鼻節神社/七ヶ浜
以前にUP済みですが、再度七ヶ浜町史・塩釜市史・鹽竈神社・etc・・・などの資料から抜粋して記したいと思います。文面が重なりますがご了承ください。
古い文体で読みづらくまた、記録として書きましたので文章が長いです。ご了承ください。
まずは、鹽竈神社にチョット触れさせていただきます。
創設の時期については古来多くの説があり明確にするのは困難です。
古代の鹽竈神社及び塩竈の項で、陸奥の開発と神社から・・・
原住民たる所謂蝦夷も夫々その集団によって、崇拝の中心となっていたをもっていたと思われる。
「日本書紀」斉明天皇五年正月の阿倍比羅夫征伐の條に「卽似三船一隻與二五色綵帛一、祭二彼地一」とあるが、この地神というのが蝦夷の崇拝していた神である。
つまり、今は大和政権側が崇拝する神であるが、元々は蝦夷が崇拝していたである。
ということになる。それが「アラハバキ」とは言わないがそのような神であったことがわかる。
私のHPの「鹽竈神社」(しおがま様の不思議)に記載済みであるが、再度ここに記しておきたいのは、現在の鹽竈神社の祭神は、元禄六年(1693)仙台藩四代藩主の伊達綱村が各地の神社の祭神を調べさせ、縁起と祭神を決めたものです。
そのため、他のさまざまな祭神説は否定される結果になりました。
鹽竈神を經津主・武甕槌とみるようになってから、鹿島・香取の神が今迄蝦夷討伐にもっていた地位が、鹽竈神社に移って来たと思われる。
經津主・武甕槌は、鹽土翁が岐神であるから、両の教導の神という型で結びついたのである。
猿田彦即ち岐神と考えられた鼻節神社、岐神とされた志波彦神社、伊弉諾・伊弉冉神を祭神とした多賀神社等のこの地方の式内社が、それぞれ鹽竈神社の元の神であり、鹽竈神社がそこから移って来たというそれぞれの伝説をもっていることも、かかる鹽竈神社の性格と他の神社に比してこの神が勢威をもって来たことによるものであろう。
つまり、鹽竈神社の成り立ちにも、この鼻節神社が大きく関わっているようですね。
式内社は、古代ルート沿いに点在しているのは、東国開拓の歴史に関係があると推察できる。
陸奥国府のある多賀城は宮城郡に属しますが、この郡の式内社は・・・・
宮城郡四座 大社二座・小社二座
伊豆佐売神社 志波彦神社名神大社 鼻節神社名神大社 多賀神社 である。
鼻節神社の位置
塩釜港より南に突き出た七ヶ浜半島先端にある花淵浜明神崎で、高さ三十メートルほどの高さにあり、陸側から見れば小高い丘の上で海から見れば崖の上にある。
社殿のある崖の下には太平洋が広がり、打ち寄せる波の音を聞いていると、いにしえからの時間を感じます。
海側(表参道)からは、この細い道を渡ります。
石垣で組まれている道です。
本来の表参道は海からようです。舟で上陸したのが初めてとも言われています。
表参道の鳥居はこの「三角扁額」のついている鳥居です。
この「三角扁額」については個人的に調査しているもので、現在宮城県のみに見られるようですが、決定的な意味はまだ不明です。HPの「狛犬と神社仏閣」からその神社を見ることができます。
階段の石に割れが見えますが、東日本大震災の以前はありませんでした。
祭神は、岐神である猿田彦大神で、鼻節の神名は猿田彦大神の鼻が高く、鼻峰に節があったのによるという。
この理由については、同様の記述が『鹽社由来追考』・『鹽竈社神籍』・『鹽竈神社社誌』にも見られるからのようです。
花淵崎、東海上7キロほどの海中に東根、西根と呼ばれる大岩礁があり、ここに大根明神が祀られ、干潮の時には海底に石造の社殿、鳥居が見えると言われる。
この辺の海潮はつねに逆巻きで眼下には海藻が波間にゆれている。
鼻節神社の境内に東根明神、西根明神を祀る石の祠があり、祭礼の時にはこの大根の岩礁より採取された「アワビ」が神饌として献ぜられ、末社として扱われている。
※詳しくは記事の最後にあります。
当社は海上安全、航路の守り神として信仰され、仁明天皇の承和十一(844)年に従五位下を授けられ、塩竈の津に入る者には灯台の役割をしたのである。
鼻節神社の創建
鼻節神社は、第六代考安天皇の御代(前392~前291)に、岐(ふなどのかみ)として猿田彦命を花淵浜吼坊ヶ崎に勧請して、神社を創建した。
古記録によると(『日本総国風土記』・『大日本史』・『鹽竈神社略史』)によると、「第三十四代舒明天皇の二年(630)鼻節神社に始めて※圭田四十三束を奉り祭事を行う」とある。
※圭田(けいでん:それでまつりをせよと天子から神社にたまわる田)
また、「舒明天皇の御代は、三韓征伐の鴻業もすでに終わりを告げたり。されば先帝の遺業を継承し東夷を鎮撫し給はんと、よりて国土の経営に霊顕著しき神社に奉幣使を派遣し給う。」とあるように、この御代には全国的にを祭り、神階などが授けられている。
その例として、宮城郡内では「舒明天皇三年(631)七月、陸奥国宮城郡松島八幡神社に、同四年(632)七月、陸奥国宮城郡鹽竈神社に勅使下向、武運長久を祈らせ給ひたり。」と、『類聚国史』に見え、また、「第五十四代仁明天皇承和十一年(844)秋八月丁酉(ひのととり)←丁酉とあるがこの年は甲子きのえね、陸奥国無位勲九等刈田峰神社、無位鼻節神社に従五位下を授け奉る。 霊顕有るによって也」とある。
『延喜式神名帳』
第六十代醍醐天皇の延喜五年(905)に、全国の官社3,132座を列記し、官社帳ともいうべき『延喜式神名帳』が作られた。 それに列する神社は式内社と呼ばれ、社格を権威づけるものとなっている。
陸奥国百座(大社十五座、小社八十五座」) 宮城郡関係は・・・
名神大 鼻節神社 承和十一年(844)八月十七日 無位より従五位下、在花淵浜
名神大 志波彦神社 貞観元年(859)一月二十七日 正五位下勲四等、後、従四位下、在岩切邑
名神小 伊豆佐売神社 仁寿二年(852)八月一日 正五位下、在飯土井邑(利府)
名神小 多賀神社 郷説云二浮島神社一
「名神大」の神社は、神社の規模が備われば「国弊社」の社格があった。
『枕 草 子』
清少納言の第二二一段に、「社は布留の社、生田の社、竜田の社、はなふちの社、水分(みまくり)の社、杉の御社、験あらんことをかし」と書いてある。
布留の社=奈良県天理市の石上(いそのかみ)神宮がある
生田の社=兵庫県神戸市の生田神社
竜田の社=奈良県生駒郡の龍田神社
はなふちの社=宮城郡七ヶ浜町の鼻節神社
水分の社=奈良県吉野郡吉野町の吉野水分神社など・・・水の分配をつかさどる神。天水分神(あまのみくまりのかみ)と国水分神(くにのみくまりのかみ)があり、豊作の神として信仰された。
杉の御社=奈良県桜井市の三輪山 ・大神神社
『朝野群載』巻六
第七十三代堀河天皇の康和五年(1103)六月の条
「鼻節神社の社司等、神事に禍穢(かあい:けがれ・わざわい)あるにより祟り給ふ。 よって使者を遣はして中祓を科し祓い清め奉仕せしむべし。」と神祗官の奏言により、官主、従五位下少祐卜部宿禰兼良と、従五位権少副大中臣輔清の二人が下向下と書かれてある。つまり都より神官が下向して祓い清めた。以上、古記録に徴して見るに、鼻節神社が霊顕あらたかで、朝廷の尊信を受け、民間の信仰もいかに厚かったかを知ることができるのである。
『国府厨印』
明治のはじめ、鼻節神社修復の際、偶然に発見された一つの古銅印があった。
方一寸三分(約4cm)高円で暑さ三分(約1cm)重量三十五匁(約131g)つまみのところが尖って、下部は四角になっており、色は黒くや青味を帯びている。 印文は「国府厨印」書体は古雅(古くて上品)で由緒ありげなところから、神主の樋渡佐太夫がこれを保管していたが、明治十三年、時の郡長菅克復がこれを伝え聞きこれは珍しいものであるから、保護し後世に伝うべしと心づけ、なおこれの鑑定を、塩釜神社宮司遠藤信道に依頼した。信道はいろいろの文献を調べた結果、多賀城国府の厨印と断定した。
明治44年文学博士 大槻文彦も、同様に考証されている。
この印が鼻節神社にのこされた由緒については知るわけもないが、「律令式」の三十一に、「諸国の励貢御贄(おんにえ)(みつきもの・上に差し上げる品)陸奥国昆布」、また銅三十九に「内膳司年料陸奥国索昆布四十二斤、調 細昆布百二十斤、広昆布三十斤」とあって、陸奥励貢の御贄の一つは海産物の昆布であった。
昆布は、花淵浜の大根暗礁が南限であるから、多賀城以南からは産しないので、陸奥国の励貢の御贄としての昆布は、多賀の国府にほど近い花淵浜の昆布をあげることができる。
藩政時代にも、花淵浜から採れる昆布が世に最もよく知られていた。 寛政十一年(1799)藩士里見藤右衛門の著わした『封内土産考』にも、「宮城郡花淵浜昆布」と載せられている。
鼻節神社は、延喜式内名神大の神社で、祈年(豊年を神々に祈る)祈雨(雨乞い)など、国家の班幣(はんぺい:祈年祭時へいはくをおくられる)にあずかるほどの神社であったので、この印がこの神社に遺されたものかとおもわれる。
奈良時代から室町時代まで存続した多賀国府の遺物として、今に残されているものは、城址と土塁と古瓦と、この古銅印くらいのものではあるまいか。 この古銅印の一つにも、当時の鋳印技術や、字体の古雅な点、また律令等の制度制定など、史的感興を覚ゆるものである。
明治十四年八月、明治天皇第二次東北巡幸に際し、松平宮城県知事が内命を神主の樋渡佐太夫に伝え、叡覧に供され、また大正三年五月八日、神社宝物登録を請い許されている。
祭神 猿田彦命 (『日本総国風土記』は多力雄命(天の岩戸の有名なシーンですね。多力雄神(多力男尊)は岩戸の陰に隠れ立ち、少し開いた岩戸に手をかけて開け、天照大神の手を取って引き出します。)
しかし、この「日本総国風土記」は、近世初頭に古風土記を模造して作られた偽書とされる。
社殿
本殿 間口六尺八寸 奥行六尺 神明造り
拝殿 間口四間 奥行二間
長床 奥行六間 間口玄関造り袖付五間
神馬厩屋 間口五尺 奥行九尺
鳥居 表坂昇口、参道入口に石鳥居二基ある。
表坂 南西石階百三十七級 ←原本通り書きましたが、表参道の石段の段数でしょうか?
勧請 第六代孝安天皇の御代 保ヶ崎(穂ヶ崎または吼坊ヶ崎)に勧請という。
祭日 旧九月二十八日
境内 面積三町七反二畝五歩
社地 東西十五間 南北十七間
由 緒
当社の創祀の年代については、信じるに足りる記録はないが、花淵浜遠藤宗休の家に伝えられた「鼻節大明神の御縁起」によると、「大明神は道祖神と申す御神で、人皇第六代孝安天皇の御時、天よりここへ天降りたまひ御社始めほうが崎と申す山におはしまししが」に始まり、『日本総国風土記』『残篇風土記』等によると、第三十四代舒明天皇の二年(630)、「始めて圭田四十三束(約一丁歩)を奉り神事を行ふ」と記載され、また第四十九代光仁天皇の宝亀元年(770)「社殿度々潮風に侵され破損するを以て吼坊ヶ崎より垂水に遷し奉る」と「御縁起」に書かれている。
第五十四代仁明天皇の承和十一年(844)八月『続日本起』巻十四に「奉レ授ニ陸奥国無位勲九等刈田嶺神社無位鼻節神社並従五位下一縁レ有ニ霊験一也」とあり、第六十代醍醐天皇の延喜五年(905)に、全国に勅して神社を調査せしめられた。
青文字は由緒にあたる。
社敷場うあ祭田設置の祭田(まつりだ)は、年始節句等神事の田であったと思われる。正月田のほか、三月田・五月田その他四月田等もそれぞれ意義があり、これらの地名によっても、神社の盛大を偲ぶに足るものがある。 この地名は現在も確認できるのでgooglマップをご覧ください。
花淵浜の館主花淵紀伊も、代々大変鼻節神社を崇敬したようであるが、時移り代変わり、多賀の国府も有名無実となり、花淵紀伊も当地を去って以来神社は衰運をたどり、遂に鹽竈神社の末社となり、明治維新後、本社・末社の関係が断たれ、明治三年には神仏混淆(こんこう)が正され、神社の新しい制度によって、五年五月村社に列せられた。
七年、国幣中社志波彦神社を鹽竈神社に遷座、同年十二月鹽竈神社は国弊社に列格された。これについて十年三月二十一日内務省から、従前末社であった神社のうち、鹽竈神社と密接不離の関係にあった鼻節神社・冠川神社(仙台市岩切)・伊豆佐売神社が鹽竈神社摂社と定められた。
垂水(相沢吉三郎翁の話)
鼻節神社所在地垂水山は、神社裏の北斜面中断に、今なお二千年の昔から、連綿として清水が滴っている。そこが垂水である。
岐神(ふなどのかみ。猿田彦 塩土翁と異名同神)
岐神は、伊弉諾の子といわれ、尊が黄泉国から還御の後、禊祓いの時に投げた杖から化生した神で、の入り口などの分岐点に祀られたから、道路や旅行の神とされた。
道案内の神 道祖神で、それが海の道案内の神、舟戸の神でもある。
『田村麻呂三代記』
・・・・それより千熊は塩釜の大明神に参詣す。そもそもこの神社と申し奉るは、仲哀天皇第二の皇子、しさいあって陸奥国に下らせ給ひ、花淵の里と申す所に、竈を立てて塩を焼き、斑黄牛(まだらぎうし)につけ諸国を引かせ給ふに、塩焼の翁とも塩とめの皇子とも、塩土ほの尊ともまた猿田彦とも、道祖神とも舟戸の神とも申奉る云々
花淵浜表浜で製塩場址が発見されている。
クリックで大きくなります。
表参道側に回る
階段を上りきると・・・
八幡神社
祭神は応神天皇に源義家を合祀するところあり (八幡神社には源義家関係が多いですね。勝利祈願でしょうか?前九年の役や後三年の役などで東北には関係が深いですからね。)
三日月田稲荷神社
祭神は保食神 元花淵浜字三日月田鎮座 明治四十二年七月八日合祀
山神社
祭神は大山祗神 元花淵浜字山上鎮座 明治四十二年六月十四日合祀
神馬舎
以前の記事に正面の写真があります。
大根明神
位置 鼻節崎東海上七キロの沖合海底の岩礁
祭神 猿田彦命・大海津見神・住吉神という。
鼻節神社の奥院とも末社ともいわれ、また鹽竈神社の末社でもあった。
社殿 海底の火山岩窟で、西ノ宮・東ノ宮に分かれている。
祭日 旧六月一日
この日民危険を冒して海底にもぐり、社殿の附近から鮑を取り、その最大なものを供饌する のを例としている。
境内 大根岩礁堆で、南北二.五キロ、東西二.五キロ。 干潮面下浅い所で二.三メートルの深所にある。
接続する高根群礁等合算すると、その面積はほぼ七ヶ浜に匹敵する。
由来
鼻節神社はもとここにあったが、貞観(859-876)の大震嘯の時地盤が陥没し、垂水に遷宮したので、鼻節神社の奥の院であるとも言われている。 また、この地岩礁多く、常に逆浪立さわぎ航行が危険なので大海津見神と住吉神を祀り、航海の安全、海上祈護を守願するのである。鼻節神社の境内に仮宮二基(西ノ宮、東ノ宮)を設け、常の遙拝所(ようはいじょ)としている。
※遙拝所とは、遠く離れた所から神仏などをはるかに拝むために設けられた場所。
『奥州名勝図絵』
大根の神窟は高閣石門等備わらざるなく、常に蒼浪の静かな時でも、舟が近づこうとすると、逆浪が急に起こって船を転覆しようとするので、漁夫や舟子は、これを語り伝え聞き伝えてこの難所をさけ、ただ、遠く恐れ敬拝して航行するのである。いつの頃であったか、鮑採る漁夫が潜って宮殿に行って見ると、そのさまは楼閣の如く、窓や柱にいたるまで、珍しい貝や蛤などで飾られ、荘厳の限りをつくし、海藻は自然の色を以て色どり、底の砂は珊瑚を敷き詰めたようで、まるで常世の国竜宮とはこのようなところをいうのであろうと語ったという。
常にこの上を航行する船はいないが、たまたま思い誤ってここを通り、天気が良いので宮殿を見ようとすると、たちまち激浪が逆立ち舟を転覆しようとする。
なお、奏社宮祭事中に、大根明神について左の記事がある。
孟冬亥の日猪子神事 孟冬さひらぎ神事 同朔日布刈神事「この日に祝長祝舟を浮かべて大根祠に至り海帯(コンブ)及び鮑をを取りて備ふ
奏社宮=現在の総社宮(多賀城市市川)
この岩礁も一部でしょう。
以前UPした記事はこちらです。
鼻節神社 / 宮城県七ヶ浜町 1
鼻節神社/宮城県七ヶ浜町 2
アニメ 「かんなぎ」 と 「鼻節神社」/七ヶ浜町
以前にUP済みですが、再度七ヶ浜町史・塩釜市史・鹽竈神社・etc・・・などの資料から抜粋して記したいと思います。文面が重なりますがご了承ください。
古い文体で読みづらくまた、記録として書きましたので文章が長いです。ご了承ください。
まずは、鹽竈神社にチョット触れさせていただきます。
創設の時期については古来多くの説があり明確にするのは困難です。
古代の鹽竈神社及び塩竈の項で、陸奥の開発と神社から・・・
原住民たる所謂蝦夷も夫々その集団によって、崇拝の中心となっていたをもっていたと思われる。
「日本書紀」斉明天皇五年正月の阿倍比羅夫征伐の條に「卽似三船一隻與二五色綵帛一、祭二彼地一」とあるが、この地神というのが蝦夷の崇拝していた神である。
つまり、今は大和政権側が崇拝する神であるが、元々は蝦夷が崇拝していたである。
ということになる。それが「アラハバキ」とは言わないがそのような神であったことがわかる。
私のHPの「鹽竈神社」(しおがま様の不思議)に記載済みであるが、再度ここに記しておきたいのは、現在の鹽竈神社の祭神は、元禄六年(1693)仙台藩四代藩主の伊達綱村が各地の神社の祭神を調べさせ、縁起と祭神を決めたものです。
そのため、他のさまざまな祭神説は否定される結果になりました。
鹽竈神を經津主・武甕槌とみるようになってから、鹿島・香取の神が今迄蝦夷討伐にもっていた地位が、鹽竈神社に移って来たと思われる。
經津主・武甕槌は、鹽土翁が岐神であるから、両の教導の神という型で結びついたのである。
猿田彦即ち岐神と考えられた鼻節神社、岐神とされた志波彦神社、伊弉諾・伊弉冉神を祭神とした多賀神社等のこの地方の式内社が、それぞれ鹽竈神社の元の神であり、鹽竈神社がそこから移って来たというそれぞれの伝説をもっていることも、かかる鹽竈神社の性格と他の神社に比してこの神が勢威をもって来たことによるものであろう。
つまり、鹽竈神社の成り立ちにも、この鼻節神社が大きく関わっているようですね。
式内社は、古代ルート沿いに点在しているのは、東国開拓の歴史に関係があると推察できる。
陸奥国府のある多賀城は宮城郡に属しますが、この郡の式内社は・・・・
宮城郡四座 大社二座・小社二座
伊豆佐売神社 志波彦神社名神大社 鼻節神社名神大社 多賀神社 である。
鼻節神社の位置
塩釜港より南に突き出た七ヶ浜半島先端にある花淵浜明神崎で、高さ三十メートルほどの高さにあり、陸側から見れば小高い丘の上で海から見れば崖の上にある。
社殿のある崖の下には太平洋が広がり、打ち寄せる波の音を聞いていると、いにしえからの時間を感じます。
海側(表参道)からは、この細い道を渡ります。
石垣で組まれている道です。
本来の表参道は海からようです。舟で上陸したのが初めてとも言われています。
表参道の鳥居はこの「三角扁額」のついている鳥居です。
この「三角扁額」については個人的に調査しているもので、現在宮城県のみに見られるようですが、決定的な意味はまだ不明です。HPの「狛犬と神社仏閣」からその神社を見ることができます。
階段の石に割れが見えますが、東日本大震災の以前はありませんでした。
祭神は、岐神である猿田彦大神で、鼻節の神名は猿田彦大神の鼻が高く、鼻峰に節があったのによるという。
この理由については、同様の記述が『鹽社由来追考』・『鹽竈社神籍』・『鹽竈神社社誌』にも見られるからのようです。
花淵崎、東海上7キロほどの海中に東根、西根と呼ばれる大岩礁があり、ここに大根明神が祀られ、干潮の時には海底に石造の社殿、鳥居が見えると言われる。
この辺の海潮はつねに逆巻きで眼下には海藻が波間にゆれている。
鼻節神社の境内に東根明神、西根明神を祀る石の祠があり、祭礼の時にはこの大根の岩礁より採取された「アワビ」が神饌として献ぜられ、末社として扱われている。
※詳しくは記事の最後にあります。
当社は海上安全、航路の守り神として信仰され、仁明天皇の承和十一(844)年に従五位下を授けられ、塩竈の津に入る者には灯台の役割をしたのである。
鼻節神社の創建
鼻節神社は、第六代考安天皇の御代(前392~前291)に、岐(ふなどのかみ)として猿田彦命を花淵浜吼坊ヶ崎に勧請して、神社を創建した。
古記録によると(『日本総国風土記』・『大日本史』・『鹽竈神社略史』)によると、「第三十四代舒明天皇の二年(630)鼻節神社に始めて※圭田四十三束を奉り祭事を行う」とある。
※圭田(けいでん:それでまつりをせよと天子から神社にたまわる田)
また、「舒明天皇の御代は、三韓征伐の鴻業もすでに終わりを告げたり。されば先帝の遺業を継承し東夷を鎮撫し給はんと、よりて国土の経営に霊顕著しき神社に奉幣使を派遣し給う。」とあるように、この御代には全国的にを祭り、神階などが授けられている。
その例として、宮城郡内では「舒明天皇三年(631)七月、陸奥国宮城郡松島八幡神社に、同四年(632)七月、陸奥国宮城郡鹽竈神社に勅使下向、武運長久を祈らせ給ひたり。」と、『類聚国史』に見え、また、「第五十四代仁明天皇承和十一年(844)秋八月丁酉(ひのととり)←丁酉とあるがこの年は甲子きのえね、陸奥国無位勲九等刈田峰神社、無位鼻節神社に従五位下を授け奉る。 霊顕有るによって也」とある。
『延喜式神名帳』
第六十代醍醐天皇の延喜五年(905)に、全国の官社3,132座を列記し、官社帳ともいうべき『延喜式神名帳』が作られた。 それに列する神社は式内社と呼ばれ、社格を権威づけるものとなっている。
陸奥国百座(大社十五座、小社八十五座」) 宮城郡関係は・・・
名神大 鼻節神社 承和十一年(844)八月十七日 無位より従五位下、在花淵浜
名神大 志波彦神社 貞観元年(859)一月二十七日 正五位下勲四等、後、従四位下、在岩切邑
名神小 伊豆佐売神社 仁寿二年(852)八月一日 正五位下、在飯土井邑(利府)
名神小 多賀神社 郷説云二浮島神社一
「名神大」の神社は、神社の規模が備われば「国弊社」の社格があった。
『枕 草 子』
清少納言の第二二一段に、「社は布留の社、生田の社、竜田の社、はなふちの社、水分(みまくり)の社、杉の御社、験あらんことをかし」と書いてある。
布留の社=奈良県天理市の石上(いそのかみ)神宮がある
生田の社=兵庫県神戸市の生田神社
竜田の社=奈良県生駒郡の龍田神社
はなふちの社=宮城郡七ヶ浜町の鼻節神社
水分の社=奈良県吉野郡吉野町の吉野水分神社など・・・水の分配をつかさどる神。天水分神(あまのみくまりのかみ)と国水分神(くにのみくまりのかみ)があり、豊作の神として信仰された。
杉の御社=奈良県桜井市の三輪山 ・大神神社
『朝野群載』巻六
第七十三代堀河天皇の康和五年(1103)六月の条
「鼻節神社の社司等、神事に禍穢(かあい:けがれ・わざわい)あるにより祟り給ふ。 よって使者を遣はして中祓を科し祓い清め奉仕せしむべし。」と神祗官の奏言により、官主、従五位下少祐卜部宿禰兼良と、従五位権少副大中臣輔清の二人が下向下と書かれてある。つまり都より神官が下向して祓い清めた。以上、古記録に徴して見るに、鼻節神社が霊顕あらたかで、朝廷の尊信を受け、民間の信仰もいかに厚かったかを知ることができるのである。
『国府厨印』
明治のはじめ、鼻節神社修復の際、偶然に発見された一つの古銅印があった。
方一寸三分(約4cm)高円で暑さ三分(約1cm)重量三十五匁(約131g)つまみのところが尖って、下部は四角になっており、色は黒くや青味を帯びている。 印文は「国府厨印」書体は古雅(古くて上品)で由緒ありげなところから、神主の樋渡佐太夫がこれを保管していたが、明治十三年、時の郡長菅克復がこれを伝え聞きこれは珍しいものであるから、保護し後世に伝うべしと心づけ、なおこれの鑑定を、塩釜神社宮司遠藤信道に依頼した。信道はいろいろの文献を調べた結果、多賀城国府の厨印と断定した。
明治44年文学博士 大槻文彦も、同様に考証されている。
この印が鼻節神社にのこされた由緒については知るわけもないが、「律令式」の三十一に、「諸国の励貢御贄(おんにえ)(みつきもの・上に差し上げる品)陸奥国昆布」、また銅三十九に「内膳司年料陸奥国索昆布四十二斤、調 細昆布百二十斤、広昆布三十斤」とあって、陸奥励貢の御贄の一つは海産物の昆布であった。
昆布は、花淵浜の大根暗礁が南限であるから、多賀城以南からは産しないので、陸奥国の励貢の御贄としての昆布は、多賀の国府にほど近い花淵浜の昆布をあげることができる。
藩政時代にも、花淵浜から採れる昆布が世に最もよく知られていた。 寛政十一年(1799)藩士里見藤右衛門の著わした『封内土産考』にも、「宮城郡花淵浜昆布」と載せられている。
鼻節神社は、延喜式内名神大の神社で、祈年(豊年を神々に祈る)祈雨(雨乞い)など、国家の班幣(はんぺい:祈年祭時へいはくをおくられる)にあずかるほどの神社であったので、この印がこの神社に遺されたものかとおもわれる。
奈良時代から室町時代まで存続した多賀国府の遺物として、今に残されているものは、城址と土塁と古瓦と、この古銅印くらいのものではあるまいか。 この古銅印の一つにも、当時の鋳印技術や、字体の古雅な点、また律令等の制度制定など、史的感興を覚ゆるものである。
明治十四年八月、明治天皇第二次東北巡幸に際し、松平宮城県知事が内命を神主の樋渡佐太夫に伝え、叡覧に供され、また大正三年五月八日、神社宝物登録を請い許されている。
祭神 猿田彦命 (『日本総国風土記』は多力雄命(天の岩戸の有名なシーンですね。多力雄神(多力男尊)は岩戸の陰に隠れ立ち、少し開いた岩戸に手をかけて開け、天照大神の手を取って引き出します。)
しかし、この「日本総国風土記」は、近世初頭に古風土記を模造して作られた偽書とされる。
社殿
本殿 間口六尺八寸 奥行六尺 神明造り
拝殿 間口四間 奥行二間
長床 奥行六間 間口玄関造り袖付五間
神馬厩屋 間口五尺 奥行九尺
鳥居 表坂昇口、参道入口に石鳥居二基ある。
表坂 南西石階百三十七級 ←原本通り書きましたが、表参道の石段の段数でしょうか?
勧請 第六代孝安天皇の御代 保ヶ崎(穂ヶ崎または吼坊ヶ崎)に勧請という。
祭日 旧九月二十八日
境内 面積三町七反二畝五歩
社地 東西十五間 南北十七間
由 緒
当社の創祀の年代については、信じるに足りる記録はないが、花淵浜遠藤宗休の家に伝えられた「鼻節大明神の御縁起」によると、「大明神は道祖神と申す御神で、人皇第六代孝安天皇の御時、天よりここへ天降りたまひ御社始めほうが崎と申す山におはしまししが」に始まり、『日本総国風土記』『残篇風土記』等によると、第三十四代舒明天皇の二年(630)、「始めて圭田四十三束(約一丁歩)を奉り神事を行ふ」と記載され、また第四十九代光仁天皇の宝亀元年(770)「社殿度々潮風に侵され破損するを以て吼坊ヶ崎より垂水に遷し奉る」と「御縁起」に書かれている。
第五十四代仁明天皇の承和十一年(844)八月『続日本起』巻十四に「奉レ授ニ陸奥国無位勲九等刈田嶺神社無位鼻節神社並従五位下一縁レ有ニ霊験一也」とあり、第六十代醍醐天皇の延喜五年(905)に、全国に勅して神社を調査せしめられた。
青文字は由緒にあたる。
社敷場うあ祭田設置の祭田(まつりだ)は、年始節句等神事の田であったと思われる。正月田のほか、三月田・五月田その他四月田等もそれぞれ意義があり、これらの地名によっても、神社の盛大を偲ぶに足るものがある。 この地名は現在も確認できるのでgooglマップをご覧ください。
花淵浜の館主花淵紀伊も、代々大変鼻節神社を崇敬したようであるが、時移り代変わり、多賀の国府も有名無実となり、花淵紀伊も当地を去って以来神社は衰運をたどり、遂に鹽竈神社の末社となり、明治維新後、本社・末社の関係が断たれ、明治三年には神仏混淆(こんこう)が正され、神社の新しい制度によって、五年五月村社に列せられた。
七年、国幣中社志波彦神社を鹽竈神社に遷座、同年十二月鹽竈神社は国弊社に列格された。これについて十年三月二十一日内務省から、従前末社であった神社のうち、鹽竈神社と密接不離の関係にあった鼻節神社・冠川神社(仙台市岩切)・伊豆佐売神社が鹽竈神社摂社と定められた。
垂水(相沢吉三郎翁の話)
鼻節神社所在地垂水山は、神社裏の北斜面中断に、今なお二千年の昔から、連綿として清水が滴っている。そこが垂水である。
岐神(ふなどのかみ。猿田彦 塩土翁と異名同神)
岐神は、伊弉諾の子といわれ、尊が黄泉国から還御の後、禊祓いの時に投げた杖から化生した神で、の入り口などの分岐点に祀られたから、道路や旅行の神とされた。
道案内の神 道祖神で、それが海の道案内の神、舟戸の神でもある。
『田村麻呂三代記』
・・・・それより千熊は塩釜の大明神に参詣す。そもそもこの神社と申し奉るは、仲哀天皇第二の皇子、しさいあって陸奥国に下らせ給ひ、花淵の里と申す所に、竈を立てて塩を焼き、斑黄牛(まだらぎうし)につけ諸国を引かせ給ふに、塩焼の翁とも塩とめの皇子とも、塩土ほの尊ともまた猿田彦とも、道祖神とも舟戸の神とも申奉る云々
花淵浜表浜で製塩場址が発見されている。
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表参道側に回る
階段を上りきると・・・
八幡神社
祭神は応神天皇に源義家を合祀するところあり (八幡神社には源義家関係が多いですね。勝利祈願でしょうか?前九年の役や後三年の役などで東北には関係が深いですからね。)
三日月田稲荷神社
祭神は保食神 元花淵浜字三日月田鎮座 明治四十二年七月八日合祀
山神社
祭神は大山祗神 元花淵浜字山上鎮座 明治四十二年六月十四日合祀
神馬舎
以前の記事に正面の写真があります。
大根明神
位置 鼻節崎東海上七キロの沖合海底の岩礁
祭神 猿田彦命・大海津見神・住吉神という。
鼻節神社の奥院とも末社ともいわれ、また鹽竈神社の末社でもあった。
社殿 海底の火山岩窟で、西ノ宮・東ノ宮に分かれている。
祭日 旧六月一日
この日民危険を冒して海底にもぐり、社殿の附近から鮑を取り、その最大なものを供饌する のを例としている。
境内 大根岩礁堆で、南北二.五キロ、東西二.五キロ。 干潮面下浅い所で二.三メートルの深所にある。
接続する高根群礁等合算すると、その面積はほぼ七ヶ浜に匹敵する。
由来
鼻節神社はもとここにあったが、貞観(859-876)の大震嘯の時地盤が陥没し、垂水に遷宮したので、鼻節神社の奥の院であるとも言われている。 また、この地岩礁多く、常に逆浪立さわぎ航行が危険なので大海津見神と住吉神を祀り、航海の安全、海上祈護を守願するのである。鼻節神社の境内に仮宮二基(西ノ宮、東ノ宮)を設け、常の遙拝所(ようはいじょ)としている。
※遙拝所とは、遠く離れた所から神仏などをはるかに拝むために設けられた場所。
『奥州名勝図絵』
大根の神窟は高閣石門等備わらざるなく、常に蒼浪の静かな時でも、舟が近づこうとすると、逆浪が急に起こって船を転覆しようとするので、漁夫や舟子は、これを語り伝え聞き伝えてこの難所をさけ、ただ、遠く恐れ敬拝して航行するのである。いつの頃であったか、鮑採る漁夫が潜って宮殿に行って見ると、そのさまは楼閣の如く、窓や柱にいたるまで、珍しい貝や蛤などで飾られ、荘厳の限りをつくし、海藻は自然の色を以て色どり、底の砂は珊瑚を敷き詰めたようで、まるで常世の国竜宮とはこのようなところをいうのであろうと語ったという。
常にこの上を航行する船はいないが、たまたま思い誤ってここを通り、天気が良いので宮殿を見ようとすると、たちまち激浪が逆立ち舟を転覆しようとする。
なお、奏社宮祭事中に、大根明神について左の記事がある。
孟冬亥の日猪子神事 孟冬さひらぎ神事 同朔日布刈神事「この日に祝長祝舟を浮かべて大根祠に至り海帯(コンブ)及び鮑をを取りて備ふ
奏社宮=現在の総社宮(多賀城市市川)
この岩礁も一部でしょう。
以前UPした記事はこちらです。
鼻節神社 / 宮城県七ヶ浜町 1
鼻節神社/宮城県七ヶ浜町 2
アニメ 「かんなぎ」 と 「鼻節神社」/七ヶ浜町
本当に不思議な場所です。
僕は怖くてあの階段は今でも降りられません・・・。
ここは塩竃神社以上の霊場だったと思います。「か○なぎ」の作者が27歳の若さでくも膜下出血したのも祟りとしか思えません。
この神社は塩竃神社の様にしっかり祀らないと駄目だと思いますね。
清少納言の神社のセレクト実に興味深いですよね。清原氏とは対の方かな?深読みしますね。その中でも一番気になりますね。この神社があるから塩竈さんがあるときっても切れない関係のように思いました。皆様が階段で転んだりなんて怖いエピソードもありますね、猿田彦さんは足の神様としてわらじを祀ったりしている所も多いのに逆とは?もともとは道祖神でしたっけ?仲哀天皇の息子さんと関係ある?そこも今気になっているピンポイントでもあり時間をかけて拝見しましたよ。
地形的な視点も重要ですね、舟。アワビとこんぶも海神アイテム。松島には行って安いので小さめの船に乗りましたが石鑑賞と船酔いでみんな若干ブルーになった記憶があります。海水面の上下がその地形を作ってるのですね。
記事の中でまるで竜宮城を思わせるような伝説まで浦島太郎伝説とか竜宮城伝説ってないのですか?
いやはや凄い神社を知りました。地図を見て知識を深めてみようと思います。
大事な場所の見守りご苦労さまです。
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やっぱり何かありそうですね。
地図をみてびっくり御殿山ってありました。この山に神社ないんですかね?私は豊玉さんか田心さんがいないのか?疑問です。
また綱永井さんの縁がある金華山も海を渡れば最短で移動出来ますよ。三島という名前と恵比寿さんも関係していそうですね。くじらもですね。
鼻は花で節はなんだっけ?サクヤ姫と埴安姫という解釈もされてたりもするんですね。いい線ついてるように思います。
七ヶ浜で7に因む地で、そうそう縄文の貝塚遺跡があって名前の由来が榎の大木ってなんて説もあるみたいです。榎切って大丈夫だったなあ?と。榎って猿田彦とは縁もありますし、熊野とも。
そうそう一番興味深いのが竪穴住居に炉だか火を扱う所の形跡ありそうです。奈良の秋津にも通じないかなあ?と。今そんな妄想抱き始めましたよ。
そう円筒埴輪や銅の印も火を使わないと出来ない物。縄文時代に火で金属扱っていたらすごいですね。金華山は、金ですもんね。そうそうあと二つの印鑑は誰かきちんと保管していてそろそろ世に出してもらいたいですね。まさか金印じゃないですよねー?まあもう一つ日本のどこかにあるかもしれないというのも楽しみですが。8320
穢れ災いがあり、都から態々神官を呼んでお祓いしたことですね。本当にお祓いができたのかは不明ですからね。
確かにここも、伊豆佐売神社に近いものがあります。
基本的に一般の参拝者に会わないのです。
有名で格式もあるのに・・・・
神事は執り行われているのか心配ですね。
系列の宮司さんが来るのでしょうか?
総社宮の宮司さんにあったら聞いてみます。
塩釜というのも珍しいかもしれませんね。
異名同神も多いですし、解釈によってはいろいろ想像できますからね。それが面白いとも言えますが、私はワケわからん!です。
長崎県北松浦郡の福井洞穴遺跡から発見された土器で、マイナス1万2千年とカーボン検査で出てきているらしいメソポタミアより4千年も古い。しかしこれを書いた人は偽書t言われた本にも携わっているから何とも言えないが? しかし縄文時代は長く7千年位あります。後期には金属を扱っていたと想像できます。レベルは低いと思いますがね。
あのような印は古代中国からのものでしょう。今回のは大和政権から贈られたものでしょうね。
まぁ、竜宮は誰も行かないから言えたのか?本当にきらびやかなお宮さんが沈んでいるのか?は知りませんが竜宮伝説は聞いたことがありませんね。
桃太郎伝説はありましたけど。
過去記事ですが見たことありましたか?
http://blog.goo.ne.jp/hi-sann_001/e/a4dc89d8023b2d8fc92231e04a89a5ea
そんな伝承もあったのですか。考えていた以上に鼻節神社は大変な神社ですね。いやいやいやいや、ハァー驚きました。
最近知ったのですが、秩父にお手長様の祠や社が35社あるそうです。そしてお手長様は猿田彦尊、そして天忍穂耳尊であるそうです。そしてお手長とは従者を意味します。
そうなると塩竃神社では塩土老翁に協力した志波彦神がお手長様となるのでしょうか。多分、どちらも猿田彦尊なのではと思いますけど。
三韓征伐のお手長の幡から猿田彦尊は三光信仰の神と考えられます。鼻節神社の小さな祠の日と月も納得だと思えます。
ひーさんのブログから失礼します。
2012年に柚子房さんを鼻節神社に案内しました。多賀城と塩竃を案内するなら伊豆佐比売神社、あらはばき神社、そして鼻節神社は案内すべきだと思っておりました。
鼻節神社で表参道を通る人は滅多にいないと思います。帰りの参道なら直ぐ社につきますので。
あえて柚子房さんと表参道通りましたが、本来の表参道は海から繋がっていたのが良く判ります。そして松島が地盤沈下により出来た事も。
松島が出来たのですから、日本で一番地震の影響がある場所と言っても過言じゃないです。そして鹿島神は地震の神。鹿島の地主神は志波彦神である阿須波神。関連あると思います。