恩師のご著書「講演集」より
講演集、 三
人を救う実践は「光」である
先の続き・・・
大きなお寺の法要などで、
花を散らすと書く「散華」というのをしますね。
印刷した蓮の花びらを散らすのです。
それをみな、有難いといってもらってくるのです。
なぜ、ああいうことが仏教に伝わっているかと言いますと、
蓮の花は、お釈迦様が常にたとえとしてお説法下さった花です。
泥池と蓮の花、あの泥池は誰が見ても汚いです。
しかし、あの水面に咲く花は泥の汚れを何一つ受けていません。
清らかな花が咲いています。
「私たちの肉体は正に泥沼と同じものである」と、
信次先生もよくおっしゃいましたね。
「目から目くそ、鼻から鼻くそ、歯から歯くそ、耳から耳くそ、
そして下からは大きな糞或いは小便、膚(はだ)からは汗や垢、
どれ一つとして清らかなものはありません。
譬えてみれば、肉体は、不浄なものを詰め込んだ皮袋であり、
浄なるものは何一つなし」このようにおっしゃったのです。
不浄なものばかり出て来る、
その不浄なものを詰め込んだ皮袋のような肉体に、
私たちは捉われるのですね。
顔を綺麗にお化粧して磨いているけれど、
中を開けたら不浄なものばかりです。
なるほど、そう考えてみますと、
まともなものは出てきませんね。