※ お写真はブッダガヤのお釈迦様が悟りを開かれ、その法悦に七回場所を変えられた一か所で
我らの恩師も瞑想されています。
~ 恩師の「心行の解説」より ~
先の続き・・・
私たちは知らず知らずに過ちを犯す場合もたくさんあります。
過ちだと知って犯す場合も、知らないで犯す場合もありますから、
私たちは禅定で反省する時に、
「知って犯す罪、知らずに犯す罪をお許し下さい」と言ってお詫びすることです。
知って犯す罪は悔い改め、知らずに犯す罪は自ら見出すことです。
この時心は安らぎます。
そのどちらが罪深いかというと、普通この世的な常識で考えますと、
知って犯す罪のほうが罪深いと思うのですが、実は知らないで犯すほうが罪深いのです。
なぜかと言うと、知らないで犯す罪は罪の意識がありませんから、
それが罪深いことだと目覚めることができないのです。
ですから次の罪を積み重ねます。
知って犯す罪は、「ああ、えらいことをしたな、あんなことはしなければよかった、
しまったなあ」と思います。
罪だと知らなかったら、そのようには思えませんから、知らないで犯す罪のほうが重いと、
教えられているのです。知って犯す罪は改めることができます。
知らなければ改めることができないから、罪が深くなります。
このように八つの正しい生き方をさせていただくことは、
幸せになる一番大切な根元であると説かれています。
正法というものと反省とは切り離すことはできません。
常に己を見詰める練習をすることです。
他を見つめなくていいのです。
反省する時、自分を見ないで他を見詰め、
「あの人はあそこが悪いな」と他を見ることは、反省と違います。
これは人を裁いているのです。
私たちは己を見詰めなくてはいけません。
今日まで過去において私たちは人に知られてたくないこと、誰にも言いたくないこと、
そういう罪をいろいろと背負っているはずです。
失敗、過ち、罪、それらを覆い隠して生きているのが我々凡夫の姿です。
「反省」とは、それらを一つ一つ掘り出していくのです。
そして、いちばん人に知られたくない、いちばん嫌な自分自身を引き出すことです。
~ 感謝・合掌 ~