生の旅をしている。
心の軽い方は風船玉かアドバルーンをあげるように、
上に浮きあがりながら人生の旅をしている。

心の軽い方は、心の世界で風船が浮かんでいるようなものです。
心の重い方は重いからぶら下がってしまう。
しかし心の重い方も軽い方も肉体の命のある限りは、
この世から離れることができないでいます。
命の糸が切れた時に、軽い人は必ず上に上がります。
重い人はストレートに下に落ちて行きます。

行く先はおのずと決まっております。
それじゃ、その砂の材料は一体何だと思いますか、
とその息子さんに聞いたのです。
「分かりません」という返事。それで、
砂の中味は怒り、妬み・・・、
自分の心の中にどれだけ砂が詰まっているか
想像してみて下ください。


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「御垂訓」

2022-05-24 00:01:55 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の御著書「講演集」より ~


           講演集、 一

    「心を苦しめることは最たる悪」

しかし最たる悪は自分の心を苦しめることです。
自分の心を苦しめますと、絶対に幸せになれません。
自分の心をまず大事にすることです。
心を大事に、苦しめないようにするには、
どうすればいいでしょう。

腹を立てない、怒り、妬み、謗り、愚痴、憎しみ、
それに取越し苦労、不安、恐怖、嘘、
盗み、更に貪欲。こういう想念行為を持ちますと、
人は必ず苦しみます。
そうして、この肉体を去った時には、
間違いなしに苦しみの世界へ入ります。
肉体が滅びますと、この肉体は無くなりますが、しかし、
心は残ります。

これを霊とか魂といか言っております。
ところが肉体が消えて心だけになりますと、
今度は心がそのまま苦しむのですから、
いい所に行ける筈はありません。

生きて悪い想念、行為を積み重ねますと、
生きながらにして地獄、そして死んで完全なる地獄です。
閻魔様が裁判をなさって、「お前は地獄の何丁目に行け、
お前は極楽へ行け」とおっしゃる。

あんなのは嘘です。閻魔様は自分の良心、神我です。
自分の思いの世界へ自分で入って行くだけです。
苦しみが大きかったら大きいだけ、
自分で苦しみの世界へ入って行くのです。


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「御垂訓」

2022-05-23 00:10:01 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
~ 恩師のご著書「講演集」より ~


             講演集、 一

       当たり前のことを「実践する」

こういう話をしますと皆、
そんなことは当たり前のこととおっしゃいます。
ところが、この当たり前のことができないから苦しむのです。
在る所へ行きました時、
在る宗教の方が私をやっつけてやると言って
お見えになっておりましてね。

休憩の時間に「どうでございますか」と聞きますと、
「言うていることを聞いたら当たり前のことや。
私ら二歳、三歳の頃から親に教えてもろうて皆知っている」
と言われます。
「正しいことは皆当たり前のことです。
変わったことは何もありません。

貴方が二歳、三歳で知っていることを、
今四十、五十になってできていますか」と聞きましたら、
「そんなこと人間やったらできん」と言います。
「いや、そんなことはありません。
私は人間だけどできています。

腹を立てたらいかん、
愚痴を言うたらいかん、
悪口を言うたらいかん、憎んだり、貪欲に捉われたらいかん。
皆当たり前のことです。
しかしこれを実行できる人は少ないのです」と話しました。
白楽天と言いまして、中国に偉い詩人がおりました。

その当時フクロウ和尚といって、
いつも木の上で坐禅をなさって悟った方がありました。
木の上で悟ったからフクロウ和尚と呼ばれていた方です。
一体どの位偉いか試してやろうと思って、
その白楽天なる詩人が訪ねて行きました。

「和尚」と呼びかけたのでしょう。
「人が幸せになるには、どのようにしたらいいか」と
尋ねますと、和尚は「作善止悪」と言いました。
善を作って、悪を止めよという意味です。

それを聞いた白楽天は大笑いして、
「そんなことは子供の頃から知っている、話にならん」
と言ったというのです。
木の上から返って来た言葉は、
「三歳の童子これを知る。
百歳の翁これを行えず」でした。

三歳にして私達は親から正しいことを教わる。
しかし百歳にしてこれを行えないのです。
これが正しい教えです。
だから、その宗教人に言いました。

「三歳にしてこれを知り、百歳にしてこれを行えず。
行うのが修業です」と。
滝に打たれたり、経文を唱えたり、高い山に登ったり、
そのようなことをしましても、
悪を止めて良い行いを積まない限り、
何の功徳もありません。


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「御垂訓」

2022-05-22 01:04:56 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師のご著書「講演集」より ~


              講演集、 一

     「私が正しい」と「私が至らない」と

私達も、
また霊の世界に帰られた方も共通して苦しんでおられる方は、
「自分が正しい」と言います。
地獄にいる霊を、生存する人に入れてお話しますと、
「私は悪いことを何もしていなのに、
なぜこんなに苦しまねばならんのか、
私は何も悪いことをしていない」と言われますが、
実際には地獄に落ちています。

人間もそうです。
「私が正しい。私は間違っていない」とおっしゃる方は皆、
苦しんでおられる。
「私は至らなかった。申し訳なかった」と目覚めた方は、
幸せで苦しみも少ない。
特に夫婦喧嘩はこの最たるものです。
私が正しいあなたが悪い、それを言うと喧嘩になるのですね。
そして苦しんでいます。

喧嘩はいちばんいけません。
自分の心を地獄に持って行きます。
「仲良きことは麗しきかな」。
同じ一生を、
男と女が一つの家庭を持ち生活共同体の基礎をこしらえて
五十年、六十年の生活をさせてもらう、

この同じ定まった時間を喧嘩ばかりして暮らすのと、
仲良く暮らすのとでは物凄い違いがあります。
もう万難を排して仲良くすることです。
私達の幸せの一番の根源はどこにあるのか―――
それはまず私達の心の中であり、
形の上では家庭の中にあります。
家庭を不調和にしては絶対に幸せになれません。
家庭の一番基をなすのは夫婦です。
次に親を大切にすることです。


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「御垂訓」

2022-05-21 00:21:12 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師のご著書「講演集」より ~


            講演集、 一

      「仏壇の光をとらえた写真」

その土地で二軒のお仏壇にお参りしました。
たまたまいっしょに行ってくれた人が写真を撮ってくれたのです。
お参りする前の仏壇と、お参りさせていただいた後と、
二、三分経ってからの三枚です。

その写真にはっきりと現れたのです。
一枚目は仏壇が暗く写っています。
二枚目は光が出ているのです。
三枚目はもう全体に光っています。
私は今その写真を持っておりますが、これは、
お仏壇の中に自分が祀ってもらっていると思っている方は、
仏壇の中におられるのです。

のちに、
何か月か後の写真を見ますと真新しい仏壇になっていました。
私達は古くから日本に伝わった誤った思想、習慣によって、
死後はお墓の中に入る、
または仏壇に祀ってもらうという教育を受けています。

それが真実だと思って亡くなりますと、
必ずお墓、仏壇の中に入っていて、成仏できないでおります。
そういうご先祖様が仏壇の中におられますと、
仏壇は暗く位牌の文字が曇っています。

そしてそういう仏様が極楽にお帰りになりますと、
忽ちにして光ます。
これは百人が見て、百人見ることができますね。



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「御垂訓」

2022-05-20 00:33:15 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師のご著書「講演集」より ~


           講演集、 一

      「お墓のない村、その教え」


先の続き・・・

ご縁があったらいつかは石塔の墓が見られるでしょうが、
ご縁がなかったら、つまり、
祟りが怖いとか言っていたら建たないし、
村も栄えることはありませんね。
恐ろしいことです。

変な話ですが、勉強になりますからも少し聞いて下さい。
ここは湿地帯で水浸しになるので、
棺そのものは十年ぐらい腐らないのです。
寝棺ではドライアイス等使いますから、
死体が腐って汁が出るという話は聞きませんが、
座棺からは汁が出て来るそうです。

これも正法の教えから見ますと、「不調和なものは早く腐る。
調和されたものはなかなか腐らない」のです。
これは人間の肉体も同じことです。
かって服毒自殺された方の場合、見ている間に、
どんどん腐ってきました。
これは不調和は早く腐ることの一つの証明です。
この土地で人が亡くなりお葬式があると、
棺からすぐに汁が出て来るそうです。
これも不調和の証拠です。
棺に下の灰を敷くそうですが、
灰が水分を吸収して汁が下に垂れて来ない。
灰は腐敗を防ぎます。

だから埋葬しようとして次の穴を掘りますと、
死人のお尻がボコッと出て来る、
それを横に干しておくと臭くて臭くて三日間程は
その臭いがとれないそうで、
もうあれは生きながらの地獄のような世界ですね。
亡くなったら家族は穴を掘りません。

近所の者が堀に行くそうです。
家族は身内を埋める穴を自ら掘るのは情の上げしのびないからです。
でも埋めるのは家族がやるとのこと。
えらい所があるものです。
そういう所に埋められたら、勿論正しい道を知らないので、
埋められた肉体の中に自分の意識が捉われて、いつまでも、
ああいう所にいるのです。
肉体が腐ってもいるのです。

ですから、私が話しかけますと、
もう数え切れない位たくさんの人が出て来ました。
頭に白い三角の布をつけた人はあれは禅宗。
付けない人はあれは門徒ですとのこと。
そこで出て来た多くの皆さんによく話しまして、
心に目覚めてもらってあの光の世界に上がりなさいと言いました。

心に目覚めますと、最初は膝をかかえて死体のままの姿であったのが、
忽ちに生きていた時の姿に変わっていきます。
そして全部の方が「ありがとうございました」と言って、
サーッと上がって行かれました。
「私の声の響きに乗って行きなさい。
私の声の響きはあの天上の世界に届きます」。
その時、私の唱える経文の波動に乗って上がって行かれました。
これは不思議なことです。




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「御垂訓」

2022-05-19 00:00:05 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

  ~ 恩師のご著書「講演集」より ~


         講演集、 一

     「お墓のない村、その教え」

先の続き・・・

面白い習慣があるもので、
お坊さんと神主さんだけは木の墓標を建てられるのですね。
木の墓標は、竹のことを思ったら何年も長持ちします。
しかし一回建てて腐ったら建て替えることはできない。
墓標が立っている限り、
そこを掘ることはできない。

一般の方は竹ですから三年も持たないのです。
だから参る墓がなくなります。
お寺の坊さんと神主さんはその何倍かもつのですが、
それも腐ったらもう駄目です。
この狭い土地に一体いくつの墓があるかと、
立てた竹の先を縄でくくった鳥籠のような
ものを数えると、二十八個ありました。

墓地に行っていろいろ説明を聞いたのですが、
お盆から後は余り草が伸びません。
春になると雑草が三メートル以上に伸びてくる。
こやしが良く効いていますからね。
それでお盆に村中の人が出て、墓掃除をするそうです。
その時に崩れかけた竹は全部取り除いてしまう。
だから無くなったら今度お参りしても、
お墓はもうありません。

何とも今の日本の国内にこういう場所も残っているのですね。
今でも雨がしとしとと降る夜は、
リンが燃えて青い火の玉が墓地から立ち昇るそうです。
では、なぜこんな習慣がいまだに残っているのでしょうか。
それはその土地に住む人達の心掛けです。
自分さえ良かったらいい、自分に災いが来なかったいい、
という思いによるのです。

やがて自分が死んだらそこに埋められるのに、
何とかしようという気持ちが起こらないのです。
村の因習、陋習にしばられており、
だから村そのものも栄えません。
村にはお寺もあり、お坊さんもそこに葬らているのですから、
お話になりません。




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「御垂訓」

2022-05-18 00:01:43 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師のご著書「講演集」より ~


              講演集、 一

     「お墓のない村、その教え}

先の続き・・・

人が亡くなると、
片方の部屋で親戚縁者がお通夜をされるでしょう。
その隣の部屋でポキンポキンと骨を折って棺に入れる音が
聞こえて来ると言うのですからね。
そういう土地に招かれまして、
墓地へ行って亡くなった諸霊に話しかけました。

「お墓の中に埋められて、
この場所から成仏できないでいる諸霊よ、
この場所に埋められていると思われる諸霊は皆出て来なさい。
そしてよく聞きなさい」と言いますと、
泣いて膝を抱えて背を丸めた人がいっぱい出て来ました。
額に三角の白い布をつけて人がたくさんおります。

これは勿論普通の人には見えませんが、
霊視しますと、
棺に入れられた時の姿のままで身をかがめて膝を抱えて出て来ます。
土地開発計画でこのたび野地を整備して、
小川や畦を除き、一町歩ごとに整えて行きますと、
七百坪ほどの余った土地ができて、
それが共同墓地の横にちゃんとあるのです。

土地があるのになぜ墓をつくらないのかと尋ねますと、
そんな事をしたら早く死ぬとか、
先祖の祟りが恐ろしいとか言って、誰も手をつけない。
まあ困った所もあるものですね。

たまたま二、三日前にこの村の方が来られましたから、
「あんなことをしていたら、村そのものが栄えません。
祟りがあっても、早く死んでもいいから、私がその墓をこしらえて、
村が栄えるように私が造りますから、
村に帰ったら皆さんとよく相談して下さい」とお話したのです。


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「御垂訓」

2022-05-17 00:02:34 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 ~ 恩師のご著書「講演集」より ~


             講演集、 一

      「お墓のない村、その教え」

日本の中にはまだこういう所があるのかと
思うほど不思議な土地にご縁がありまして、
「何とかその土地を浄化して欲しい」と頼まれ、
この間寄せてもらいました。
それは地域的に非常に不調和な所です。

その村に行きますと、お墓が今も一つもないのです。
ただ一軒か二軒だけ別の場所に石碑がありましたが、
一般の人は石碑がないのですね。
戸数は約百六十戸、所有している田の総面積は二百八十町歩で、
これを百六十軒で持っておられます。

このたび農地の整備が行われて、
とても広々とした平野ですが、
それでもご先祖様の墓地に提出するのが惜しいのだそうです。
二百八十町歩の財産を持っている村ですのに、
狭い共同墓地があるだけで、
墓地と言っても墓石は一つもありません。
二百坪足らずの誠に狭い場所に、
人が亡くなると穴を掘って埋めるのです。

次々に埋めていきますから、
面積が少しでも少なくて済むように、
お棺の大きさは四十五センチ、一尺五寸角の座棺で、
高さは少しある棺桶の中に、
死んだ人の骨をポキポキ折って詰め込み、
頭が入らない時はグッと押さえ込んで、
釘を打ちつけ、穴を掘って埋め込むのです。

埋めると、その周りに割り竹をぐるっと刺す、
その長さは三メートルぐらいで、
その竹の上をまとめて縄でしばってあり、
それがお墓の印です。
雨曝しですから、二、三年もすれば縄は腐って
竹はバラバラになります。
ところがこの竹を又新しく建てることは
村のしきたりによってできないのです。

バラバラになってなくなればそれでおしまいです。
お墓がなくなるのです。
それで、
今度別の人が亡くなればまたそこを掘り返して埋めるので
他人の墓やら自分の墓やら分かない状態になる。
しかも掘り返すと骨が出て来るならまだしも、
棺桶がそのまま出て来るというのです。
悪い事にそこは湿地帯で、墓穴を掘ると水がいっぱい
湧き出て来る。

その水の中に棺桶を押さえつけて沈めて
上から土で埋めるのだそうです。
一尺五寸四方の穴を掘って棺を収めるのに、
四つも棺桶が出てきたそうです。

地下は棺桶でぎっしり満員になる程埋めてあるので、
ちょうど四つ埋めてある角を掘り当てると、
そういうことになります。
その棺桶を割って、そこへ埋めなければいけないのですね。
土地は一杯あるのに、お墓の為の地所は勿体ないと言って、
出す人がないのです。
こんな話を聞いていますと鬼気迫ります。



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