堰上明神社(せきがみみょうじんしゃ)
黒川郡大和町にあります。
大和町には吉岡地区があり最近では「殿利息でござる」の映画がありました。 あれは実話ですね。
その前にも映画がこの地で撮影されました。島田飴まつり/吉岡八幡神社 この記事の最後に触れています。
タイトルは「独眼龍花嫁道中」といいます。 ちょっと脱線しましたね。本題に戻ります。
先日の鶴ヶ峰八幡宮の帰り道畑の中に小さな社を見つけました。
立ち寄らないと後悔すると思い、車をバックさせ覗いてきました。
説明版を読みチョット驚きましたが、江戸時代にはよくある話しです。
橋姫明神と広瀬橋(永町橋)と仙台市電この記事も人柱になった娘の話しです。
お城も建築などの無事を祈って人柱を行ったと聞きます。
しかし、惨いものだと、可哀想になってきます。
向かって右側の説明板です。
由 緒
堰神明神社(堰上明神社の間違いかも) その由緒について、安永三年九月(1774)風土記御用書上の資料として肝入
常吉が古老の云い伝えを記録した所をもって社祀の由緒とする。
川野上
一、堰上明神社(長四尺・横三尺)地主 川野上屋敷九助
別当妙覚院 祭日 三月廾日、八月廾日
一、右明神の儀、往古堰下し申し所に堰これ有り候所、首の様に度々押切られる仕末に付いて人柱を立てゝより
久しく別条なかった。 ところがある時大水があって一切押し流されて此所之上ったので年寄等が云ふには
人柱を立て明神として祀って来たと云われているから流れ付いた此の地を卜し社を建立して堰神明神として祭った。
堰上明神
吉田村吉田清水に堰上明神 社殿東向?
云ふ往古関下に用水堰あり 大水必ず決壊す
議して人柱を立つ、後久しく患いなし
曾て洪水あり堰潰れて人骨岸に上がる
古老曰く
人柱の骨なり 以って社を祭るべしと
乃ち一を建て之を賽す
称して 堰上明神と云ふ
黒川郡誌より
旧六ヶ村(今村、高田村、舞野村、蒜袋村、大衡村、吉田村)が
吉田川より取水する大堰の築堤は伊達宗清の吉岡築城に伴う新田開発の時代と考察されている。
現在地に設けられる以前は下流の吉田子籠釣に旧堰があったとされ 今も関の上、関の下、
関下川原の地名が残っている。
当時は人力による築堤だったことから大水の度に決壊にさらされるなど想像を絶する労苦が伴ったに
違いない。
後に永い年月をかけ隧道を掘り寛永年間、現在地に堰を移したとされ往時、新田開発と堰や水路
づくりを通じ米づくりにかけた祖先の尊い知恵と努力の上に現在の恵まれた利水環境と豊穣の実りが
あることを忘れてはならない。
平成二十年清水地区民と大堰組合の協力のもと境内整備と社殿さや堂を建設した。
その落成に寄せて 清水公民館
つまり、昔、洪水で用水堰が壊れた時に川岸に人骨が上がった。
人々はこれを堰の決壊対策のために立てた人柱のものと考え、ここに社を建てて祀ったと伝えている。
地図の左上(北西)の方に関下・関上・関下川原などの地名が見える
黒川郡大和町にあります。
大和町には吉岡地区があり最近では「殿利息でござる」の映画がありました。 あれは実話ですね。
その前にも映画がこの地で撮影されました。島田飴まつり/吉岡八幡神社 この記事の最後に触れています。
タイトルは「独眼龍花嫁道中」といいます。 ちょっと脱線しましたね。本題に戻ります。
先日の鶴ヶ峰八幡宮の帰り道畑の中に小さな社を見つけました。
立ち寄らないと後悔すると思い、車をバックさせ覗いてきました。
説明版を読みチョット驚きましたが、江戸時代にはよくある話しです。
橋姫明神と広瀬橋(永町橋)と仙台市電この記事も人柱になった娘の話しです。
お城も建築などの無事を祈って人柱を行ったと聞きます。
しかし、惨いものだと、可哀想になってきます。
向かって右側の説明板です。
由 緒
堰神明神社(堰上明神社の間違いかも) その由緒について、安永三年九月(1774)風土記御用書上の資料として肝入
常吉が古老の云い伝えを記録した所をもって社祀の由緒とする。
川野上
一、堰上明神社(長四尺・横三尺)地主 川野上屋敷九助
別当妙覚院 祭日 三月廾日、八月廾日
一、右明神の儀、往古堰下し申し所に堰これ有り候所、首の様に度々押切られる仕末に付いて人柱を立てゝより
久しく別条なかった。 ところがある時大水があって一切押し流されて此所之上ったので年寄等が云ふには
人柱を立て明神として祀って来たと云われているから流れ付いた此の地を卜し社を建立して堰神明神として祭った。
堰上明神
吉田村吉田清水に堰上明神 社殿東向?
云ふ往古関下に用水堰あり 大水必ず決壊す
議して人柱を立つ、後久しく患いなし
曾て洪水あり堰潰れて人骨岸に上がる
古老曰く
人柱の骨なり 以って社を祭るべしと
乃ち一を建て之を賽す
称して 堰上明神と云ふ
黒川郡誌より
旧六ヶ村(今村、高田村、舞野村、蒜袋村、大衡村、吉田村)が
吉田川より取水する大堰の築堤は伊達宗清の吉岡築城に伴う新田開発の時代と考察されている。
現在地に設けられる以前は下流の吉田子籠釣に旧堰があったとされ 今も関の上、関の下、
関下川原の地名が残っている。
当時は人力による築堤だったことから大水の度に決壊にさらされるなど想像を絶する労苦が伴ったに
違いない。
後に永い年月をかけ隧道を掘り寛永年間、現在地に堰を移したとされ往時、新田開発と堰や水路
づくりを通じ米づくりにかけた祖先の尊い知恵と努力の上に現在の恵まれた利水環境と豊穣の実りが
あることを忘れてはならない。
平成二十年清水地区民と大堰組合の協力のもと境内整備と社殿さや堂を建設した。
その落成に寄せて 清水公民館
つまり、昔、洪水で用水堰が壊れた時に川岸に人骨が上がった。
人々はこれを堰の決壊対策のために立てた人柱のものと考え、ここに社を建てて祀ったと伝えている。
地図の左上(北西)の方に関下・関上・関下川原などの地名が見える
この丹後沢も丹後と言う95歳の老人が人柱になり、堀の決壊を防いだとの話が伝わっています。
平城は幕末の戦争で消失しましたが、10万石としてはかなりの規模のお城だったようです。
生け贄の文化はアンデスにもあったようですね。そうだ、早く行かないと、仙台市博物館。
人柱は歴史の中でも男性が古く感じてましてそのあと女性が多くなりこちらでは男性で高齢なのかなぁ?
そうなんですよ、アンデスあっちの方もそうなんですよね。
今回ランキングの馬、後藤黒でたどってこちらに来たんですけど大和と吉岡って文字に出会う事が増えているのでそちらも気になっていますね。
お馬さんを代わりにという場所もありますけど、どういう信仰がありその結果今こうなっていると理解出来たらいいなあと思います。結果怖い事はしないでも良いってなると嬉しいですけどね。
人間二つの事を一度に選べないので選んで失敗したらもう一回が正しいと思って凹みますけど、どちらにしても同じだったという事もあるのでは?とも思います。
ただそこに辿り着きまでは、いい意味での緊張はずっとあるはずなので緊張しながら今後に良い方法を探したいですね。
なんの為に伝説があるか?伝説言えども真剣に考えてみたいですね。
冷静に考えられる時代で良かったです。
祀った神社も落ちた場所も知っていましたが、今見つかったのですか?もう骨でしょうね。亡くなった利用は過去に記事にしています。
人柱ですが、広瀬川の氾濫でやはり娘が人柱になった記事があります。
https://blog.goo.ne.jp/hi-sann_001/e/6e2ea10e32ec6c2b90ffa6ca4ca512bc
後藤黒の記事はこちらです
https://blog.goo.ne.jp/hi-sann_001/e/c2df723ab28508fd5e6159aeb32d9850