浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「講演集」より。

2014-11-30 01:25:31 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

          恩師のご著書「講演集」より


             講演集、 二


       全財産上げても神は喜ばれない


先の続き・・・

そんなことがあるだろうかと思いますが、河内の国分でこのお話をした時のことです。
固い蕾のチューリップを何十本か生けて下さっていましたが、みな首を曲げて
いた蕾が、そのとたんに立ち上がって、パーッと一斉に花が咲きました。
ワァーとその場で開いたのです。
二部屋向こうの鏡台の上に一輪ざしで生けてあったチューリップも一緒に開きました。
見ておられた皆さんが喚声をあげて驚かれました。
自然現象であったとしたら、蕾は必ず時間をおいて次々開いてくるはずです。
「ああこれが開いたなあ、ああ次はこれが開くなあ」というように開くのが普通ですが、
同時に全部揃って開くのです。
これは、私が話させていただきましたことを、神様が「その通りだ」といって
証明して下さったのです。

私の話は間違いないと神様が認めて下さったから、こういう不思議な現証を見せていただけたのです。
もし間違っておれば、そんなことは起きません。
チューリップの蕾が一斉に開いても、
その中の一本だけが開く前はこうだったのですよと教えるように首を曲げて、
もとの姿の証しとして残っていました。
正しい神理は、話す言葉の中に神の力が宿ります。

言霊です。
その言霊によって植物も動物もすべて反応してくれます。
神が証をして下さるのですね。
私にはそんな力はありません。
ただの凡夫ですが、しかし日々の生活で心の調和とその実践が神様に通じます。
過去七年間毎晩坐って反省禅定をしました。
今年から坐らせていただくのは月・水・金になりましたけど、
(現在は月・火・水)最初は二、三人の方と始めたのが、今では三十人、四十人集まってこられます。
そういうふうな心の調和、そして行いですね、行いなくして神の道に入ることはできません。
正しい神理に叶った「祈り心」の生活です。


               ~ 感謝・合掌 ~



(註)御著書では一斉に開花した花の名前をチューリップと書かれていますが、
    ユリの花の間違いであると文面より推測できます。
    ユリは首を曲げていますが、チューリップは首を曲げていません。




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「講演集」より。

2014-11-29 01:43:35 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「講演集」より


          講演集、 二


    全財産上げても神は喜ばれない


先の続き・・・

全財産を上げても極楽には行けません。
神様は財産はお受け取りになっていないのです。
仮に神様に文句を言ってみなさい。
神様は「私は何ももらっていません」と言われます。
上げたものは教会、
或いは教会の中におられる人間が掠め取って使われたのであって、
神様の許にはいっていません。
神様は、私たちよりもなお恵まれない不幸な方に、
たとえ僅かでもいい、無駄使いを少なくして、
その人達の為に役立てて下さいと御喜捨させていただいた時、

「あなたはよくしてくれます。あなたの行為を私は頂きます」と言って下さいます。
それはなぜかというと、神様は「私は人を救いたい。人々を幸せにしたい。
しかし私はその行為を現わすことができない。
愛ゆえに身を滅した者である」と言われ、助けて上げたいと思われても、
それを現わすことができないのです。
神の御心は愛の思いでいっぱいです。
その神の御心を私たちが行った時、神様は「よくやってくれました。
私の思いをあなたが果たしてくれて、
ありがとうございました」と喜んで下さいます。
受け取って下さいます。


           ~ 感謝・合掌 ~





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「講演集」より。

2014-11-28 00:30:19 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

          恩師のご著書「講演集」より


              講演集、 二


          全財産上げても神は喜ばれない


ある方はT教を信仰されて亡くなりました。
ものすごく素朴な信仰をされましてね。
現在は違うそうですが、昔は「家も屋敷も上げてしまえ」と言って、
みな上げてしまえという時代があったようです。
その頃、その人は家も屋敷も田も畑もみな上げてしまったのです。
その息子さんが、お父さんの亡くなった後、法にご縁があって、
自分の意識を開いてあの世を見てこられるようになられたのです。
その息子さんはT教団の子として分教会の中で貧しい貧しい生活をして成長されました。

その息子さんが、「お父さんはあんなに熱心な信者であったから、
さぞいいところにいっているだろうなあ」と思って、
光の世界をずうっと探し求めてこられたそうです。
ところが、上のほうにはどこにもおられないのです。
「まあ、あんなに物を上げても高い所には行かれないのだなあ」と思って、
天上界の低い段階を次々探していってもそこにもおられません。
「おかしいなあ、どこかにおられるはずだ」と思って、
今度は幽界からもっと下の世界、薄暗い世界へと探していきますと、
地獄の薄暗い所で、
向こうからお父さんが荷車を引いて廃材を荷車いっぱいに積んでやってきました。
明治時代の人ですから荷車を引いているのです。

お父さんは自分の息子さんが、自分よりも歳がいっているので、
もう分からないのですね。
「死んだ後でお父さん、何をしているのですか。そんな所で」と声をかけると、
「あんたは、誰かいな」と、逆にお父さんがたずねます。
「僕や、○○だ」と言うと、「ああ、そうかいな。わしはな、
家も畠も田圃もみな上げてしもうて、子供を育てるのに本当に申し訳ないことをした。
こんなことだったら、子供はちゃんと自分の家で育てて大きくすべきだった。
家がないということはこんなに辛いことだ。
何とか自分の家を建てようと思って、今こうして一生懸命働いているのだ」と、
このお父さんは地獄で材木を運んで家を建てようと思っているのです。


          ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2014-11-27 00:48:38 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

          恩師のご著書「講演集」より


               講演集、 二


             償いの法則


善悪の行為が自分に返ってくる場合、時間に関係があります。
縁によって、つまりその相手との縁、或いは出来事の縁などの縁生によります。
二十日大根は種を播いて二十日経過すればもう収穫が始まりますね。
豌豆や野菜は三カ月から五カ月ぐらい経てば収穫できます。
桃栗三年、柿八年といいます。
檜は四十年、五十年しなければ伐採はできません。
そのように早く現れる場合と、長い時間経って播いた種が返ってくる場合と、
いろいろあります。

播いてしまった悪い種は、必ず成長して収穫されて自分の許に返ってきますから、
こいつ何とか自分の許に返らないようにしなくてはいけません。
その為には、良い行いをもってするしか、消すことができないのです。
「償いの法則」ですね。
一つの悪に対して、必ずその善の償いが要ります。
山林業をされる場合も、山の木を伐採して放っておくと、のちに雑木に山になります。
伐採の償いとして次の苗木を植えておかなければいけません。
過ちに一つ気付いたら、それに返る罪の償いをして、
何か一つ良い行いを積んでいくのです。
一つの悪を犯して「ああ私は悪い、私はもう罪人だ」といって自分を苦しめては、
神のご意志に背きます。

悪に目覚めた時に、その悪を土台として、良き行いを積めばいいのです。
あのジャン・バルジャンは、路傍に倒れて、
のたれ死になりかけていたところを神父さんに助けてもらい、
下男として働かしてもらいます。
恩を知っていれば、そこで恩返しをしなくてはいけませんのに、
ジャン・バルジャンは教会にあるお盆や燭台、そのほかいろいろな金の装飾品をみな袋に入れ、
それをかかえて逃げてしまいます。
それを元手に大きい商売をして大富豪になりました。
しかし自分の犯した罪が、自分の良心を責めます。

そしてその償いとして、盗んだ燭台や道具以上の物を返し、
又多くの方々の救済に当たりました。
数限りない人々を、その償いとして救われたのですね。
この場合、たとえ神様の物を盗んでも、それによって目覚めて、今度は
大勢の人を救いました時は、神様は必ず喜んで下さいます。
「あなたは目覚めました。よくそのような気持ちになってくれました。
私の燭台を盗んだことは許しましょう」と言って許されるはずです。
神様がいちばん喜んで下さるには、神様の意志に沿った行為をした時です。
いくらお金を供えても、神様には必要がないのですから駄目です。
神様はおよろこびになりません。


           ~ 感謝・合掌 ~





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「講演集」より。

2014-11-26 00:44:00 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        恩師のご著書「講演集」より


             講演集、 二


      その人の長所を見付けて礼拝する


先の続き・・・

しかし己の罪を悔い改め、日々の生活を通じて正しい教え、
神理の中に己の行いを行じていきますと、やがて光に満たされます。
日々に神の御胸に抱かれて光の国に住めるうれしさ
地獄の底に真っ逆さまに落ちないように、
毎日の生活の中に神の御胸に抱かれて、
そして光の国に住まわせてもらっている喜びですね。

愚かな過ちの多い私でも、
こんな幸せな毎日を送らせてもらっています。
そして数限りない多くの方から愛してもらえます。
なぜ私が、多くの方から愛していただけるのでしょう。
それは私が人を愛するから、人は私を愛して下さるのです。
愛するが故に愛され、与えるが故に与えられます。
これは法則ですね。

だから幸せになりたければ、
人様を幸せにさせてもらったらいいのです。
身の周りの方を幸せにしたらいいのです。
その時、必ず自分が幸せになります。
不孝になりたかったら、
周りの人をいじめて不幸にしてやれば、
必ず不幸になります。

簡単に幸せにも不孝にもなります。
山彦は山に向かって声を発しますと、
そのまま山に当たって返ってきます。
「オーイ」と言えば、「オーイ」と、
「アホー」と言えば、「アホー」と、
返ってきますね。
狂いはありません。
過ちの行為をすれば、
それは過ちとなって自分に返ってきます。


      ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2014-11-25 00:36:44 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


              講演集、 二


        その人の長所を見付けて礼拝する


先の続き・・・

自分がどうであったか、
果たして過ちを犯していなかったかと追求していきますと、
もう、あるはあるは、過ちの塊みたいなものです。
よくまあ、こんな自分が今日まで生きさせていただいたことだ、
皆さんの許し、神様の許し、そんな大きな愛の中に許していただいてはじめて、
今生きさせていただいているのだなあということが分かります。
反省なしにそんなことに気付くことはできません。
反省もしたことのない指導者が、どうして人に反省の指導ができますか、
できません。

そして反省の中で己自身の哀れな姿も見せていただけます。
本当に哀れな可哀そうな自分も見せてもらうことができます。
人はみな可哀そうな存在です。
この世に生まれた以上、愛しき者と別れなくてはいけない、又巡り合った方と
別れなくてはいけない、そしていつの日かこの世を去っていかなければいけない、
そういう宿命を背負ってこの世に生きているのです。
又人生というのは自分の思うようにはなりません。
「ああしたいなあ」「こうしたいなあ」と思っても、どうすることもできない
しがらみ中に自ら縛られている自分の姿も、反省することによってはっきり
拝めます。

そして自分が許していただいているのだから、人さまを責めるような資格が
自分にあるのだろうかと思いました時に、そんな資格は一つも自分にはない
ことが分かりますね。
何の過ちもなければ、人を責める資格があります。
しかし、そんな方は一人もありません。
過ちを繰り返し、ほんとうに正しい道を知らないが為に、愚かにも過ちを犯し
罪を作り、やがて地獄に落ちるのです。
私たちは過ちに目覚めなければほんとうに地獄に行きます。
生きながら地獄の毎日です。


      愚かにも悪業重ね罪つくりやがて帰らん地獄なる国


となります。


             ~ 感謝・合掌 ~





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「講演集」より。

2014-11-24 00:43:48 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

          恩師のご著書「講演集」より


              講演集、 二


        その人の長所を見付けて礼拝する


先の続き・・・

家庭の中で、或いは職場の中で人様を礼拝させてもらえばいいのです。
私のところに来ていただきましたら、「有難うございました」と合掌して迎え、
治療させてもらっても、
「ああ、有難うございました」と合掌してお礼を言わせてもらいます。
その方の仏性に礼拝するわけですね。
どの方もみな神の心、仏の心を持っておられ、素晴らしい面を持っておられます。
「あの人にはあんな素晴らしいところがある」
「この人にはこんな素晴らしいところがある」と見付けて、それを褒め称えるのです。

それを、いいところを見ないで、悪いところばかり見付け出して、
文句を言って喧嘩をしています。
新しい畳でも叩けば埃が出て来るように、過ちの無い人間は一人もありません。
過去を振り返ってみましたら、
どんな方でも「私はいまだかって過ちを犯したことはありません」と言える人は、
一人もいないはずです。
今は犯していなくても、過去において犯しているかも分かりません。
ですから、人の過ちを掘り下げるのだったら、自分の過ちをせいぜい探すといいのです。
人の過ちを探している暇があったら、自分の過ちをしっかり探して、
自分の間違いを掘り起こせばいいのです。
これが反省です。

自ら法の後継者と称しながら、「私は一度も過ちを犯していないから、
今迄一度も反省をしたことがない」と講演をして威張っている指導者もあります。
今日来ていただいているこの若い方は、この間から一週間、奈良のY先生の
内観道場に行き、その帰りにここへ寄ってくれたのです。
一週間よく頑張ってくれました。
本当に御苦労さまでした。
私たちは自分自身の心を見詰め、内観或いは反省することなしには、
自分の過ちに目覚めることができないのです。
反省、内観は神の与え給うた大きな慈愛です。
私も反省させていただくまでは、すべて自分が正しく、
人が間違っていると思っていました。


            ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2014-11-23 00:20:22 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        恩師の御著書[講演集]より


            講演集、 二


      その人の長所を見付けて礼拝する


指導者が人を中傷し、嘘をつく、
そんな方の教えを信じてさんざん人の悪口を
言って、嘘をついて歩いたなら、間違いなく地獄行きです。
指導者が人の悪口を言い、嘘をついているのだから、
学んでいる人たちは又同じように人の悪口を言い、嘘をつきます。
嘘を言っている多くの方をだましたり、人をけなしたり、
人の悪口を言ったりしていて、死んだ時に極楽に行けるはずがありません。
熱心な弟子ほど教えを守りますから、その指導者のように生きるはずです。
人をけなしたら、自分が地獄に行くということを覚悟して、
人をけなしたらいいのです。

人を褒めなさい。
そして感謝しなさい。
褒めてもらって怒る人はありません。
その方の素晴らしいところを見つけて下さい。
まあ「観自在菩薩―――アバロキチィーシュバラー」ですね。
観自在菩薩の、「観」は見る、「自在」は自由自在です。
灰皿一つ見ましても、上から横から底から見ますと、それぞれ形が違いますように、
人間もその方を見た時、長所もあれば短所もあって、それでこそ人間です。
完成された方は一人もおられません。

欠点の無い方はこの世に生まれる必要がありません。
欠点があるから、生まれてきているのです。
この欠点をとりあげて、
「あの人はああだこうだ」とけなしている人のほうがおかしいのですね。
皆、欠点はあるのですから、
それよりもその人の持っている素晴らしいものを見付けて褒め称えたらいいのです。
自分の身近な方を褒め称え、信頼し、そして礼拝したらいいのです。
それでこそ本当の神の信仰につながります。


        ~ 感謝・合掌 ~





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「講演集」より。

2014-11-22 01:14:06 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


               講演集、 二


      この世への執着や心の重さが成仏を妨げる


先の続き・・・

ですから、私たちは死んだ後、
嫌われるようなところには出ないようにしましょう。
死んだら生き残った人への執着を離して水臭くし、
私たちも死んだ人への思いを捨てて水臭くしたらいいのです。
私が「死んだら思いを残してはいけません。
どれほどいとおしい方でも、どれほど大事な物でも、
どんな大きな財産、地位、名誉であっても、
そんなものは一切捨てなくてはいけません。
死んだらもう心を離さなくてはいけません。

後に残った者も死んだ人の後を追ったらいけません」と言いましたら、
「先生は水臭い。
自分の大事な人を失ったことがないからそんなことが言えるのだ」と言って怒られました。
「いや、私も大事な人を亡くしました。
しかし生きている者は死んだ方から思いを離してあげて、
極楽の世界に旅立ってもらうように仕向けなくてはいけません」
そう言うと、「水臭い水臭い」と言って怒りますから、
「では、あなたは死んだ人が出てきたら喜びますか」と聞くと、
「いや、やっぱり気持ちが悪い、恐ろしくていやです」と言われます。
この世を去った時、私たちは素晴らしい世界に帰らなくてはいけません。

その素晴らしい世界に帰るには、先程から言っておりますように、
この世の一切のものから思いを離すこと、
そして自分の心の荷物を少しでも軽くすること、
それと自分の行く世界をはっきりと知っていることです。
そうすればもう迷うことはありません。
私にご縁のあった方は、亡くなったら皆きれいなお顔をしているのです。
ご縁のある方は皆、「安らかなきれいなお顔で極楽往生してくれました」
といって連絡して下さいます。
それは、その方たちが自らの心に目覚めて、光に満たされるから、
安楽往生ができるのですね。


            ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2014-11-21 00:39:40 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

           恩師のご著書「講演集」より


               講演集、 二


     この世への執着や心の重さが成仏を妨げる


先の続き・・・

誰でもいいと言って探しかけて指をさされましたら、皆びっくりします。
そんな神様が、肩に乗せてほしいと言ってきたら、誰でもいい気はしません。
なるほど神と祀られて、一般の低級な拝み屋さんなどが見ますと、威圧的に
神の怖しさを見せるのです。
そして言うことは立派なことですので、ついに神様として祀ってしまうのですが、
その本質は違います。
よく人間の体に神懲りしていますが、ああいうのは、
自らの心を悟っていない霊が乗り移っているのです。
真の神の御心を知らない者、神の御心を日々の生活に実践できない者に、
どうして真の神が懲かられますか。
死んだ後に、強い思いを残してこの世に出る幽霊は、絶対に歓迎を受けません。
誰も皆、お金は大事だと思いますが、そのお金さえ幽霊が出てきて言えば、
もう要らないと言います。

これはこの近所の方の話です。
そのおばあちゃんは、「ちょっと三千円貸してくれるか」、
「ちょっと五千円貸してくれるか」と言って、
あちこちでたくさんの借金をしたままよそへ引っ越しされました。
借金の持ち逃げです。
「まあ、しょうがないわ」と、皆諦めていたのです。
するとある晩、そのおばあちゃんが、「こんばんは、
お前とこで借りたお金をまだよう返さないでいる。もうちょっと待っといてや」と言って、
一軒一軒借りた家を回って歩いたのです。
それで近所の人が、「あんなに長い間何も言わないでいて、急に来てあんなことを言って、
もうちょっと待ってと言うてる。あんたとこにも来たのかいな」と
いう話になっていたのですね。

その後、何日にかして、その家の若い息子さんと、近所の人が会った時に、
「えらい遠い所にいったというけど、この間おばあちゃんがこちらに来て何軒も尋ねて歩いた」と言うと、
「ええ?それはいつのことですか」とびっくりされたそうです。
そこで、何月何日だと言うと、その日はおばあちゃんはもう死んだ後だと言うのです。
それでびっくりした皆さんが、「もう銭は要らんから、おばあさんに二度と
こないように言うといて」と、家族の人にお願いしたそうです。
―――死んで出てきたら、金も要らなん、物も要らん、愛も要らん、
どうぞ二度と出て来ないようと言われるほど嫌われていたのです。


              ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2014-11-20 06:24:18 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


              講演集、 二


      この世への執着や心の重さが成仏を妨げる


先の続き・・・

「あなたは自然に逆らってそういう超自然現象を現わす力があるのだったら、
この家庭の調和の為にしっかり頑張りなさい」と言いますと、
「あんなにガチャガチャ言うのは気に入らん」つまり、
その家の中で夫婦が絶えず喧嘩をするのが、お稲荷さんじゃ気に入らないと言います。
「それは結構です。私が夫婦を指導いたしましょう。
その時はもう水を出しませんか」と聞くと、「もう出さない。
そのようにしてくらたらもう水は出さない」
「それでは約束しましたよ」と言って、その人たちを呼んで
「あなたたちは仲良くしなさい。お稲荷さんは怒って水を出すのだと言っていますよ」と、
東京の夫婦に注意をさせていただきました。
ご夫婦はびっくりして、今後仲良くすることを誓ってくれました。
このように自然に逆らった超自然現象を現わす力があっても、それは霊の力で
自分の心を悟ることができないのです。
だから何回も出て来ては私に叱られて、「許してくれ、許してくれ」と稲荷さんが泣いています。

しかしこの件以後はもう水は出なくなりました。
私の心の友の方々は、みな目のあたりに一緒に見てよく知っています。
一番気持ちが悪かったのは、「先生のところに祀ってほしいのや、祀ってほしいのや」と、
神様が言うことです。
「いや、私は祀りません。私はそういう偶像は祀りません」と断わりますと、
「先生のところならどこでもいいから祀ってくれ。便所の端でもいい」
「そんな汚いところに祀ってもらってどうしますか。
まことの神の御使いをさせていただくこの私でさえ、祀れとか拝がめなどとは言ったことがない。
あなたは自らを知りなさい」と強く言いますと、「祀ってくれなかったら、
先生の肩に乗せてほしい」と言ってきます。
「神と祀られながら、こんな愚かな私の肩に乗ってどうするのですか。
あなたはこの私の肩に乗る力がありますか」と私が言いますと、
「先生が駄目ならここにいる誰でもいいから肩に乗せてほしい」と指をさして探しかけた時、
冷たい風がピューッと吹いてきました。
すると、たまたま泉大津から見えていた方がキャーッと飛び上がって逃げ出してしまいました。
それ以来再びその人はここに来てくれません。


             ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2014-11-19 01:06:08 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

           恩師のご著書「講演集」より


                講演集、 二


      この世への執着や心の重さが成仏を妨げる


先の続き・・・

「私は天上界において、神とコンタクトしてきます」と言われる自称の偉い先生があります。
そんなもの、天上界にお伴していって見てきた人は一人もいません。
ただ自分で勝手に言っているのですから信用できません。
高橋信次先生の意識が入ってこられて先生の霊の言葉を話す人たちもおられますが、
誰一人証明する人はありません。
証拠のないものを信じるのは盲信狂信となります。
誰も見ていないことで、そんなものは証明者がなかったら駄目だと思います。
そんなことをわざわざ言わなくても、自分が神の子として、神の御使いとして、
神の心を我が心として恥ずかしくないように日々の生活で自分が実践したら
いいのです。

よく、誤った神様や観世音菩薩や何々の大神と称するものが、
人の口を使って出てこられることがあります。
こういうことがありました。
東京のお稲荷さんはすごい力を持っていて、東京のあるお宅で超自然現象を
起こすのですね。
そこのお宅の床の間や将棋盤やお膳の上から水がフワ―ッと湧いて出てくるのです。
最初は、水道屋さんが工事ミスをして、天井の水道パイプから水が落ちてくるのかと思って、
その箇所を探し回ったそうです。
又、天井裏の水道パイプから水が漏っていないかと天井も全部見たそうです。
しかし原因もないのに水が湧くので、その家の者が恐怖に襲われ、怖がって、
私のところに相談に見えたのです。
その東京のお宅ではお稲荷さんを祀っています。

「では、水の出て来るのを止めてあげましょう。
私がおまじないを書くから、これを、水の出てくる部屋に貼りなさい。
そうすればもう水は出ません。
もし水が出たら私が止めにいきましょう」と言いますと、
「東京まで来てくれるのですか」と驚いておられます。
「私はどこへでも行きます」と言って、紙に書かせてもらいました。
それを東京に持って帰って部屋に貼りますと、ピタッと止まったのです。
ところが、その家のお嫁さんのお母さんがこの近所にいるのですが、
ここに来ましてね、そのおばあちゃんに霊が入ってきたのです。
「どなたですか」と言うと、「東京の稲荷、お前らな、水が出て怖いこわいと
言うてるやろ、あれは私が出しているのだ」と言うのです。


              ~ 感謝・合掌 ~






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「講演集」より。

2014-11-18 00:59:33 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        恩師のご著書「講演集」より


            講演集、 二


    この世への執着や心の重さが成仏を妨げる


先の続き・・・

その後、
歳をだんだん重ねていきまして、この正法にご縁があるまで、
何人かのお葬式に最後の手向けをさせてもらいましたけど、
もう皆、嫌な顔をしておられます。
ああ恐ろしいなあという顔ですね。
ところが、この正法にご縁を頂き、心というものが分かってきまして、
亡くなった方に対して法を伝えさせていただきましたら、硬直しているお方が即、
硬直が解けて、ふわふわになって綺麗なお顔になっていきます。

唇などは、上等の口紅を塗ったようになり、頬は頬紅を塗ったようになりますね。
それは、私のような人間にそのような力があるはずはないのです。
これは、正しい法を伝えさせていただくことによって、
そのお方が自分の心に目覚めて下さったから即、成仏することができるのです。
私のことを「霊に囚われている」と人は言いますが、亡くなったお方に成仏していただいて、
その方が忽ち百人が百人、千人が千人見て、
「まあ何と綺麗なお顔になられた」といって認められたならば、
それは霊的現象であり、且つ科学です。

体験をして、自分が実際に神の力を見せていただいて、
その話を人々にお伝えさせていただく、
この体験こそ、この自分の実践こそが尊いものであり、
それを通して神の力が示されるのです。
そして肉体を持ったまま、真の神を証明することができるのです。
行わない者に誰が力を現わしてくれるでしょうか。
法に背いている者に誰が法の力を注いでくれるでしょうか。
法に従ってこそ、神の力は働いてくれます。
正しい教えを自分が行じてこそ、法の力というものは現わされます。


            ~ 感謝・合掌 ~





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「講演集」より。

2014-11-17 00:18:42 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

           恩師のご著書「講演集」より


                講演集、 二


      この世への執着や心の重さが成仏を妨げる


先の続き・・・

自分の思い方、生き方によって私たちの心は天上界にいつもあるのです。
苦しみが少なく、常に感謝に満たされ、安らぎと喜びに中にあります。
この世に生きさせていただきます時に、日々の生活の中で常に「有難いなあ、
私は幸せだなあ、なんと幸せ者なんだろう」という思いに満たされた生活をし、
人生を過ごしますと、死んだ時に硬くならないのですね。
いくら表面上はいい恰好をして、綺麗な着物を着て人さまに対して偉そうにしていましても、
心の中で苦しみ、つまり誤った行いや思いによって苦しみを
溜めている方は、あの世に帰る時に必ずその決算が出て来ます。
いよいよ息が切れてしまいますと、肉体は硬直を始めます。
見ている間に冷たく、悲しく、硬くなり、もう石みたいなものです。
顔は見るのも恐ろしい嫌な顔になります。
成仏なさった方のお顔はほれぼれと見とれるような綺麗なお顔になります。

私は幼い頃、親戚の者やその他亡くなったお方に、
何回か最後のお別れの立向けの水をささげさせてもらいました。
人間が死ぬと、なぜあんな嫌な顔になってしまうのだろうかと、よく思ったものです。
そして幼い頃、母に聞きました。
「お母ちゃん、死んだらなぜあんな怖い顔になるんやろ、
あんないやらしい顔になるのはなぜやろう」と。
「あれはな、長いこと親しくしてもらっていた人が死んだ時、
いとおしい人が死んだ時、別れることはできない、
その人を捨てることはできないという思いが、もう見るのも恐ろしい顔になって、
ああ怖い、怖い、早うこんなものどないかしてもらわなあかんという顔にならないと、
別れられない。
それで神様があんな顔にしてくださるのや」と、教えてくれたのです。
ああそんなものかと思っておりました。


             ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2014-11-16 02:24:43 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


              講演集、 二


    この世への執着や心の重さが成仏を妨げる


先の続き・・・

若い時、好きな方とデートでもしますと、「早く帰らなくてはいけないよ」と
言われていても気付いたら、「あら、もうこんな時間」と、知らない間に時間が
過ぎているのです。
楽しい時間というのは早く過ぎ、嫌な時間は長いもので、私たちの一日も同じことです。
ものすごく心配な事があったり、恐怖に襲われたりしておりますと、
一日が無限に長く思われます。
早く夜がこないかな、寝てしまうと忘れられるのにと、夜のくるのを待ち望みます。
ところが夜になったら寝られないでああ長い夜だなあと言って朝まで待たなくてはいけません。
しかし幸せで楽しい時間というのは、一日があっという間です。

私などは「夜が明けたと思ったらもう寝なくてはいけないなあ、
休ませてもたったらもう起きなくてはいけないなあ」と言って、
楽しみいっぱいの一日でございます。
それは喜びと安らぎとそして感謝に満たされており、又人々の喜びと、
その人々の喜びを頂いてそれを我が喜びとする毎日だからです。
こんなことをしていましたら、私の寿命は限られているのに、
もうあっという間に私のこの世の生命は過ぎるのではないかとひやひやしているぐらい、
一日一日が知らない間に過ぎていきますね。
それは常に喜びに満たされていますから、心は天上界です。
私は禅定の時、よく言わせてもらっています。
「身はこの世にあり、心は天上界にあります」と。


             ~ 感謝・合掌 ~






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