浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「御垂訓」

2021-10-31 00:28:41 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
  
 恩師のご著書「思いの中に生きる」より


             「感謝する」とは

「感謝」は自分の心を一切の魔から守っていただけます。
それはどういうことかといいますと、人間の心は二つの思いを同時に思う
ことはできません。
どんなに器用な方でも心は二つを同時に思えないように神様が
お作りになったのでしょう。
心を分析しましたら、心というものは
必ず一つずつしか思えないようになっています。

瞑想又は精神統一されたらよくわかるでしょう。
「一度、心を統一しよう」と思って坐ってみて下さい。
心はたちまちコロコロと転げ回ります。
まるで山野の猿の如く飛び回るものです。

ところがよく考えてみますと、必ず一つ、一つずつを思っています。
禅定して、「今日は心を統一して禅定三昧に入ってみたい」と思っている時、
誰かが下駄の足音をカタカタと鳴らして通ったとします。
「ああうるさいなあ」「今の下駄の音は重そうだからたぶん男だろう」
「あれは大分よく肥えた人にちがいない」「どこの人かなあ」
「今頃、何をしに来たのだろう」・・・・もう次から次へと休むことを知らず
思いが飛び回りますが、必ず一つずつだけ思っています。
「ああ悲しい、ワッ嬉しい」この思いを同時に思うことはできません。
また、怒り狂いながら心に安らぎを持つこともできません。
必ず一つずつだけを思っています。

ということは、「ああ有難いなあ」、
「有難いなあ、結構やなあ」と思っておりますと、
その思いだけしかできないはずです。
それでは、もし一日のうちの十分間「ああ有難いなあ、結構やなあ」
「ああ有難いよ」と持続できますと、
この十分間は、他の考えは入れないです。

ということは、今日という日の一日の中で十分間が心安らかだったのです。
では、一時間「ああ結構やなあ、結構やなあ」と言って感謝の念を持ち続けたら、
今日という日の一時間は幸せな時間が保つわけですね。

じゃあ、もう一日中「結構や、結構や」と言って暮らしたら、今日という日が、
幸せ以外の思いが入らないから、幸せだったはずですね。
して、その積み重ね、今日一日「結構結構」と言って暮らし、また明日も
「結構結構」と言って暮らしますと、また明日も幸せな一日。
二つを同時に思えないのですから。
この積み重ねが幸せな人生になるはずです。


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「御垂訓」

2021-10-30 00:04:36 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
恩師のご著書「思いの中に生きる」より


           許しについて

先の続き・・・

許すことのできない人を許したときほど、
自らの心の喜びが大きくなります。
許せないから、私たちはよう許さなかったのですね。
しかし、許さない限り自分自身が許されないんです。
相手を許すのではない。
許させていただくんです。

心の底から許させていただいたとき、その人を見ても、
その人のことを思い出しても、
縁に触れても、もう腹は立ちませんが、許しておりませんと、
普段は忘れております。

しかし、その人のことを聞いたり、
あるいはその人のことを思い出すと、また
顔を見たりしますと、
「あの人はあの時えらいめにあわせやがった」いって、
その時の苦しみがそのまま再現されるんです。

即そのままその苦しみが自分の心の中に蘇ってきます。
だから、死んでももっていかなければなりません。
人は誰でも過ちを犯します。
自分も犯したはずです。

その犯した自分が許していただいて生きさせてもらっています。
では、人の過ちも許させてもらって当然です。
それは相手を許すと思うから許せないのです。

「許すことによって自らが許していただける」ということを知った時、
恨めしい方・憎い方・腹立つ方を許すことによって、
自らがその怒り・憎しみから
解放されます。
だから許すのではない。
許させていただくことです。

許さない限り、その苦しみは死んでも、
もっていくことになります。
出来事は今を境としてすべて過去へ過去へと
過ぎていくものですね。
今日のこのお話も明日になれば、
もう昨日という過去へ過ぎ去っていきます。

喜びとか、あるいはこういう場所で心安らいだ時間は、
自分の心の中に大切にしまっておいても結構ですけど、
怒りや憎しみや恨みのそういう苦しみはもう過去へ
過ぎ去っていったものですから、
一時も早く自分の心から離すこと、
嫌なものはできるだけ早く捨てることですね。
その時、荷物が少なくなります。

たくさんの荷物を背負うておりますと、
やがて絶対私たちが避けることのできないあの世への旅ですね、
その時にその荷物の重さによって、まず、
三途の川で沈没を起こします。
荷物は軽い方が結構です。
今こうして健康に生きさせていただいている間に、
できるだけ荷物を軽くしていきたいと思います。


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「御垂訓」

2021-10-29 00:27:02 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
   恩師のご著書「思いの中に生きる」より


                 許しについて


皆さんが、縁ある方はすべて幸せになってほしい。
また幸せにならなくてはならないのです。
すべての人は幸せになる権利をもっているはずです。
神から平等に与えられ、
しかも神は「幸せになれ、健やかに生きよ」と言われます。
もし自らの心を自ら苦しめますと、それは神を冒瀆し、
神に背いた行為だと思ってください。
自分の心を苦しめてはいけません。
自分の心を大事にすることです。

そして、自分を大事にするが如く、
自分がいとしいように他の方も自らをいとしいのです。
ですから、自分を大事にする如く他を大事にしなさい。
自分を大事にするといっても、
何もしないで「アア、かわいい、かわいい」と
自分のことばかり考えて人のことを思わないのであれば、
これは大事にしていないのです。
「かわいいなあ」こんなことをしていたら自分を甘やかし、
自分を本当に愛していない。

自分の心を苦しめることは、
怒り・妬み・謗り・愚痴・恨み・憎しみ・取越し苦労・不安とか恐怖とか貪欲。
これこそ私たちの心の苦しみ、自ら苦しむ原因であることがわかりますと、
万難を排してでもこれらの想念を捨てることですね。
その時、幸せが約束されるはずです。
そしてご奉仕、隣人にたださせていただくだけの愛の実践、
そして過去の許し難い人を許すことです。


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「御垂訓」

2021-10-28 00:09:33 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の御著書「思いの中に生きる」より ~


愛は光なり
光は道なり
道は人を歩ます

偉大なる光の大王に導かれ
我が身は動き 口は語らん

日々に神の御胸に抱かれて
光の国に住める嬉しさ


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「御垂訓」

2021-10-27 00:12:06 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


あとがき

この書の出版に至るきっかけとして、私を知る方々から、
どうしても長尾弘の生きざまを世に著わしてほしいという強い希望がありました。
しかし、私は自分の人生を人に知られず生える野の雑草の一本として、
世に知られぬままに、人々の下僕として生き抜こうと思っておりました。
この実践を守り通して、この世を静かに去れたなら、大満足の人生であったと
思っていたからです。
何回もお断りしました。
今の世に受け容れられにくいであろう法を世に訴えても、労多くして益少なき
ことではないかと思っておりました。

しかし、たとえ一人でもいい、まことの心を求める求道者があるならば、
その方の参考としていただけるかもしれない。
こういう望みを託して、とうとう出版社との契約に踏み切ることになりました。
この書はあくまで一個人の人生における体験談です。
人に説法したり、人に聞かせるような意志はまったくありません。
自分に与えられた人生に悔いなき花を咲かせよう、人生の終末に喜びの果実を
収穫しようと、一生懸命に生きてきました。
私の生活実践は完全に自分を捨てて(不惜身命)、己を忘れて他を利する
(忘己利他)を理想としてきました。

この世の肉体の五官煩悩におおわれ、自己保存、自我我欲にとらわれ、地位、
名誉、名声、財産、金銭の追求に明け暮れる方々にとっては、まことに愚かな、
哀れな生活実践であると思います。
この生活実践を通してこそ、煩悩の炎が消え去った心の状態を味わうことができます。
涅槃寂静の心境かもしれません。
涅槃はどれだけの知識を得ても、座しても、悟れるものではなく、
生活実践の中に悟るものだと思います。
しかし、第三者に強要はしません。
それは言うに易く、行うにあまりにも難しいからです。
また、弟子、後継者は、敢えて望みません。

それは自然にまかせます。
故高橋信次先生との出会いによって、私の人生は大きく変わりました。
もし、先生との出会いがなかったならば、今の私はありえないと思っています。
それは心に目覚めをいただいたからです。
心の目覚めがなかったならば、おそらく苦悩の中をさまよって人生を終わっていたでしょう。
私が先生との出会いによって目覚めたように、この書との縁にふれた方々が、
結果として一人でも多く目覚めていただいたならば、幸甚であり、喜びであります。
また、このことによって、私個人の人生がはじめて存在する意義を持つことに、
心から感謝いたします。
この書の出版にあたり、ご尽力、ご協力をいただきました方々に対して、
心から感謝を申し上げます。

平成十年 十月吉日
                             長尾 弘 識す



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「御垂訓」

2021-10-26 00:14:35 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

      第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

      心の教えを正しく行うと証がついて回る


             気づきと癒し

先の続き・・・

外見によって人間を判断し、
こうあるべきだという固定観念に縛られ、
あらゆる権威に目を欺かれていれば、
本質を見誤るという愚を犯してしまいます。
魂を少しでも向上させて、魂のふるさとに帰り着くまでの、
この世にいる間の修業です。

そのための警鐘が病気です。
ふつうは病気になったと言っては嘆き悲しみ、
運命を呪い、ついには心を重くしていきます。
ところが、同じように病気になっても、この方は、
「肉体を救ってくださいとはいいません。
どうぞ心を救ってください」と言えたため、
心が浄化されたのです。
そして、これこそが本当の癒しです。

自己の過ちへの気づきが起こり、その結果として、
心の浄化が起き、
そして肺癌が消えるという快癒につながったのです。
病気が心を見直し、
自らの心の誤りに気づいてこれを改めるきっかけとなりました。

私たちが神のいとし子であり、
もともと光から来ている神の分け御霊でもあり、
たとえ病気になっても自己治癒能力を与えられているからです。
誰かに癒してもらって、
病気が治ったからもういいのだというのではなく、
病気になるには、それだけの原因があり、
これに気づくことによって、
本当に心身ともに癒されます。

この気づきは結局、一人一人がその原因に心を向けて
修正すべき事柄であり、
誰かに頼って行われるものではありません。
癒されてありがたくて心を入れ替えるか、
心を見つめて今までの過ちに気づいて心を
変えるとともに心身が癒されていくか。

まさに「病気は神が与え給うた反省のチャンスである」と思います。
常に自己反省を心がけ、自らを正し、
幸せな人生を送りたいと願っています。
人は、よく話せばよく喋ると言われ、
話さなければものを言わないと言われ、
中程に喋ればうるさいと言われます。

この書を読んで人は又いろいろと言ってくれると思います。
治っていても、私は治らなかったとか、
私は悪くなったとか言う人もあると
思います。
しかし本書は真実のみを伝えたものです。
全ての方々よ、自らの心に目覚めましょう。
健康で幸せに生きましょう。
これが神の御心であり法であり、私の日々のお祈りであります。

                              合掌



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「御垂訓」

2021-10-25 00:36:32 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

      第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

      心の教えを正しく行うと証がついて回る


              気づきと癒し

神戸のあるクリスチャンの婦人がヨーロッパからの帰り飛行機の中で、
山口での講演からテープ起こしして作っていただいた文章を読み、
ここに聖書そのものの世界が書かれていると感じられたそうです。
洗礼を受けて以来三十年も経つという方ですから、聖書については赤線が
たくさん引かれてほとんど赤くなるくらいに詳しいのです。

ひょっとしたらこれはイエス様が日本にご出現になったのではないか、
日本に戻ったらすぐに会いに行こうと思われたそうです。
ところが、このハイカラな婦人が実際に訪ねて見えられると、ステテコと
ランニングシャツ一枚でうろうろしている私の姿を見て、最初は人違いだと
思ったようです。

そのうちお目当ての人物とわかると、腰を抜かすほどにびっくりされました。
もっと威風堂々として、
立派な出で立ちの方がカーテンの奥から静々と出て来られるのかなと
思っていたと言われます。
この方にお話をさせていただきました。

宗教の法王様なら、大勢の人々にかしずかれ、壮麗な長衣をまとい、
頭にはきらびやかな冠を頂き、
黄金の錫杖を手にして威厳を保たれておられる
姿を彷彿とさせるでしょう。
そういう方が立派であるとあなたは思っておられるかもしれません。
しかし、古の聖者イエスはその生涯において、
いつあのように着飾られたでしょう。

そのように身を飾ることなどなさったことは一度もありませんでした。
キリスト教徒といえば、イエスの生きざまを生きなくてはいけないのです。
後の世の法王のように生きるのではないのです。

イエスは一般の者となんら変わりはない格好をされていたはずです。
しかも、イエスはこのように言われています。
「私は人々に仕えられるために来た者ではなく、仕えるために来た者である。
そして、多くの人々の贖いのために私の命を与えに来た者である」と。
教会の偉い方々は、大勢の人々に仕えられています。
イエスはそうではなく、人々に仕えています。

今の在り方が元の教えから隔たってしまったことに目覚めなさい、と言うと、
本当にそうですとおっしゃいます。
その方が、肺癌ですぐにも入院して抗癌剤で治療をしないといけないと、
医者から宣告を受けました。

すると、肉体を救ってくださいとは言いません。
このまま自分の魂が汚れたままあの世に帰ると大変です、
せめて私の心を救ってください、
と頼まれました。

そこで、反省をしていただきました。
泣いて泣いて、本当に泣き叫んで、ご自分の過ちに目覚められました。
それから、まもなくお医者さんで検査を受けると、
まったく癌がなくなっていたそうです。

反省により心によって癌が消えた事例です。
もう十数年も過ぎますが、元気に生きておられます。
自分の心の誤りに気づくということが、
限りある人生においていかに大切であるか。
このことをわからせてもらえる好例だと思います。


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「御垂訓」

2021-10-24 01:05:07 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

       第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

       心の教えを正しく行うと証がついて回る


          個我の力ではない癒しのパワー

先の続き・・・

なぜ、そのようなものを受けるのか。
人の病気を治させていただきたいですが、
相手の病気をもたったら大変です。
これは嫌いです。
怖いです。
これも自己保存の心です。
病気には何とも言えない恐ろしいものまでいろいろとあります。
そんな病気を自分が受けたらたいへんです。

そういうわけで、一時はとても悩みました。
そこで、その当時はまだ正法に御縁はありませんから、
どこに神様がいらっしゃるかもわかりませんが、
もし神様がいらしゃったらということで祈りました。

「今いただいた力で少しでも多くの方を救わせていただきたいです。
しかし、相手の業をもらうのは嫌でございます。
だから、治させていただいて、相手の病気を受けない方法があるなら、
是非教えてください」と、あつかましい祈りですが、
毎晩一時間、二時間、三時間と
真剣に祈りました。
或る時は朝まで祈りました。
百日も過ぎた頃に、「汝の癒しを他にゆだねよ」という言葉が、
自分の心の中から湧き上がってまいりました。
この短い言葉ですべての謎が解けたのでした。

病気治しをする人で相手の病気をもらっているのは、
「自分が治してやった」という「自分が 自分が」の
「我」の中に相手の業を
受けてしまうのだということがわかったのです。
すべての謎が解けて以来、癒しの成果を
自分以外の方の力に帰しました。

その結果、あまりにも多くの方が救われてくれましたが、
そのかわりに私自身の肉体のほうはなんともないという
有難い結果が出ております。
それは、人々の業が神様のほうへ行ってしまい、
その光の中で消されるからです。

「偉大なる光の王に導かれ 我が身は動き口は語らん」当時の歌です。

私以外の力であるということは、神様の力であり、目に見えない世界の
ご協力をいただいているお陰ということを誰よりも
よく理解しているつもりです。
その代わり、自慢することができません。

自分の力でないとわかっていますから、
どんな奇跡を現わしていただいても、
自慢することはできません。
これは神様のお陰であって、私には関係のないことです。
神に感謝しましょう。


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「御垂訓」

2021-10-23 00:30:41 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

        第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

        心の教えを正しく行うと証がついて回る


            個我の力ではない癒しのパワー

体中に癌が出る多様性の癌という病気に罹った方がいらっしゃいました。
七月の終わりにもう盆までは命は持たないだろうと診断され、
体力がなくなり電灯を見る気力もなかったそうです。
その方の主治医は私の縁ある方の息子さんでした。

お医者さんのお母さんは癌の方が息子の友人でしたから、
かわいそうに思い、当方に見えて、
彼に飲ませるお水に光を入れてくださいと言われました。
そこで、水に対して祈りました。
「水は命の親様です。この水を通して命をお与えください」と。

その水を運んでくださり、
飲ませているうちに癌がすっかり消えてしまったということです。
その方はある新興宗教系の大学を出られ、
宗教団体の幹部だったそうです。

他の信仰には耳を貸さず、
私とはまったく会う機会もなかった方です。
水も飲めなかったのが、
一週間もしたらコーヒーが飲めるようになり、
食事を受け付けるようになったそうです。

九月に退院し、十月から職場復帰され、
年末には死にかけていたはずの方が
全快して島根の銘酒を三本下げて、
そのお医者さんのお母さんのお宅に御礼に
訪れたそうです。
そのうち一本をいただきました。

こういう話をしていると、
自慢話しばかりだと言われる方もあると思います。
ただ神が現わしてくださる御業を神の子として
述べ伝えさせていただいてるだけのことです。
神はこのようなお力をお持ちです、
このようなお力をお現わしです、
ということをお伝えしているだけなのです。

「神が病気を癒し給い、
医者がその手柄を横取りする」という言葉もあります。
お医者さんといえども、
ただ自然治癒能力のお手伝いをしているだけです。
それを「わしが治してやった。わしが治してやった」と
思っていると、いつの日か必ずその業を受けます。

相手の業を自分が受けてしまいます。
すべての癒しというのは、私たち以外の力により、
その御業がなされていると
いうことをしることが大切です。

今から二十五年ほど前のことです。
私の身の上にいろいろと不思議な事が起きておりました。
「人さんに助かってほしい。人さんを助けさしてほしい」と
私はよく思いました。
しかし「人を助けて我が地獄」ということはよくあります。

拝み屋さんにしても、不思議な癒しをされる人でも、
あるいは霊的に治す人でも、
相手の病を治すけれど、自分が人々の業を
受けて苦しむ方がたくさんいます。
或る時、私より背の高い立派な紳士が現れて、
「もう生きる希望もありません。

仕事する気力もありません。もう死にたいんです」と言われます。
「ああ、そんなものは心の病気です。
心を学んで心を正しなさい」と言いますと、
「いやあ、実は私はその専門家です」とおっしゃいました。
よく聞く話しです。
精神病院のお医者さんが心の病になるとか、
癌の専門医が癌に倒れるとか、よく聞く話しです。



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「御垂訓」

2021-10-22 00:13:33 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

         第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

          心の教えを正しく行うと証がついて回る


                ミラノの聾唖者の少女

先の続き・・・

サーラは私の名前をナガオと教えますと、
最後の「オ」をとくに長く伸ばして
一音ずつ一生懸命に発音してくれました。
翌日は、すでに百何十キロと離れたところのレストランにおりましたが、
もうほぼ正常になったという連絡がお母さんから電話で入りました。
生まれてから十何年も声というものを聞いていなかったら、
たとえ耳が聞こえるようになっても、
それが何を言っているのかわからないのが普通です。

それが不思議なことに、
その状況の中で周囲の人々の愛に支えられながら理解できたのです。
コレットの社長が言いました。
「あなたは偉大な方だ」
日本から行った人たちが言いました。
「今ごろ気が付いたのか。遅すぎるよ」

東京にも同じケースの方がいらっしゃり、
やはりこちらが何か言うといっしょになって笑っていました。
これは医学では考えられないことです。
しかし、事実です。
それから、強度の弱視者の方ですが、手を引かれてやっと連れて来られた方が、
十分もしないうちに正常になってしまわれました。
これも考えられないことです。

ロンドンの青年は十三年もの長い間、
交通事故のために車椅子の生活をしていましたが、その場で立ち上がり、
歩行できるようになりました。
聖書にはイエス様が現わされた奇跡がたくさん書かれてあり、
その奇跡のゆえに聖書が信じられないという人がよくあります。
しかし、ああいう奇跡は実際に起こるのだということを数限りなく体験させていただき、
また周囲の方々にも見せられてまいりました。

聖書にはラザロの復活という蘇生の一場があります。
私も似たようなことがありました。
頼まれて病院にかけつけると、お医者さんが御臨終ですと言われ、
家族の人々は泣いていました。
しかし、その方のそばに行くと、まだ大丈夫だという気がしました。
そこで、「あなたはまだ肉体を去ってはいけない、
肉体の中に帰って来なさい」と言いますと、
その方は直ちに生き返ってくれました。
目をあけて、「僕はどこへ行ってましたんや」と尋ねられるので、
「あなたはあの世に行ってたんです」と答えました。
水がほしいと言われます。
氷を一つもらってきて、口を開けなさいと言うと、口を開けました。
もう何日も食事をしていないから、口を開けると茶色の糸がたくさん引きます。
その口に氷を入れてあげると、今でもありありと印象に残っていますが、
「あー、おいしい!」とおっしゃいました。
当時二十四歳の青年でした。
まだ元気に生きています。

ちなみに、ラザロの場合は、
イエスが世間に名声を博すことを心配したユダヤ教の人々が、
暗殺者を差し向け、せっかく蘇生したラザロは、その日の夜また
殺されたと言われています。
イエス様も十字架にかかって亡くなる時に、泣いてすがる、彼を愛した人々に
向かって、「泣くことはない。あの者たちを恨んでもならない。彼らは自分の
過ちを知らないからである」と言われたそうです。

人間が本来神の分け御霊であるということ、
本来は永遠の生命につながっているのだということ、
死んだらまた光輝く魂のふるさとに帰るのだということ、
そして人の命の生殺与奪の権はすべて神の御手にゆだねられていること。
これらの真理を一日も早く人類すべてが悟るべきであると思います。



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「御垂訓」

2021-10-21 00:09:18 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

        第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

        心の教えを正しく行うと証がついて回る


             ミラノの聾唖者の少女

奇跡というのは自分が起こしたように錯覚しがちですが、しかし、奇跡とは
実は正しい法にのっとった生活を前提にして、神様が現わされるものです。
だから、たとえ私が知らなくても、他の人たちにその現象を証し、すなわち
現証を見せて下さいます。
イタリアのミラノにまいりました時も、
聾唖者の娘さんが突然耳が聞こえるようになり、
言葉を話せるようになられました。
これにはその母親も、その場のみなさんも感激のあまり涙が止まりませんでした。
サーラという名のその少女は、コルシカ島出身の父親の友人でコレットという
有名な靴屋さんの社長の所有する、日本の皇居よりも広大な敷地の一角にある
奇跡の館という屋敷の近くに住んでいました。

そこでは鹿やキジが見られ、門から相当の距離を車で走ります。
彼女は当時十九歳でした。
親以外には吠えるばかりでした。
人が怖くて握手を求めると手を引っ込めてしまうのでした。
「神との約束を果たしなさい。神との約束とは大調和です。耳は本来の使命を
果たしなさい。はっきりと聞きなさい」と言いながら、横たわるサーラの耳に
何度となく息を吹きかけながら話しかけると、だんだんと聞こえ始めました。
彼女は起き上って、最初は教えられたままに、
「マーマ」と口真似して声を発しようと努力していました。

その音と言葉の意味が結びついて、誰を指す言葉かということは、
教えられないとすぐにはわかりませんでした。
が、そのうちに生まれてはじめて、
お母さんに向かって「マーマ」と発声できたのです。
それとともに拍手と歓声が上がりました。
感動的な場面でした。

しかし、さらに彼女が、嬉しさのあまり饒舌になっているお母さんに向かって
鼻の先に人差し指を立てて「シ―ッ」とやったシーンが最も感動的な一瞬でした。
ずっと沈黙の世界に生きてきたこの少女にとって、人の声はあまりにも
新鮮な尊いものとして聞こえたと思います。



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「御垂訓」

2021-10-20 00:07:59 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
  恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

        第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

       心の教えを正しく行うと証がついて回る


              神癒と自然治癒力

先の続き・・・

いちばん大きい癒しいうのは、
なんといっても自分自身が自己の内部の神なる
我に目覚めることです。
「神我」のことです。

神様は私たちに「いとし子よ」と呼びかけてくださいます。
私たちが神のいとし子ならば、神様は私たちのお父さんです。
もともとお父さんの命から分かれた私たちの命ですから、
お父さんである神様と
私たちの本質とはなんら変わりがありません。
神様は全知全能であり、そして完全無欠です。

私たちの生命の中に、
神様と同じ全知全能の生命が宿っていてくださるのであれば、
神様に病がないように、私たちにも病があるはずがありません。
それを強く自分に言い聞かせることです。

魂のふるさとにいた時は「我 神とともにあり」という
はっきりした自覚があり、
したがって生命の永遠性ということがわかっていても、
この地上で肉体を持って生活するとなると、
肉体の五官の煩悩のため神様から心が離れてしまい、
この真理は忘れられてしまいます。

それをまた思い出させる。
これこそは神の癒しです。
本当なら誰しもが自ら癒すことができるのです。
といっても、なかなかそれができないから、
そのお手伝いをさせていただくことになります。

神様から癒しの力である愛を直接いただき、
それが治療に見えた方に流れ入るための中継です。
世間的な意味でのすべての個人的楽しみを持たず、
自分の時間を全部この癒しと法のお話を縁ある方々に
させていただくために捧げてきました。

たまにしんどいなあという思いが脳裏をよぎることがあります。
ただ、これは肉体がそう感じているにすぎません。
魂の部分、内なる神我のほうは、こうした人生を望んで生まれ、
光の世界より降りてきているのだと思います。
つまり、魂の選択の結果として、今日までの人生があるのです。
誰もが自分の親のゆるしをえて、天上界で縁の深い方々と約束して、
この世に修業に出てきています。
不平不満を抱くことはありません。
本来の内なる自分の声に耳を傾けたなら、このことはがわかってきます。

「四六時中休むことなし我が行は 父(神)との誓い有ればこそなり」(弘)



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「御垂訓」

2021-10-19 02:34:38 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

          第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

          心の教えを正しく行うと証がついて回る


                神癒と自然治癒力

先の続き・・・

人間だけがどうして病気が治りにくいかというと、盃一杯の病気が起きると、
ドラム缶一杯ほどの心配をするからです。
「ああ、えらいことだ、これはなんだろうか。
もっと悪くなったらどうなるんだろうか。
ずっと進んだら死ぬかもしれない。死んだらあと家をどうするか」
などと、死んだ後のことまで、次から次へと心配をします。
自分で自分の命を縮めているようなものです。
こんな思いのままいたら、死んでも極楽には行けません。
要らぬ心配が自然治癒力を妨げるのです。

せっかく、自然は治してやろうという愛を与えてくださっているのに、
人間が要らぬ心配をして、それによって病気の回復を遅らせ、
お医者さんのお世話になるのです。

昔は、お医者さんも名医と呼ばれる方は、
脈一つとればどこが悪いかということをみな当てられたそうです。
もともと、診療の方法には三つありました。
視診と問診と触診がそれです。
目で患者さんの顔色や様子全体や患部を見て確かめるのが視診。
どんな具合ですかと尋ねるのが問診。
触れることによってここは痛いですかなどと調べるのが触診。

ところが、今では、私たちが病院に行くと、まず血を採られ、
レントゲンを撮られ、エコーという超音波による検査を受けます。
機械で行なわれるのであって、
機械にお医者さんが頼りきっているかのようです。
本来は治す者は手を当てて治していました。
「手当て」といって、私たちの遠いご先祖様はみな、
手を当てて治してくださったのです。

この肉体には癒しの力が与えられています。
転んで頭を打っても、ああ痛いとさすっているうちに、治ってきます。
よく子どもさんが頭を打ちつけて大きなこぶをつくり、連れて来られます。
手を当てて、二、三分すると大きなこぶが消えてしまった経験がいくつもあります。
これも自然治癒の力が働いた結果です。


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「御垂訓」

2021-10-18 00:01:07 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

        第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

        心の教えを正しく行うと証がついて回る


               神癒と自然治癒力

もともと私たちには自然治癒力、
あるいは自己治癒力と呼ばれる能力が与えられています。
それはまさに神様から与えられている力です。
神様は傷つき病んだすべてのものに対して治そう治そうとしておられます。
自然治癒力、あるいは自己治癒力の存在と作用については、
科学者も医学者も認めるところです。

ただ、それを「神の癒し」ですと言うと、
なかなか認められなくなってまいります。
自然界には、汚れても浄めてあげようという自然浄化作用があるし、
また怪我をしたら元に戻そうとする作用もあります。
それこそが実は神の愛なのです。

そういう神癒の力にこの自然界は満ちています。
別の言葉で言えば、生命力が横濫しているとも言えると思います。
あとはこれに気付いて、できるだけ欲を出さず、余分な心配をせずに、
私たちを生かし、幸せと健康を願ってくださる神様の愛に
感謝して生活していくことでしょう。

動物、植物は余計な心配をしないから、
いただいたこの自然治癒力が十分に働きます。
人間は自分の心のアンテナの方向を狂わせてしまう結果、
この力をいただきながら、みすみすその力の発揮を邪魔しています。
この地球上で、お医者さんの世話にならなくてはならないは人間だけです。
家畜やペットはお医者さんの世話になるといっても、
飼い主が連れていくだけです。

草木も同様に自然治癒力を与えられています。
刈り込めばたちまちにして芽が出てきますし、
枝が折れてもまた新らな芽が出てきます。
犬や猫もそうです。

交通事故によるものですか、
よく三本足で歩いている犬や猫を見かけますが、
犬や猫は「えらいことや、私、怪我しました」と、
自分で医者に行くのを見たことはありません。

「猿も木から落ちる」と言って、落ちる時がありますが、
たとえ足や腰が痛くなっても医者に行かずに、
夏であれば、北側の風通しのいい所で肉体を休めておけば、
自然に治ってしまいます。
冬であれば南側の暖かい所で何も考えないで体を休めておくだけで、
自然に治ってしまいます。



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「御垂訓」

2021-10-17 00:16:42 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

        第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

        心の教えを正しく行うと証がついて回る


              言霊の力と細胞の意識

先の続き・・・

ふつうならば癌でもなんでも、
病名のつくものに罹れば、お医者さんに行って
治してもらうところでしょう。
そうすると、お医者さんが治ると言ったら治る思い、
だめですと言ったらあきらめなくてはなりません。
治してもらったら、身体がよくなったと思って喜びます。
しかし、これでは心の中はいつまでも変わりません。
飢えた方が働かないで、物を与えられている限り、
いつまでたっても同じ飢えに襲われ続けます。

病気も同じことで、自分の内から治す力に目覚めてないと、
いつもいつも医者通いし、死ぬまで薬に頼り続けることになりかねません。
こんなことをよく言われます。
「先生、長生きしてください。先生に先に逝かれたら、私たちは困りますから」
しかし、私など必要としなくなり、
それぞれご自分の内から湧き出づる生命力に自信を持つようになってくれたほうが、
私はどんなに嬉しいか知れません。

最後はみんな神の子の姿をこの地上に現わさなければなりません。
誰もが愛深く平和な心になって、
真に調和した社会を建設していかなくてはなりません。
それは神様のお望みのとおりに、健やかで幸せに生きることです。
本当に全員が命の煌めきと命の歓びに感謝して生きられるような地上天国に
この地球世界を完成していくことが最終目的だということを、
みなさんにお伝えしています。


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