こだわりメモ帳

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・ 廃仏毀釈その後

2008年07月10日 | ◆ メモ

民俗学博物館 黒檀梟 retouch


 なぜ廃仏したか、確たる定まった解釈にまだたどれていない。
その前に、なぜ神仏習合なのか。
この間、目を通した図書館の本の抜粋を整理する。

■ 長州は関門海峡を通過する外国船を無差別砲撃する馬関攘夷戦争勃発(文久三年 1863)、
  同年、鹿児島湾で英国艦隊が砲撃する薩英戦争勃発、それぞれに攘夷すれど共に完敗。

■ 明治新政府の外交の最大課題は、関税自主権のない、治外法権を承認する不平等条約改正であり、
  近代天皇制強化のため、陵墓の完備と国家神道のための神仏分離を実施した。・・・1

■ 津和野藩の「福羽美静」は、幕末乱世の渦中で藩主の皇室への忠誠を翼賛、王政復古後神祇官として
  御用をし皇室系図を完成させる。明治政府の文教政策に鞏固な皇道精神を扶植した。・・・2

■ 明治新政府の指導層は、社会活動に新しい定義を作るためそれまでの社会的形態を故意に破壊した。
  孝明天皇の神葬祭に際し、「穢れ」を扱えないとする神道教義で、『天皇は現世でも幽界でも現人神』であり、
  穢れなどありえない、と神祇事務局は解釈し神葬祭をかわした。・・・3

■ 明治天皇は、「朕が一生の心残りは即位式を仏教の法に拠らなかったこと」と崩御のとき仰られている。
  天智・天武・持続・~・宇多・醍醐・村上天皇他天皇はみな仏教徒であった。
  聖武天皇が大仏建立、東大寺を建立したとき宇佐八幡が協力し、境内に手向山八幡が鎮座した。
  家ごとの仏壇は、天武天皇の勅令から始まる(685年)。一方、神棚は明治になってから始まった。・・・4

■ 2002.10.5に行われた大仏開眼1250年大法会に宇佐神宮の神輿、関係者が参加した。・・・5

■・神仏分離令により、なぜ興福寺が一山挙げて「還俗」を謀り、寺領約一千石の内山永久寺が廃寺となったか。
 ・ 日本の神々(神祇)が存在せずとも仏教は世界的な普遍宗教として存在しえるが、
   「神仏習合」は神祇抜きには存在しえなかった。
   「日本の神仏習合は普遍宗教と基層振興が完全に開かれた系で繋がっていて、
   世界的にも独特な宗教構造をつくり出した」からこそ神仏分離・廃仏毀釈もありえた。
 ・ 「神仏習合」の時代、神祇と仏・菩薩、社と寺はかなり明瞭に区別・認識されていた。
 ・ 維新政府の神祇事務局亀井茲監(津和野藩主)が神仏分離政策の最高責任者ともいえる。
 ・ 伊勢神宮の東京遷座がM4年に建議されたがM7年には終熄した。
 ・ 政教分離論により、神祇官が活躍した教部省がM8年に廃止された。・・・6


     1・・・山岳信仰と考古学/山の考古学研究会編/同成社
     2・・・近代文学研究叢書/昭和女子大学近代文学研究室著/
     3・・・邪教/殉教の世界 廃仏毀釈と近代仏教/ジェームス・E.ケテラー著/ぺりかん社
     4・・・廃仏毀釈百年/虐げられた仏たち/佐伯恵達著/鉱脈社
     5・・・八万神とはなにか/飯沼賢司著/角川選書
     6・・・近世近代神道論考/阪本是丸著/弘文堂
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