~ 恩師の「心行の解説」より ~
先の続き・・・
「たださせていただくのだったら、俺の電車賃を出せ」という人があります。
私は皆さんの電車賃を出すほど大金持ちではないのです。
私は貰っていないから、電車賃を出せと言われてもどうすることもできません。
ほんとうに人に心はそれぞれで、意味をどう受け取るかも人それぞれですが、
人はどのように言っても構いません。「ただただと言うのだったら電車賃を出せ」と
言う人は、神の御心を知らないのです。
神はただ与え給うのみ、私も、たださせていただくのみです。
それに対して、もし異議があるならば、神様に文句を言って下さい。
神様に電車賃を出せと言ってみなさい。神様は「ばかなことを」と言われます。
私に対して、もし背くような批判、中傷をしますと、
それは神様に対してしているのと同じことになります。
なぜかというと、私は神の御心を行っているからです。
その行いに対して、その言葉・神理に対して屁理屈をこねますと、
それは神様の悪口を言っているのと同じことになります。
世の中にはそういう屁理屈を言うお方もおられるのです。
お一人お一人が、たださせて戴くようになった時、この地上界は理想の都です。
この時大事なことは、どなたにさせて戴いたか、何をさせて戴いたかを即、
心から捨ててしまうことです。
なぜ、そうしなければならないかというと、すぐ捨ててしまえば相手に負担がかからないからです。
負担がかからないから、相手の方も素直に喜んでくれるのです。
どれほど良い事をしても、「私はあの人にこんなことをしてあげた」と言いますと、
相手も恩着せがましく迷惑な思いがして「そんなに言うのなら、してくれなければいいのに」と、
いうことになります。
これではいくら良い事をしても何にもなりません。善き行いが、悪しき行いに代わってしまいます。
たださせていただき、その相手がどなたであったか、どういうことをさせて戴いたかも、
自分の心から即、捨ててしまいますと自分の心には、「ああ良かったなあ」という喜び
だけが残ります。喜びは最初のうちは残りますが、これも慣れてきます。
~ 感謝・合掌 ~