恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より
第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密
心の教えを正しく行うと証がついて回る
作善止悪という簡単で難しい実践
奇跡は求めて得られるものではなく、
そういう気持ちさえ忘れて、一生懸命に日々のやるべきことをやり、
また心の学びを人生の中で地道に行っていく時に、
必要に応じて与えられます。
私たちにできるいちばん基本的な法の実践とはなんでしょう。
いつもお話させていただくのは、
悪いことをしないようにして善いことはどんどんと実行していく、
「作善止悪」の実践です。
なんだ、当たり前のことじゃないか、と言われる方も多いと思いますが、
これが案外やってみるとできないものです。
残念ながら、今の世の中を見てもそうです。
悪いことをするにはなんの努力もいらず、
ただ欲望のおもむくままに生きていればよく、
善いことはこれを行うのに、なかなか強い意志と勇気とを必要とします。
この言葉の由来である古い時代の中国の故事を調べると、
こんな話しがあります。
白楽天という唐の時代の有名な詩人が、
かねてから気になっていた高名なふくろう和尚を訪ねます。
いつでも高い木の上で坐禅をしているので、
誰言うとなくふくろう和尚と呼ばれていました。
森の木の上にいるふくろう和尚に会うと、木の上の和尚に向かって、
白楽天はどうしたら人間は幸せになれるかと質問します。
すると、ただ一言「作善止悪」という単純な答えが返ってきました。
白楽天は思わず笑いました。
白楽天には教えのあまりのやさしさが意外に感じられ、
その言葉の幼稚さにあきれて帰ろうとした時、
うしろから「三歳の童子これを知り、百歳の翁
これを行えず」と痛烈な一言がひびきました。
私たちはものの善悪は三歳にして教えられますが、
百歳になっても実践できないのが凡夫の姿です。
「我が道は易しすぎなり 幼稚なり 人は言うなり 行いもせで」(弘)
口でいうのはごく易しいものですが、
行なえる人はほとんどおられません。
悪を行うと砂袋に砂を積めるように心を重くし、
善を行うと心が軽くなります。
また、よくないことをするのは、コップの中の水にスポイトで
墨を一滴ずつ落としているようなものです。
心が濁ってきたら、反省をして悔い改めます。
それから償いの善き行いをさせていただくことです。
一生懸命に善行を積ませていただくのです。
それから、法の話、真理の言葉を聴くのもいいでしょう。
そうしていれば、多少の悪を犯してしまったとしても、
その濁った水に新しい真水を注ぐことになります。
和尚は「三世の諸仏はことごとくこの法門を説き給う」と
言われました。
三世は過去・現在・未来です。
いつの世にも変わらない真理として、
仏と言われる方はこの法門を説かれています。