浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

恩師の歌集「愛」より

父母に大恩受けし我なるに
報いきれなき我が身悲しも

「講演集」より。

2015-06-30 00:23:52 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

           恩師のご著書「講演集」より


              講演集、三


         天上界からの無限のパワー


しかし、こうしてお話させていただきますと、
よくまあ、あいつは話ができるものだなと言われるぐらい、
話はとめどなく出てきます。
或る先生と言われる方のテープを聞くと、十分間で終わっていたり、
片面しか入っていなかったりするので、そのことについてHさんが、
「なぜこんなになっているのですか」と質問されますと、
「天上界のエネルギーが切れたら、ここでお話が無くなる」と言われたそうです。

この前、静岡に寄せてもらいました時は、昼間に着いて夜まで喋らせてもらい、
夜もまた喋らせてもらい、翌朝にはまた喋る、そしてお昼からここ浄心庵での
お話会でした。
いくら天上界のパワーを頂くといっても、これだけ喋ったら、
私の話のネタは無いようになります。
連続で四回お喋りをいたしました。

しかし、お話会では皆さんに涙を流して喜んでいただきました。
東京に帰る新幹線の中で、「それにしてもよう泣いたね」と、
言い合って帰られたそうです。
泣いたあとがとても嬉しいのですね。
心が軽くなるのです。
それは、法の雨によって心の曇りが流されるからです。


              ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-06-29 00:36:54 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

          恩師のご著書「講演集」より


              講演集、三


         学歴、肩書、理論は一切不要


この話をさせてもらいますと、或る方から、
「これは大学の偉い先生が訳されたの全く同じだった」と聞かせてもらいました。
又、聖者のお話について、クリスチャンの或るお医者さんが、
先月の私のテープを聞いて、「どんな神学校の先生も、あれだけ感動深いお話は
できません」とおっしゃったのです。
神学校の教授だそうです。

それで、私はそのお医者さんに、
「イエス様はどこの神学校を出られましたか」と言いました。
イエス様は神学校を出ておられません。
仏教の猊下大僧正(げいかだいそうじょう)というお方はこの世の学校を出ておられます。
しかしどんな偉い坊さんでも、亡くなられた方を即、成仏させる力をもった
お坊さんにはあまりお目にかかったことはありません。
中にはあると思いますが、私のような凡夫でも、そんなことは簡単にさせて
いただきます。

なぜそういうことができるのか――。
その現象を目の当たりに見ていただいた方は、こう言って下さいます。
「先生はあの世の大僧正ですね」と。
実在界の大僧正。
現象の世界では織屋のおっさん。
そして今は按摩さんです。
下手で痛くて値が高くてという私の按摩です。
しかし、そんなものは関係ありません。

心からの愛と慈悲をもって行為に移った時、
神はその御業をその者を通してお示しになります。
何も考えなくてよい、「ただ幸せになってほしい、健康になってほしい、
苦しい方は救われてほしい」その思いだけでいいのです。
私はそれだけしか思いません。
難しい理論は何も知りません。
あまり忙し過ぎて勉強する間もなく、
本を読ませてもいただけません。


              ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-06-28 00:50:22 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


             講演集、三


           「能除一切苦」


とても心が楽です。
生活態度がとても楽になります。
私は高橋信次先生に教えてもらった「般若心経」の、もっと奥を分かり易く
教えてもらいまして、「ああ、なるほど、そのように思わせてもらったら、
苦しみは何もないのだ、こんなものはみな感じているだけだ」と思わせて
もらえましたね。
「色は即ちこれ空なり、空は即ちこれ色なり」「色は空に異ならず、空は色に
異ならず」です。

私は幼い頃からよく父から、夜、度胸だめしのように使いに遣らされました。
田んぼの一本道の途中のお宮さんの麓に一本松があって、ここに狸が出て、
道行く人を化かすと聞かされましてね、そこを通っていくのが怖いのです。
「般若心経」なんてよくは知りませんが、
「ギャアティ、ギャアティ・・・」と、大声で怒鳴りながらその狸の出る所を
通っていったことを思い出します。

「ギャアティ」ではなくて、
「ガテーガテー、パラガテー、パラサンガテー、ボーリスバハー」というのが、
ほんとうのインドのことばです。
「この言葉の中にこれ以上の呪文(真言)はない、これと比べるものはない、
これは最高の真言――まことの言葉である」と説かれています。

その真言は、言語のままに語ってこそ、威力を発揮します。
外国の言葉に代わったものは威力がないから、あれは訳さずにそのまま最後の
ところを「スバハー」と、「ハー」と息を吐くところがいいのです。
どこやらの偉い坊さんがどのように言うたとか、龍樹菩薩がこのように言うたとか、
あんなことは必要ありません。

人が言われなくとも、自分が言えばいいのです。
内在された智慧がすべて教えてくれます。
しかし仏教学者は別です。
言葉や時代や人名などをくわしく書いていただくのが仕事ですから。
ほんとうは、このようにお釈迦様がお説きになったというのを、
なぜ教えてもらえるのかというと、
私たちは過去にみな学んだ体験があるから分かるのです。
自らの体験によって自らに内在された智慧に到達した時、
その智慧が湯現して分かるのです。



               ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-06-27 00:05:51 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      恩師のご著書「講演集」より


          講演集、三


     「三世諸仏、依般若波羅蜜多故」


先の続き・・・ 

私たちが腹の立つことを言われたり、
ド突かれたりした時はショックですし、
いやなものを食べた時には嫌だと思うのは、
そのように感じているだけで、
「般若心経」に説かれた
「実体がないからこそ、形として現れている、
形として現れているからこそ、実体が無いのである」
ということを悟ったならば、
何を言われても、嫌なことが起きても、
「ああ、ほんとうは、こんなものは
実体が無いのだ」と悟ったら、
一切の苦しみを能く除くことができます。


        ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-06-26 00:10:16 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

           恩師のご著書「講演集」より


              講演集、三


          「行深般若波羅蜜多時」


先の続き・・・

そして、その実体の無いものに、私たちは振り回されていたのです。
また、この見方からしますと、
「是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減、是故空中無色・・・
無老死・・・」病気をすることも無いはずです。

不老不死、年老いることも、死ぬことも無いと、
ちゃんと「般若心経」の中に分かり易く書いていただいているのですね。
私たちの肉体もそうです。

オギャーと生んで頂いて五十年、百年の間には、全部消える存在です。
私はここに在りますと言っても、いつの日か必ず消滅します。
なぜ消えなくてはならないかというと、それは実体が無いから消えて当然
のことなのです。

ただ形として現象として現れただけの世界で、かげろうのようなものです。
現れては消え、現れては消えしている水の泡のような存在がこの世の実相です。
「般若心経」はそのことを「三世諸仏、依般若波羅蜜多故」
過去、現在、未来の諸仏は、このことを悟っておられると、語っています。
難しことは書いておりません。


              ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-06-25 00:58:44 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

            恩師のご著書「講演集」より


              講演集、三


          「行深般若波羅蜜多時」


先の続き・・・

ここに在る食べ物は、形として現れた物質で、
「これはほんとうは無いのです」と言いますと、
「いや、そこに在る」と言います。
在るから実在していると、私たちは思っていました。
そこに間違いがあったのです。

「では頂きましょう」と言って、私が食べたら、
忽ちにしてこの世から消える存在です。
実体が無いから消えるのです。
お茶もそうです。

飲めば、実体が無いから消えて当たり前、
形として現れているから消えるのです。
消えたけど、尻から又同じものが出てきたというのでしたら、
これは実体です。

しかし、この世に実在はしません。
なぜかというと、実体が無いから実在しないのです。
「般若心経」には、それが説かれております。
そして私たちが触れたり、見たり、聞いたりしていることも、
ほんとうにはただ現れているだけで、
実体が無かったのです。


            ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-06-24 00:19:54 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


             講演集、三


         「行深般若波羅蜜多時」


そして智慧に到達する行いを日々深く実践した時、
「照見五蘊皆空度」
色、受、想、行、識の五つの人間の構成要素は皆、空である。
この「空」というのは、高橋信次先生は、形のない世界、
目に見えない世界と説かれました。

これは実体が無いということで、それを見通されたのです。
五蘊に囚われた時、それは「一切苦厄」すべて苦しみである。
災難の元であると、説かれたのです。
そして「般若心経」の中で最も大事なことは、「色不異空、空不異色、
色即是空、空即是色」です。

「色は即ちこれ空なり、空は即これ色なり」の「色」とは目に見えるこの
世界、「空」とは目に見えない世界です。
つまり「実在界はこれ即ち現象世界である。
現象の世界はこれ即ちあの世界であり、あの世は即ちこの世である」と、
説かれています。

ほんとうの言葉の上から見ますと、物質化現象として現れたものが「色」で、
実体のないものが「空」です。
「この世に現れたすべてものは実体がないのである。
物質化現象と化しているからこそ、実体が無いのであって、
実体が無いからこそ、物質化現象として現れているのである」


             ~ 感謝・合掌 ~


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「講演集」より。

2015-06-23 00:52:32 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        恩師のご著書「講演集」より


            講演集、三


          「観自在菩薩」


心で観ることの自由自在、これは、私たちが努力すれば誰でもできます。
どんな人を見ても、その人のすばらしい面も、すばらしくない面も、
すべて見通す力を常に修練して、身につけることが説かれています。
高橋信次先生の「原説般若心経」では、現在、過去、未来のすべてを見通す
能力をもった方と説かれています。

これは、私たちにはなれません。
なれる方はごく限られたお方ですが、しかし見ることの自由自在は、
私たちの誰にでもできるはずです。
お釈迦様は、私たちにできないようなことはお説きになっておられません。
私たちにも、なれる教えをお説きになっていられます。


             ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-06-22 00:09:52 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        恩師のご著書「講演集」より


            講演集、三


        「般若心経」の深い教え


或る方が書かれた「般若心経」の説明には、
「どこの誰がどう言った、
どこそこの誰はこんなふうに説明している」と、
そんなことばかりが書いてあります。
結局、何を言っているのか分からないと、
先日これを読まれた方がおっしゃっていました。

お釈迦様の第一の弟子と称する方が、
「私の説いた般若心経は、後にも先にも説く者は無い」と言って、
「般若心経」を書かれたのですが、お釈迦様の
第一のお弟子が、そんな分からないものを書くはずがありません。
まあ、皆様も「般若心経」については、いやというほど聞いていられると
思いますが、「摩訶般若波羅蜜多心経」
これは、私たちの心の奥底に内在する偉大な智慧に到達する心の教え、
ということですね。

恐ろしい般若と、智慧という意味の般若とが、全く同じ漢字です。
「波羅蜜多」は到達する、東京から岸和田へ到達してもらった、
或いは九州からここへ、この場所(無智)から
あの場所(智慧)へ到達する心の教えが説かれています。


           ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2015-06-21 00:04:26 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


             講演集、三


        この世における償いの法則三つ


先の続き・・・

次に、折あるごとに、「法の話を聴く」ことです。
正しい教えを常に聴いて、行いに移していく、
これが心を清くしていくことになります。
それと、「自己反省を常に行う」ことです。
それによって、いつの日かまた透明な綺麗な心に変わります。
透明な心になりました時、あの幼な子が神の光を見ましたように、
私たちもまた見ることができるようになります。

そして、神のみ胸の中に自らが抱かれていることを知ります。
イエスは常に「我、神と共にあり、神、我と共にあり」と言われました。
それは、イエス様だけでなく、私たち皆が神と共にあるのです。
それを自覚することです。
善き行いによって、それを知ることができます。
ご奉仕によってそれを体得することができるのです。
神と共にある自覚は、理論によっては、できません。
愛の実践によってのみ自覚されます。


             ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2015-06-20 00:19:55 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


             講演集、三


        この世における償いの法則三つ


しかし、この世には償いの法則というのがあるのですね。
犯した罪は自分が償わなければなりません。
まず、その罪の消滅のために、「善行を積むこと」です。
亡くなった方は意識の世界ですから、悔い改めれば許されます。
しかし、この世に生きて肉体をもっておれば、過ちを認めた時、
これを悔い改め、そして償いの善き行いを積むことによって贖罪することができます。

中国の方は、それを短い言葉で「止悪作善」と言って、
悪をとどめて善を積みなさいとお説きなっています。
私たちはあのAさんの幼な子のように、綺麗な心で生まれてきたのです。
神が私を通して現わされるその光を、あの幼な子が見ておられるのです。
だから礼拝をされます。

それが成長するにつれて心を暗くしていきます。
怒り、憎しみ、不安、増上慢によって、やがて心を真っ黒にしていきます。
ではどうしたら、この真っ黒になった私たちの心をまた元のあの幼な子の心に
戻せるかです。
まず怒り、憎しみ、妬み、愚痴、恨みを止めることです。
即、断つことです。
それに代わって、今度は善い行いを積み重ねていくと、いつの間にか清らかな
心に戻るはずです。
これが善き行いによる償いの行為です。


             ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-06-19 00:24:31 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


             講演集、三


          先祖供養の窮極の目的


先の続き・・・

「もし、お仏壇の中に意識を持っておられるご先祖様がおられましたら、
私の申し上げることをよく聞いて下さい。
仏壇の中に思いを残しては、成仏ができないのです。
あの世とこの世とは、世界が違います。
私たちは、この世を去れば、ほんとうの心のふるさとに帰ります。
仏教では極楽と申しております。
キリスト教では天国と申しています。

その世界に帰ってこそ、ほんとうの成仏ができるのです。
ですから、この地上から一切の思いを離して下さい。
この地上において生活された五十年、百年の間をよく振り返ってみて下さい。
私たちは、この肉体の故に、或る時は腹も立てました。
又、愚痴、恨み、憎しみを持ちました。
そのような時、皆様の心は如何だったでしょう、苦しくはなかったですか」と、
聞いてみるのです。

苦しいのは当たり前ですね。
「その苦しみこそ心の錘となって、
その為に光の世界へあがることができないのです。
ですから、よく自分の人生を振り返って、自分の行いを反省し、心の苦しみを
作った原因があれば、まことの神にお詫びしなさい。
その時、必ず心は安らぎます。

心が軽くなります」といって、話をさせてもらいますと、
皆さんが自分の人生を振り返ってくれますね。
「自分の心を苦しめたことによって、天にあがることができないことを知って
下さい」と話をさせてもらって、三分から五分経ちますと、仏壇がパァーと
光り輝いてきます。

仏壇に触れもしないのに光り輝いてくるのはなぜかと言うと、その仏壇の
中におられた諸霊が、極楽へ行って下さったからです。
そう思います。
即、変わります。
長い時間は要りません。
心から悔い改めた時、私たちのどのような罪も過ちも許されます。


             ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-06-18 00:52:06 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      恩師のご著書「講演集」より


         講演集、三


       先祖供養の窮極の目的


先の続き・・・

その証拠に、こういう例があります。
或る宗教を信仰される方が、
拝めば拝むほどご利益があるのだと言って、
いっぱいの霊を集めて拝んでいたのです。
その場所が狭いお宅だったらしくて、
箪笥の上に祀ってあったのですね。

南無妙法蓮華経と一年ほどやっておられて、
夜、その人が休まれてうとうとしていると、
その霊が箪笥の上からドスンと飛び下り、
ミッシミッシと歩いてきて、ガッつと体を押さえます。
その方は金縛りになって、もう動けないようになるのです。
これはえらいことだと思って、さらに一生懸命拝みますと、
又、晩になると出てきます。

そういうことがずうっと続きました。
それで、「拝むのをやめなさい、止めてみなさい、
そしたら、それが無くなるでしょう」と言いまして、
その人が拝むのを止めますと、
その晩から下りてこないようになりました。
一生懸命拝んで霊を呼んでいるのです。
そして自分が押さえつけられています。

こんな結果がなぜ出るかと言いますと、
成仏されていない証拠なのです。
私はどこかへ行って、
お仏壇にお参りさせてもらいましても、
まあ三分から五分の時間です。


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「講演集」より。

2015-06-17 00:36:57 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


             講演集、三


         先祖供養の窮極の目的


さまざまの宗教は、先祖供養を主としてやっているのが多いですね。
この先祖供養の窮極の目的は何か―――。或る宗教では、六親眷族の中の
一人でも多くの死んだ人を寄せ集めてきて拝んだら、功徳があると言って、
それに戒名をつけてもらって、もう何百体という親戚縁者の死んだ人を集めて、
一生懸命に拝んでいます。

これは、もし悟っておられる方であれば、戒名を付けようが、
名前を呼ぼうが、あの狭い仏壇の中には来られません。
悟ったお方はもう自由なのですから、もしも、そういうものに救いを求めて
こられる諸霊があれば、これは成仏のできていない未成仏霊ばかりです。
そういう方をいっぱい自分の家の仏壇にお招きしますと、必ず良い結果が
出ません。

先祖供養の窮極の目的は、この現象の世界から思いを離して、
ほんとうのふるさとへ帰っていただくことです。
天上の世界ですね。
それ以外に、先祖供養はないと思います。
一般の先祖供養をなさっている古い宗教、或いは新しい宗教がありますけど、
それは窮極の目的を知らないで手段をとっているだけです。

例えば、物を供える、お経をあげる、或いは線香、ロウソクを供えるのですが、
こんなものでは成仏できないのです。
成仏どころか、「ここにおれば安心だ、ここにおれば、お経も線香も供えてくれる、
ああ長いこと放ったらかしにされていたけど、ここにいたら安心だ」と言って、
却って霊をその場所に留めてしまって、成仏できない結果になります。
執着を与えるのです。


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「講演集」より。

2015-06-16 03:43:26 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

          恩師のご著書「講演集」より


               講演集、三


        先祖供養はまず己が成仏すること


先の続き・・・

私たちの子供は「病気で苦しい」とか、「貧乏だから叶わん」とか、
「お金を下さい」とか、「喧嘩ばかりして悲しい」とか、言ってきたとしたら、
親の立場としてどんなに苦しいか分かりません。
代われるものなら代わってやりたいと思いますが、肉体をもっていても、
代わってやることはできません。
死んだら、今度は急に力が出るのかと言うと、それは出ません。
親が子を思うように、先祖様も私たちを思って下さいます。
可愛い、いとしいその血縁の者が、嘆き苦しむのを喜ぶご先祖様はどこにも
ありません。

ましてや、罰を当てるご先祖などがあったら堪りません。
ご先祖様が祟ったとかいいますが、そんなことはあるはずがないのです。
しかし、ご先祖様が迷っておられますと、苦しい故にその苦しみを訴えて
こられる場合があります。
もし、頭痛、腹痛で、それを肉体の苦しみということを悟ることができない方は、
あの世へ行っても苦しんでおられますね。
そういう方がもし苦しみを訴えてこられた時、肉体を持った自分の可愛い子供に、
同じように現れる場合があります。
だから、罰を当てておられるのとは違って、救いを求めておられるのです。
そこを誤解してはいけません。


             ~ 感謝・合掌 ~



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