恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より
第一章、 或る愚か者の生涯
◆父母の後ろ姿から学んだ奉仕と布施の実践◆
先の続き・・・
収穫した葡萄からは、腐った粒や成長していないうらなりの粒を、
先の尖ったハサミで摘んで除き(「サビを取る」と言います)、
良質なものだけを箱に詰めて出荷します。
この選り分けの作業を庭先で行うのですが、
母は決まって玄関口の敷居のところに座って、
表を通るかかる人々に「ひとつ食べていっておくんなはれ」と、
いつも見も知らぬ人たちにさしあげておりました。
私の父が偉かったのは、
一年もかけてやっと育てた大切な作物をそのように通りすがりの
見も知らぬ人にあげてしまう母に対して、
いっさい何も言わなかったことです。
ふつうならば、「もういい加減にせい」とでも言いそうなものです。
私の母は自分のところに食べるものがなくても、人には施してしまう、
そういう人でした。
その後ろ姿を見て育ってきたために、私は人に施すものだと、
ごく自然に思ってきました。
親から受けた感化と言えます。
しかし、これは母からばかりではありません。
父の行いからも私は教えられるところが多々ありました。
父からは無償の奉仕の実践を学びました。
いつしか当然のごとく、
布施と奉仕の実践をするという心が親の代から子の代へと
受け継がれ養われてきました。
昔の道は今と違って舗装されていない土の道でした。
リヤカーや荷車が通れば、その轍ができ、雨が降ればぬかるみとなって、
轍はますます深く掘られ、そこの水が溜まります。
父は畑に行く途中でも、デコボコになっている箇所を見つければ、
必ず道直しをしておりました。
道とはみんなが使う公共のものです。
雨が降れば山道でも上から流れ下ってきた水が道を掘り返し、
通りにくくなります。
それを頼まれもしないのに、
なぜ自分の父親だけが一人汗を流して直しているんだろう。
私は子供ながらに不思議に思っていました。
しかし、
それは奉仕の心と実践とを身をもって教えられていました。
~ 感謝・合掌 ~