恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より
第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵
◆不浄なる肉の身があってこそ悟らせてもらえる◆
先の続き・・・
般若心経の中に「色即是空 空即是色」とあるように、
この世のいっさいの現れには実体がなく、
実体がないからこそ形として現れる。
そして、実体がないからこそまた消えていくものである。
しかし、実体がないからといって形がないのではない。
実体がないからこそ形として現れるのだ、といわれています。
思いさえも実体が「無い」ということになります。
「受想行識亦復如是」はこのように見た時、受想行識もまたかくの如し、
五感に受けるということも思うことも行うことも識ることも、
また同じくかくのごとく実体がない。
「無受想行識」「無限耳鼻舌身意」はこの見方からすると、
眼も耳も鼻も舌も身も意さえもないことになります。
人間はいろいろと身聞きする結果、余計なことを思い煩ったりするわけですが、
そういうものはいっさい実体がなく、
あるように見えても実はないのだということです。
「是諸法空相」はこのように見た時は、
この大自然界でさえも実体がないということになります。
ただ実体がないということをよく理解し、
感覚によって知り得たものにとらわれてはいけない、
そんなものは実体がないのだからと理解するほうが楽になることができます。
過去の嫌な記憶が蘇り、不愉快になった時なども。
「あれも実体がなかった」「無い、無い」と否定しまうと気が楽になります。
過去は帰らないことを悟り、捨て去ることです。
この練習が日々の修行と思って精進することです。
しかし、実際問題としては脳裏を去来する思いが絶えずあり、
何かしら思ったり考えたりしているのが私たち凡夫です。
そこに「思い変え」という有効な方法があります。
一足跳びに空とか無になってしまうなどというのは、
私たち凡人にはできないことです。
それどころか、この不浄なる肉体を持った以上は、
何か自分にとって不都合なことを見たり聞いたりすれば、
誰でも腹を立てずにいられぬようになっているのです。
愚痴も言えば、欲も持つ。
それを、感謝のほうにどう思いを変えていくか。
苦しみの中で本当に感謝できた時に、
その感謝できた自分が自らに対する喜びとなります。
古語に「この世は上見りゃきりない 下見りゃきりない
上見て暮らすな 下見て暮せ」という言葉があります。
常に下を見て暮らす時、よかったよかったと感謝と喜びが湧き上がります。
~ 感謝・合掌 ~