浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「御垂訓」

2019-08-31 00:20:25 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 ~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                  講演 五

「六根あるがゆえに己が悟れば菩提と化すことを悟るべし」

先の続き・・・

私たち一人一人の中に、
神様が自らを表現するため入っておられます。
その神様が肉体の五官という悪魔のよそおいをなさっています。
ですから表面に捉われますと、
悪魔の働きが出てきて、それが自己保存・自我我欲となります。

しかし悪魔の仮面を剥がせば、その中は神ご自身であるはずです。
私たちは一人一人魂の修行にこの世に生まれ出ているのですが、
ついつい五官に翻弄されてしまいます。
五官による翻弄を煩悩ともいっています。

人間は肉体を頂いた限り、
避けることのできない自己保存と自我我欲の煩悩を持ちます。
キリスト教では「人間は罪の子である」と説かれますが、
本質は罪の子ではなくて、
肉体そのものが持っている自己保存と自我我欲こそが
罪そのものだったわけです。
イエス様が「人間は罪の子だ」とおっしったのは
そのことをさしています。
 
六根という煩悩を頂いておりますが、
自分が悟らせてもらった時には、即菩提となります。
自らが仏となります。

魂の表面意識は、自分の思いによって感情的になったり、
理性的になったり、つまり「知性、理性、本能、感情」の
四つが働きます。
思いによって想念の働きが起きるのです。

その想念の働きよって、今度は意志が働いて行動に移ります。
人間の本能と感情の分野が異様に発達しますと、
理性と知性が小さくなって、正しくものが見られなくなります。
人を好きになった時の「あばたもえくぼ」の状態ですね。

心が丸い状態で、四つの思いが想念によって調和されていますと、
あばたはあばたに見えます。
逆に知性ばかりが大きくなりましたら、
「頭でっかち」になり、これは危険です。
想念の働きによって、私たちの意識の状態がいろいろ変化します。
私たちの心は、想念の働きによって腹を立てたり、恨んだり、憎んだり、
呪ったり、またある時は飛びはねるほど喜んだりします。
 
六根という煩悩を頂いておりますが、
自分が悟らせてもらった時には、即菩提となります。
自らが仏となります。

魂の表面意識は、自分の思いによって感情的になったり、
理性的になったり、つまり「知性、理性、本能、感情」の
四つが働きます。
思いによって想念の働きが起きるのです。

その想念の働きよって、今度は意志が働いて行動に移ります。
人間の本能と感情の分野が異様に発達しますと、
理性と知性が小さくなって、正しくものが見られなくなります。
人を好きになった時の「あばたもえくぼ」の状態ですね。

心が丸い状態で、四つの思いが想念によって調和されていますと、
あばたはあばたに見えます。
逆に知性ばかりが大きくなりましたら、
「頭でっかち」になり、これは危険です。

想念の働きによって、私たちの意識の状態がいろいろ変化します。
私たちの心は、想念の働きによって腹を立てたり、恨んだり、憎んだり、
呪ったり、またある時は飛びはねるほど喜んだりします。



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「御垂訓」

2019-08-30 00:42:14 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 ~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


            講演 四

「守護・指導霊に感謝しさらに反省は
己の守護・指導霊の導きを受けることを知るべし」

先の続き・・・

それにはいろいろな原因があります。
いくら善いことをしましても、
どれだけ人様のために尽くしましても、
どれだけ人を救わせてもらいましても、
その結果として自らを苦しめているからです。

自分の苦しめることは神のご意志に背くことです。
神は「自らを苦しめることなかれ、自らを愛せよ、
自らを愛するがごとく他を愛せよ」と言われます。
これは神様の至上命令です。

私たちのお母さんお父さんは、子供の幸せを願って下さいます。
その親以上の愛をもって私たちの幸せを常に
念じ願って下さっているのがほんとうの神様、父なる神ですね。
私たちは神のいとし子です。

そして父はただ子の幸せを願われます。
神の大いなる愛は常に私たちに注がれております。
このことを知った時、
私たちはいかに幸せあるかということが分かりますね。

 ~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~

            講演 五

「六根あるがゆえに己が悟れば菩提と化すことを悟るべし」

私たちは五官によって感じ、「意」によって喜び、苦しみ、悲しみます。
五官に「意」を含めて六根です。
つまり「眼・耳・鼻・舌・身・意」これで六根です。

肉体には眼、耳、鼻、口があり、
そしてこの体をいれて五官が与えられています。
この五官によって魂の修行をさせていただくのです。
五官が無ければ肉体が保存できませんから、
どうしてもこの五官を通して目で見、肌で感じ、舌で味わって、
都合の悪いものは避けて自分を守ろうとします。

苦いものや毒などは吐き出しますし、
火に手が触れると熱いから避けますし、
針で突いたら痛いので避けるというように造られています。
五官を通して見る時は、どうしても自己保存になりますが、
それが当たり前なのです。

そして自我我欲に捉われて当然なのです。
自己保存のために与えられた道具ですから、
そうなって当たり前のこの肉体の
中に、神の子の私たちの内なる魂が宿って
修行させてもらうのですね。



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「御垂訓」

2019-08-29 00:06:25 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は横綱の曙が体調不良で優勝から離れていた時、
恩師「長尾弘」先生に治療を受けるために浄心庵を訪問し、
治療を受けているところです。
この場所で曙は優勝しました。
同じハワイ出身の大関小錦(向かって左)も治療を受けていました。
二人ともさすがに巨漢ですね。

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


             講演 四

「守護・指導霊に感謝しさらに反省は
己の守護・指導霊の導きを受けることを知るべし」

先の続き・・・

私たちはこれに似たようなことをいくつも繰り返しており、
それらが全部心のお荷物になっております。
その行いが私たちの心の中に一つ詰まり二つ詰まって
大きな砂袋と化していきます。

砂袋は私たちの心の中に常に錘となってぶら下がっているわけで、
これを軽くしない限り、次に犯せばまた重くなり、
この世を去る時に肉体の命の糸が切れてしまいますと、
たちまちにして深い所へ落ちていきます。
落ちていく先は、仏教では地獄といっていますね。

宗教ではない私たちのこの学びの世界では、
心の暗闇の世界へ落ちるということです。
心の中に常に荷物がなく、明るくて軽ければ浮き上がります。
そういう方が亡くなりますと、
間違いなしに上へ上へと上がっていきます。
それが自然の法則ですね。
思いものは落ちます。
軽いものは上がります。

その砂の材料は何かというと、怒りであり妬みであり、
謗りであり愚痴であり、恨みや憎しみ、不要の取り越し苦労、
これらが全部砂の材料になっております。
神の御心の中には罪も過ちも汚れもありません。

無いものであるから改めた時には消えてしまうのですね。
ほんとう有難いことです。
自分が間違っていたということを正面から知ることによって私たちも即、
その苦しみから救われるのです。
自分が正しいと思っている限りは絶対救われることはありません。
「自分は正しい、間違いない」と言うのは地獄の霊です。

成仏できないで暗い恐怖の世界におられる方の霊が出てこられますと、
全部共通して「私は何も悪いことをしていないのに、
なぜこんなに苦しい思いをしなくてはいけませんか」と言います。
自分が悪いということが分からないから地獄にいるのです。

ところが天上界から来られた霊は
「私はこの地上にあった時はいろいろ失敗やら過ちを犯しました。
ほんとうに未熟な人生を送ってしまいました」と言われます。

そして地獄の世界にいる人は今でも「私は悪いことをしていないのに、
罪も犯していないのに、一生懸命人のために尽くしたのに、
なぜこんなに苦しまなくてはいけないんですか」と
言って苦しんでいるのですね。



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「御垂訓」

2019-08-28 00:13:23 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                   講演 四

「守護・指導霊に感謝しさらに反省は
己の守護・指導霊の導きを受けることを知るべし

私たちは常に守られ指導を受けていることを自覚することですね。
自覚することによってまた力を与えてもらえます。
常に守護霊・指導霊に感謝し、常に反省させていただきますと、
守護霊・指導霊がお願いしなくとも導きをして下さるのです。
頼まなくとも反省の功徳が頂けます。

反省の功徳には計り知れないものがあります。
高橋信次先生にご縁を頂きまして、
私たちは反省の大切さを学びました。
しかし、さて反省させてもらおうと思いますと、
なかなかできないのです。
どうしたらいいかそのやり方がはっきり分かりません。
そこで私がさせていただいた反省の方法を、
自分が実際に体験したことに基づいて皆様にお伝えしております。
     
以前、私の幼い頃の反省をし、
自分の悪さの限りを告白懺悔させていただきましたね。
あのようにして自分の幼い頃の「あれさえしなければ良かった、
あの時あれをしなければ私は心がもっと楽だったろうのに」と
いう思いはどなたにもあるはずですから、それを反省するのです。

この間、高校生のあるお嬢さんが悪いことをして捕えられて、
大変恥ずかしい思いをしたことを話されていました。
お友達が天王寺の駅で定期券の期限が切れているのに
そのまま乗車したのですね。

「あんた、そんなことをして見つかったらおこられるよ」と
言っているのに、「こんなの分からへんよ」と言って
その期限切れの定期券を持って出たところで掴まったそうです。

「こんなもの見つかったらぱっと逃げたらいいんや」と言って、
まあいたずら気持ちだったのでしょう。
ところが逃げようと思ったら、腕を掴まれたそうです。
そして、大勢の人が見ている前で叱られたというのですね。

この話を聞きまして、「ああ可哀想に、
人生の大きなお荷物をその子は背負われた、
正しい法にご縁を頂いて反省と自分の魂の浄化をしない限り、
その子は二十代になっても三十代になっても、
あるいは九十、百になっても一生心のお荷物として生きていくはずだ」と
思いました。

人間には良心があります。
そして恥というものを良心が知っております。
女の子ですから駅で掴まって、
大勢の人に周りから見られた時には必ず恥らいがあるはずです。
その恥ずかしさが心のお荷物となって、
その子は生涯背負っていくことになります。



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「御垂訓」

2019-08-26 11:19:17 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

日本では信じられないようなインターネットプロバイダーの技術の低さに加えて、
そこで働くスタッフの驚くべき無責任さの為にこの二日間ほどまったくインターネットの
使用が出来ませんでした。

比国が開発途上国と云われる所以がこの辺りにあるのではないかと思います。
今、やっとパソコンの使用ができるようになりました。
今後、このようなことが再発しないことを願いながら、ブログの投稿を再開させて戴きます。
ブログの投稿が二日間ほどまったく出来ませんでしたことを、皆様に深くお詫び申し上げます。


 ~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                   講演 四

「己自身は孤独に非ず」

私たちは、自分は一人ぽっちである。
自分はたった独りであるという錯覚をおこしておりますが、
たとえ山奥で一人迷ったとしましても、
私たちの魂の奥底にはちゃんと父なる神が共にいてくださいます。

これは「インマニエル、我、神と共にあり」であって、
絶対に孤独ではありません。
仮に孤島に漂流しましても、
その場所にはちゃんと神様があられて私たちと共にいて下さいますし、
守護・指導霊様もついていてくれるのですね。

しかしこのことがなかなか分からないのです。
地球上のどこへ行きましても一つの神様があられて、
そこは慈悲と愛に満たされております。
東京であろうが、或いは地球の裏側であろうが、
真の神様の慈愛に包まれているということを知ることですね。

「意識の中に己に関連せし 守護・指導霊の存在を知るべし」

そういう大きな神様の慈愛の中に包まれており、
そして意識の中には私たちに関連した守護・指導霊がちゃんと
ついて下さっています。

この守護・指導霊の説明もすでに何回かさせてもらいましたね。
守護霊というのは私たちを守って下さる霊で、
指導霊とは私たちを何かと導いて下さる見えない世界のお方です。
 
一生懸命に私たちが何か一つのことについて追求している時に、
突然パッとひらめくことがあります。
「ああ私は頭がいいなあ、いい智慧がひらめいたなあ」と
思うのはとんでもないことで、
これは指導霊が教えて下さっているのです。

守護霊の働きについては、この臨海で一つの例がございます。
臨海には外国から入ってきた大きな材木がいっぱい浮かしてあります。
その材木をトラックに積んで走っていたところ、
横を走っていた乗用車の上へ何十トンという大きな丸太が荷こぼれして、
その車に乗っていた人はかすり傷一つなかったのですが、
こういうことは、普通では考えられない出来事ですね。

車が潰れているのに、中に乗っていた人がかすり傷もないというのは、
これは正しく守護霊の働きだと思います。
また、絶壁から車が飛び込んだのに、
途中の木に引っ掛かって助かったという
場合に働きをして下さったのも守護霊様です。
私たちの心の中に住んで下さっていますから、
どんな所へ行っても安心して生きることができます。




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「御垂訓」

2019-08-24 00:11:46 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                  講演 四

先の続き・・・

私たちはかれこれ十数年間、
せめて今日一日の生活はどうであったか、
正し道から離れていなかったについて三十~四十項目を作りまして、
心の検査をしてきました。

「今日一日腹を立てなかったか 愚痴を言わなかったか 
人の悪口を言わなかったか 人を謗らなかったか 
恨んだり憎んだりすることはなかったか」と
各項目に分けてその日一日をずっと調べていきます。

もし犯した過ちがありましたら、すぐに「しまった、
今日は腹を立ててしまった」「ああ自慢してしまった」
「心の中に恨み心が残っていたなあ」と、
明瞭に浮かび上がってきます。

そして「明日の生活の中にこの過ちを再び犯さないように努力します」と
誓って、反省をするのですね。
毎日毎日休むことなしに今日一日の反省をさせていただきますと、
私のような鈍(どん)な人間でも阿呆の一つ覚えという言葉のように
だんだんと心の運転が上手になって慣れてくるのですね。
  
「今日一日増上慢にならなかったか 自信過剰にならなかったか」
「今日一日卑屈にならなっていなかったか 
今日一日謙虚に生きられたか
礼儀正しく生きられたか 柔和であったか」
「今日一日相手の立場に立ってものを考えられたか 
心から相手の立場に立てたか人々に対して差別の思いはなかったか
 人様を心から許させていただいたか」 
「何か一つぐらい善いことを行なったか」と、
このように自分自身を毎日毎日調べてみますと、
いかにできていないかということが分かります。

できていないことが分かりましたら、次は実践し、
行えばいいのです。
ですから私の所の禅定に来られる皆さんのお顔はすごく
安らいでおりまして、綺麗なお顔です。
皆さんが安らいだお顔に変わっていかれるのは魂が
浄化していくからです。
魂と顔とは比例して、魂が浄化されると顔も浄化されます。

この肉体は私たちの魂の表現体、お顔は魂の看板、眼は魂の窓です。
ですから窓の中をちょっと覗きますと、
その人その人の心の中は丸見えでございます。
立派な窓を付いるのですから、なにも不思議なことと違います。
私たちは反省することによって、魂が浄化されていきます。
このことを悟りなさいと、「心行」に書いて頂いております。


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「御垂訓」

2019-08-23 00:06:16 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

  ~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


            講演 四

先の続き・・・

常に謙虚であって、人様の言葉を素直な心で聞かせてもらい、
もしも自分に間違った面があれば素直な心で自分を見詰めますと、
「ああ、私のこういう点がいけなかったなあ、
これを何とか改めていこう」というように思えるはずです。

私は過去も今もですけど、全くできの悪い人間でございまして、
まだ今のほうが少しはましにならせてもらいましたが、
過去はとりえのない人間でしたね。

何でも都合の悪いことは全部人のせいにして、
都合のいいことがあれば全部自分のせいにします。
人間の持っている最も深い業で、この宿業をそのまま現しておりました。

しかし法にご縁をいただきまして、自分の愚かさ、
自分の至らなさを学ばせていただきますと、
人様を責めたり人様を裁いたりするような資格はないことが
分かってきました。

そうしますと人様のことは気にならなくなります。
人様よりもまず自分を正さなくてはいけない、
自分の悪い癖、欠点を直さなくてはいけないということに
目覚めてきます。

そこでこの煩悩ですが、眼・耳・鼻・舌・身の五官の感覚が
煩悩の原因になっておりますから、この五官を調和することです。
そのためには常に中道を根本として、つまり、
善意なる第三者の立場に立って自分と相手を見ていくことです。

「中道の立場を根本として己の正しい心に問うこと」の正しい心とは
反省させてもらうことです。
常に反省させていただくことが、
自分の正しい心に問いかけていくことになります。

ですから私たちは常に自分を見つめて、己自身に間違いがないか、
欠点を作らなかったか、悪い癖を出さなかったかと、
自分の姿を厳しく見ていくことが大事です。
これが反省です。

そして反省させてもらうということは自分自身の魂が
清められていくということです。
清められるということは汚れがとれていくことですね。


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「御垂訓」

2019-08-22 00:14:21 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


            講演 四

前回は、生老病死の苦しみによって
自分自身の本性も忘れ去ってしまうのは、
人間の持っている煩悩によって曇るからだというお話をしました。

この煩悩のもとは、私たちの眼・耳・鼻・口・体の五官ですから、
人間はもともと煩悩の塊なのですね。
煩悩の塊であると思って間違いありません。

なぜかといいますと、この五官というものは全部苦しみの原因として
造られている道具だからです。
もともとこの五官は全部私たちの身を守るために
与えられたものですから、自己を中心としてものを見、聞き、触れ、
舌で味わって、都合の悪いものはみな避けるように造られているのです。

嫌なものは見たくない、嫌な言葉は聞きたくない、
口に含んで嫌なものは吐きだしてしまうのは、
すべて自己保存のために与えられた道具の働きによるのです。

ですから五官を通してものを見たり聞いたりしているということは、
「私は絶対に間違っていない」と思ってみましても、
すでに間違っているということです。
すでに自己保存と自我我欲という色眼鏡がかけられているわけで、
この自己を中心として見ることが煩悩になってくるのです。
  
煩悩から私たちがのがれる方法、
煩悩に振り回されないものの見方、聞き方、話し方とは、
常に自分という立場を離れて相手の立場に立って
物事を見聞きすることです。

奥様はご主人の立場に立ち、
ご主人は奥様の立場に立って常に相手の立場からものを
判断させていただくようにしますと、
自分から離れた見方ができます。

今日も熊本から来て頂いていますが、
この方はすでに十回以上内観といいますか、
内省の研修に参加なさったそうです。
しかしどうしても心が救われることなく、
つい落ち込んでしまうという苦しみを持っておられたそうですね。

一昨日の朝早く着かれて、一時間ほどお話のチャンスがありまして、
反省の方法についてお話させて頂きました。
それは相手の立場に立ってみるということですね。
これが今まで分からなかったと仰っていました。

相手の立場に立たないと、反省しましても絶対に救われないのです。
というのは自己を中心として反省しますと、
「自分が悪い、申し訳なかった、自分が至らなかった、悪い、悪い」と、
自分ばかりを責めるようになってくるからです。
自分自身の心が苦しくなりだんだん小さく委縮してきます。

その時、相手の方がどのような思いをなさったかと
相手の立場に立って反省させてもらい、
相手の方に迷惑をかけたのであれば、
その時迷惑をかけられた方がどのような思いをなさったか、
どのような思いで私という人間を見られたかと、
自分が相手の立場に立って自分を見るのです。
その時、できていない自分というものが見えてくるのですね。


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「御垂訓」

2019-08-21 00:31:27 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                   講演 三

「反省の心は己の魂が浄化されることを悟るべし」

反省しなかったら何時まで経っても自分の心は清まりません。
反省の方法には、
自分が生まれてから今日までを徹底して集中的に反省する方法と、
今日一日どうであったかを反省する方法があります。

今日一日の己自身の生活はどうであったか、行いの上で、
言葉の上で間違いを犯さなかったかという点を調べてみることです。
もし過ちがあれば「これは悪かった、どうぞお許し下さい。

明日の生活に再びこの過ちは犯さないようにいたします」と、
誓うことです。
それをしないと何時まで経っても過ちを繰り返してしまいます。
 
過ちを重ねてだんだん心の中が真っ黒になります。
真っ黒になると同時に重くなっていきます。
真っ黒であれば迷う以外にありません。
暗闇の中は迷いの世界です。
そして重くなればどこかへ落ちていきます。
落ちる先は地獄です。

地獄に落ちますと私たちの魂のふるさとにはなかなか帰れません。
この世では「人のふり見て我が身を直す」という教えを行うことが
できます。
他を見て自らを正すように仕組んでいただいております。
過ちがあればその人の過ち見て正させてもらい、
素晴らしいお方に学んでいくことができます。

しかしあの世に帰りますと、
すべて同じ段階の方ばかりの集まりですから、
比べるものがなく、悪い人は悪い人ばかりが集まっており、
またいい人はいい人ばかりという世界で、
自分と同じ段階の者ばかり寄り集まっていますから、
他と比べて自分を正すことができなくて、
それが当たり前となるのですね。

ですから肉体を頂いている今こそ、魂の修行をさせていただく最も大事な
一瞬一瞬として神から与えられていることを知りたいと思います。
過ぎた時は再び返りませんから、
「今」の一瞬一瞬を真剣に生きていきたいと思います。
長時間ご清聴いただきましてありがとうございました。



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「御垂訓」

2019-08-20 00:04:07 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                    講演 三

「その原因は煩悩なり 煩悩は 眼・耳・鼻・舌・身・意の六根が根元なり」

先の続き・・・

では、この悪魔から解放され、
悪魔に囚われない方法は何かというと、
まず自分という立場を離れて相手の立場に立って
自分と相手の出来事を観察してみることです。

次に相手の立場に立つだけでしたら、相手に片寄ますから、
今度は善意なる第三者の立場でどちらにも付かないで、
自分と相手の出来事を見るのです。

或いは、神様の立場に立って自分と相手を見ますと、
自分を離れた見方をすることができます。
自分の五官から離れるには相手の立場に立ち、
そして次に天の立場に立って二人を見ます。

するとどちらが無理を言っているか、
どちらが正しいかという答えが出てきます。
私たちには五官が与えられており、この五官に囚われた小さい己、
偽りの己が煩悩であり、煩悩とは、即ち悪魔です。

「六根の調和は常に中道を根本として己の正しい心に問うことなり」

私たちの肉体と心を調和するには、常に中道を根本とせよということで、
この中道とは、相手にも自分にも片寄らない善意なる第三者の目で見る
見方をすることです。

「己の正しい心に問うことは反省にして」

中道を根本として己の正し心に問うにはどうすればよいかというと、
自己反省をすることですね。

反省することによって片寄のない中道の生活ができるのです。
物事を正しく見る方法として「八正道」の中に八つの正しい生き方が
説かれています。
まず第一番に「正しく見なさい」と正見を説かれています。
見方が違いますと、思い方が間違うのです。
思い方が間違うと言葉が間違います。
言葉が間違いますと行い(仕事)が間違います。

このように八つの正しい生き方の内の根本になっておりますのが、
正しく見ることで、すべてはここから始まります。
それには常に反省を繰り返すことで、
反省なくして自己の心を知ることはできません。



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「御垂訓」

2019-08-19 00:03:55 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 ~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                   講演 三

「その原因は煩悩なり 煩悩は 眼・耳・鼻・舌・身・意の六根が根元なり」

先の続き・・・

あのヘレンケラーさんは見えない、話せない、聞こえない
という三十苦をのり越えて人々のために尽くされましたが、
ああいうお方は正に光の天使です。

「このような不自由な肉体を持っていても、
このようになれるのですよ」と、
その肉体をもって教えて下さっているのです。

しかしどんなにか不自由で大変なことだったかと思います。
見えないだけでも辛いし、聞こえないだけでも辛い、
またものが言えないだけでも辛いものですのに、
三つの苦しみを同時に持って生まれたお方もあるのですね。

もっともヘレンケラーの場合は途中で病気になって、
目・耳・口が不自由になられたのですが、
付いてくれた先生の愛によって、
世界的に有名なすばらしい「心の先生」になられました。
眼・耳・鼻・身・意を六根といいます。
この五官・六根がなぜ私たちに与えられているかといいますと、
それは自己保存の道具としてです。
早い話が口がなければご飯が食べられないから
生存が成り立たなくなりますし、
言葉が通じなかったら生きる上で具合が悪いです。

自分を生かすために与えられた道具がこの五官です。
そしてこの五官が「意識」を持っていて心の中へ
連絡してくれるのですね。
例えば前方から危ないものが来ましたらパッと避けたり、
横から音を鳴らしたら飛びのいたりします。

鼻は、良い匂いとか悪い臭いとかを嗅ぎ分ける道具ですが
これも肉体を守るためにものです。
この五官を通してものを見た場合は、
すべて自分を中心とする見方となってしまって、
それは全部間違っているということです。

つまり五官を通しますと自己保存と自我我欲という
色眼鏡が全部にかけられてしまうのです。
つまり五官を通しますと煩悩の悪魔が常に
全体を覆ってしまうのであり、
神が肉体という悪魔の装いをなさって人間として
現れておられるということです。
自己中心または利己的に見る思いこそ、
悪魔の正体といえます。



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「御垂訓」

2019-08-18 01:30:11 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

  ~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                  講演 三

「また、生老病死の苦しみを受け己の本性も忘れ去るものなり」

先の続き・・・

これを心の草引き、心の雑草の引き抜きとも言います。
いくら綺麗に耕し、草一本ない畑を作っても、
何カ月か放っておきますと、草はぼうぼうに生えています。

これから春夏にかけては、畑を一カ月も二カ月も放置しますと、
草引きが大変です。
根も大きくなり葉もはびこります。
これを双葉の間に少しずつ摘んでおけば楽に除草できます。

「心の雑草」とは怒りであり、妬みであり、愚痴であり、
恨み憎しみのことで、それが常に心から芽生えてきます。
「私はもう悟ったから、
いっさい雑草は出さない」と言う方はないのです。

だから、あの偉大なるお釈迦様にしましても
「常に草引きをしなさい」とおっしゃったのですね。
雑草を引き、そして適当な水をやり、
肥やしを与えて心を豊かにしていくことです。

心の灌漑、施肥とは、こういうお話を聞き、
話から得た知識を実践して智慧に変えることです。
素晴らしい実を成長させることです。

いくら綺麗に整地し、綺麗に耕し、そこへ良き種を播きましても、
雑草をそのまま放っておきますと、
たちまち種は雑草の勢いにやられてしまいます。
心の中の雑草は常に芽生えようとしますから、
日々に精進して抜き取ることが私たちの修行の一つです。

生きる限りこの雑草を避けることはできないのですから、
「私は悟った。そんな思いはいっさいない」というのは
真っ赤な偽りです。
そして次には、悟りの持続をすることに価値があります。

「その原因は煩悩なり 煩悩は 
眼・耳・鼻・舌・身・意の六根が根元なり」

自分自身、神との約束を忘れ去り、
神様のご意志に背いてこの世を去っていくのですが、
その原因として生老病死の苦しみと
この苦しみをつくる五官の煩悩があるのですね。

五官の煩悩といいますのは、
人間の持っている眼・耳・鼻・舌そして体です。
神様は上手に造って下さって、
私たちの魂の修行ができやすいようにこの五官を
与えて下さっているのです。

目について言えば、
もし目がなかったとしたらこれは便利が悪いことこの上ありません。
耳が聞こえなかったらこれも具合が悪いですね。
この世には身体に障害を受けたお方もおられますが、
ほんとうに不自由なことと思います。



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「御垂訓」

2019-08-17 00:52:05 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                   講演 三

「また、生老病死の苦しみを受け己の本性も忘れ去るものなり」

先の続き・・・

神の御心に背いた行為をした場合は、その方と神様との間において、
その方自身が自らを裁くようになっております。
世の中には「わしほど偉い者はない」という増上慢の人があります。

増上慢になりますと、急な坂道を登るのと同じで、
常に上がっていかないと止まったらコロコロと転げ落ちるように、
必ず下に落ちる宿命がついているのです。

それを知らないから、少し自分に何かができるとか、
人よりちょっと勝れているとかいう場合、
「わしは偉いんや」と偉ぶるのですが、それは肉体の悪魔の
仕業によるのです。
増上慢の反対は謙虚ですから、
謙虚は悪魔から自分を守る鎧ということができます。
謙虚であることによって増上慢という悪魔が入り込めなくなります。
        
お釈迦様は「ただ三つの実践をしなさい」と言われました。
「常に謙虚であること、礼儀正しくあること、柔和であること」の
三つをいつも実践していましたら、
どこへ行きましても人様から愛されるはずです。

たった三つでいいのですから、これなら誰にでも実践できます。
来月までにこの三つを是非実践していただきまして、
「私はしてきました」と言って手を挙げて下さい。
難しことは勉強してもなかなかできませんが、
こんなやさしいことでしたら誰にでもできるはずです。

私はいつも阿呆みたいに笑っておりますから、
「先生は腹の立つことはないのですか」とよく聞かれます。
「いやいや、私も肉体を頂いた普通の人間です。
都合の悪い時には腹が立ってきます。

しかし一時も早く捨ててしまうように努力しているだけです」。
腹立つ心をいつまでも持っていないことです。
持っておれば苦しみの時間が長いのです。

最初は腹の立つのを止めるのに何日も必要でしたが、
訓練しておりますとだんだん短い時間で止められるようになり、
最初三日かかったものが一日ぐらいで
「ああ、腹を立ててもしょうがない」と、捨てるようになりました。

それを積み重ねますと、一時間ぐらいで思い変えができるようになり、
もっと上手になりますと、一瞬の内に捨ててしまいます。
そうすると苦しみは自分の心に入ってきません。
これもやはり練習で、何事も練習しないと上手にはなりません。
肉体を頂いている限り都合が悪ければ必ず嫌だと思うもので、
これは避けられません。

勿論、お釈迦様もイエス様も都合の悪い時は嫌な思いをなさったと思います。
しかし早く捨てられたから悟りの持続ができたのです。
法を実践することによって、
いかに早くその苦しみや嫌なものを心から捨て去ることができるかを
身につけていきます。



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「御垂訓」

2019-08-16 00:12:30 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                  講演 三

「また、生老病死の苦しみを受け己の本性も忘れ去るものなり」

先の続き・・・

太陽の熱・光は、現象界での社会的地位の高い方も低い方も、
お金持ちの方も貧しい方も、病気の方も健康な方も、
すべて平等に与えていただいています。

神の慈愛とはこのようなものですから、
私たちも人を差別することがあれば、
もう神の心に背いたことになります。
どなた、こなたに関係なく平等の思いを持って他を差別することなく接し、
すべての方を愛すべきです。
 
また、あの太陽の熱・光を頂き、
その光の中にありながら悪を犯す人はいっぱいあります。
私たちもそうでした。

しかし未だかつて太陽から裁きを受けた方は一人もおりません。
「お前は悪いことをしたから罰を当ててやろう」とか、
「あなたは善いことをしたから熱と光をたくさん上げましょう」とか
そんな差別はいっさいありません。

神様の慈愛もこのようなものです。
私たちがどのような過ちを犯そうが悪いことをしようが、
ほんとうの神様はただ「目覚めなさい。気付きなさい。
そして幸せになりなさい」という慈愛を垂れ給います。

人を裁くということは、神のご意志に背いているのですね。
神のご意志に背くことは自然の法則に背くことです。
そして自然の法則に背いた時、神が私たちを罰せられるのではなくて、
自分で自分を裁くのです。

これは自然の掟であり、そして神の御心です。
もし人が過ちを犯しても、それを私たちが裁く必要はありません。
それは過ちを犯した人と神様との関係です。



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「御垂訓」

2019-08-15 03:41:22 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                     講演 三

「また、生老病死の苦しみを受け己の本性も忘れ去るものなり」

先の続き・・・

ある宗教では、「病気は本来ないものである」と教えています。
本来ないのではなくて、「神の中には病はない」ということです。
そして神は私たちの中にいて下さるということを知るだけでいいのです。
そのことを強く理解したらいいのです。

その時、この世から病は消え去っていきます。
消えて当然ですから皆様が一人一人「ああ、なるほどそうか」と、
掴んでいただきましたら、
私はしんどい目をして病気治療をしなくてもいいのです。
私の代わりに各自自分で治していただけるようになるのですから。
これがほんとうの神様で、
厳しい行をしなくても誰でも幸せになれる法です。

護摩を焚かなくても、滝に打たれなくてもいい、
ただ神理を知って日々の生活に自分が行えば
そのようになっていきます。

もし、護摩を焚いて自分の持っている悪いカルマが
燃えてしまうものであれば、
自分の持っている良いものまでも共に燃えてしまうはずですね。

また滝に打たれて自分の悪因縁が流れるものであれば、
悪因縁も流れる代わり良い因縁も流れてしまいます。
そのようなことよりも、毎回私のテープを聞いておられる方は
すでに耳にたこができていると思いますが、日々の生活において、
高橋信次先生の「神を知りたければ、あの太陽を見なさい」と
言われました教えをしっかりと実践して下さい。

太陽は自らの身を燃え上がらせ、自らの身を犠牲にして、
その結果として現れる熱と光、この熱と光こそ神の慈悲と愛であり、
これを他に与え給います。

太陽は正に神の御姿であり、
私たちがいかに生きるべきかを教えて下さっております。
私たちは自分を犠牲にして、
その行動を通して人々に喜びを与えることです。

まず家庭の中においてイエス様の「汝の隣人を愛せよ」を、
実践することですね。
自分の時間を犠牲にして、自らの命を燃焼させ、
自分のエネルギーを燃え上がらせて、
その行動によって隣人に愛を注ぐことです。
その時、どこへ行きましても、自分の隣人から愛されます。


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