こだわりメモ帳

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・ 廃仏毀釈 神仏習合

2008年07月17日 | ◆ メモ

民俗学博物館 黒檀梟 retouch

 廃仏毀釈の仕掛屋を探す興味はつづいている。
然り乍ら、どれを読んでもどこにも明治維新のリーダーの顔は出てこない。
津和野藩主亀井茲監と配下の福羽美静らが自藩でやってきた神仏分離を発展させたようである。
神仏分離にあわせ、神仏習合はどうなっていたのかと疑問はふえる。
いつしか、神と仏の歴史をめぐる遥かな旅に出たようなもので、
その旅の途中、空海の姿も出てきて、司馬さんの『空海の風景』がまだ入口のままを思い出す。
暑くて外に出れない昨今、この機会に長編を読みに入ることになるのかも。


五来 重著 『山の宗教』/角川ソフィア文庫 (最近タイミングよく復刻新刊が出た)によれば、
■ 山岳信仰は死者の霊を祀るもので、山の神はその霊を法華経や密教で清めてくれる。
石鎚山の古寺旧跡から飛鳥白鳳時代の瓦が出て、山岳信仰は奈良時代以前の出現を証している。
■ 奈良時代、山の神を祀るのに山伏が仏教のお経で祀ることが仕事であった。
これが神仏習合の実態で、山伏たちがそれに関与していた。
■ 江戸時代、神社は別当(僧侶)が優越していて、経済的にも別当か神宮寺が握っていた。しかし、
中世の中ごろから伊勢神道が出来し吉田神道となり仏教は地位を落とし、維新の廃仏棄却にすすむ。とある。


義江彰夫著『神仏習合』/岩波新書 によれば、
   (この本では、王権~朝廷~地方豪族~民衆へとつづく仏教の浸透が読め面白い。)
■ 神仏習合は、普遍宗教と基層信仰の結合の一形態である。
奈良時代後期古文書 『多度神宮寺伽藍縁起資財帳』 788年 ヨリ・・・神は仏になろうとしていた事がうかがえる。
   【我れは多度の神なり。吾れ久劫・きゅうごう(長い時間)を経て、重き罪業をなし、神道の報いを受く。
   いま、冀(こいねがわく)ば永く神の身を離れんがため、三宝(仏教)に帰依せんと欲す。】
仏教側はこれを受け、満願禅師が多度神社の南に菩薩形の神像を安置、多度神宮寺が生まれた。
 (他にも例えば東大寺に手向山八幡宮があり、坂本日吉大社は延暦寺の守護神)
■ 他国に類例を見ないことは、普遍宗教としての仏教と基層信仰としての神祇信仰が、
各々の信仰と教理を維持したまま開かれた系で結ばれたことである。
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