鶴ヶ峯八幡宮
鶴ケ峯八幡宮
鎮座地:宮城県黒川郡大和町宮床字赤坂73
祭 神:應神天皇 神功皇后 玉依姫
当社は、寛文3年古縁起等を焼失したので創祀年代は不明。或は推古天皇6年と記し、一(市)宮波神、賀茂三社を合祭すという(観聞志、名跡志)又、別当正善院清範はこの賀茂明神社を式内須伎神社であると伝えているという。
宝永元年8月25日藩主伊達吉村(獅山公、この人は宮床領主田手氏の出である)社参の節、一ノ宮の社号が、鹽竈大社と紛らはしいというので宮中と改めた。
(同上)享保15年八幡宮を新造した際、これを本体としたので賀茂神をはじめ鴇田伊豆国種(宇和多手城主)の建てたという諏訪と、稲荷、愛宕、白山社を末社とした。
宝永元年10月獅山公は三貫文を社領に、正徳4年五百文を別当領に寄進した。
忠宗・吉村ら藩主並びに領主田手氏の参詣納物、社殿の修営、祭事の興行が絶えず行われた。
<案内板>
古来八幡宮があった。
長徳元年(九九五年)に宮内少輔が 京都の賀茂明神の御幣を申し下して鶴ケ峯に勧請して、宮中 大明神として祀った。
鴇田淡路実清が斯波宮内大輔氏直(黒川氏)の家臣となり、信州より諏訪明神を勧請して、宮中八幡に祀った。
諏訪明神に神剣の怒撃丸(正和四年一三一五年備前景光作)を鴇田氏が奉納した。
元和七年(一六二一年)二月、伊達政宗が社参した。
宝永元年(一七〇四年)八月、五代藩主の吉村が社参した。
同年十月、社領三十石の地を伊達吉村が寄付した。
享保十五年(一七三〇年)藩主吉村が八幡宮を造営した。その後たびたび吉村の社参があった。
延享元年(一七四四年)六月、六代藩主の伊達宗村が社参。
安永三年(一七七四年)七月
鶴峯八幡宮 長 九尺三寸
横 九尺
拝殿 長 一丈二尺六寸
横 九尺四寸五分
長床 長 七間
横 二間半
別当 羽黒派当村修験鶴峯山正善院
社殿は、明治九年の山火事で焼失した。
鳥居横に並ぶ
この光景はなんと言えませんね。
この杉の幹はなぜ膨らんで波を打っているのでしょう??
明治九年に焼失した社殿ですが、狛犬は当時のままのようです。
最近は、記事の中で狛犬に触れずにいました。前回の熊野大社の狛犬もオリジナリティの高い狛犬でした。
ここも古社に多い小さいけれどオリジナル的な狛犬ですね。四角い目は榴ヶ岡天満宮の狛犬に似ています。
巻き毛は顎にしか見れませんね。 非常に人間ポイ顔だちです。
なぜか腕時計が・・?
日露戦争に出征した軍人の名前が記載されていますね。
諏訪神社
伊達氏の前の領主であった鴇田国種(黒川氏の家臣)が信州の諏訪神社を勧請してこの地に祀った。
伊達吉村が社領三十石を寄進、明治維新に至り没収。
明治九年社殿焼失御鶴ヶ峰八幡社に合祀した。祭神は大国主命の子である建御名方命である。
左は、馬頭観音(観音菩薩の化身)だろうか?
右側は石に彫られていました。原添聖観音菩薩
想像だが、普賢菩薩に似ている。
石仏は、全くわからずこれを機会に、石仏の世界にも足を踏み込んでしまいそう。
私の脳みそのメモリーはすでに満杯でもうデータは端から消えていってます。
PCには外付けハードディスクが3台ありますが、私の脳はオーバーヒートです。無理無理無理
西側は稲荷のようです。
これ狐? 巻き毛があるので狛犬ですね?
下りの階段はかなり危険です。
七ツ森観光協会の文字が案内版にありましたが、もう少し手入れすべきだと思います。
神様が怒ってましたよ。怒ってるというより悲しんでいます。
鶴ヶ峯八幡宮 黒川郡大和町
鶴ケ峯八幡宮
鎮座地:宮城県黒川郡大和町宮床字赤坂73
祭 神:應神天皇 神功皇后 玉依姫
当社は、寛文3年古縁起等を焼失したので創祀年代は不明。或は推古天皇6年と記し、一(市)宮波神、賀茂三社を合祭すという(観聞志、名跡志)又、別当正善院清範はこの賀茂明神社を式内須伎神社であると伝えているという。
宝永元年8月25日藩主伊達吉村(獅山公、この人は宮床領主田手氏の出である)社参の節、一ノ宮の社号が、鹽竈大社と紛らはしいというので宮中と改めた。
(同上)享保15年八幡宮を新造した際、これを本体としたので賀茂神をはじめ鴇田伊豆国種(宇和多手城主)の建てたという諏訪と、稲荷、愛宕、白山社を末社とした。
宝永元年10月獅山公は三貫文を社領に、正徳4年五百文を別当領に寄進した。
忠宗・吉村ら藩主並びに領主田手氏の参詣納物、社殿の修営、祭事の興行が絶えず行われた。
<案内板>
古来八幡宮があった。
長徳元年(九九五年)に宮内少輔が 京都の賀茂明神の御幣を申し下して鶴ケ峯に勧請して、宮中 大明神として祀った。
鴇田淡路実清が斯波宮内大輔氏直(黒川氏)の家臣となり、信州より諏訪明神を勧請して、宮中八幡に祀った。
諏訪明神に神剣の怒撃丸(正和四年一三一五年備前景光作)を鴇田氏が奉納した。
元和七年(一六二一年)二月、伊達政宗が社参した。
宝永元年(一七〇四年)八月、五代藩主の吉村が社参した。
同年十月、社領三十石の地を伊達吉村が寄付した。
享保十五年(一七三〇年)藩主吉村が八幡宮を造営した。その後たびたび吉村の社参があった。
延享元年(一七四四年)六月、六代藩主の伊達宗村が社参。
安永三年(一七七四年)七月
鶴峯八幡宮 長 九尺三寸
横 九尺
拝殿 長 一丈二尺六寸
横 九尺四寸五分
長床 長 七間
横 二間半
別当 羽黒派当村修験鶴峯山正善院
社殿は、明治九年の山火事で焼失した。
鳥居横に並ぶ
この光景はなんと言えませんね。
この杉の幹はなぜ膨らんで波を打っているのでしょう??
明治九年に焼失した社殿ですが、狛犬は当時のままのようです。
最近は、記事の中で狛犬に触れずにいました。前回の熊野大社の狛犬もオリジナリティの高い狛犬でした。
ここも古社に多い小さいけれどオリジナル的な狛犬ですね。四角い目は榴ヶ岡天満宮の狛犬に似ています。
巻き毛は顎にしか見れませんね。 非常に人間ポイ顔だちです。
なぜか腕時計が・・?
日露戦争に出征した軍人の名前が記載されていますね。
諏訪神社
伊達氏の前の領主であった鴇田国種(黒川氏の家臣)が信州の諏訪神社を勧請してこの地に祀った。
伊達吉村が社領三十石を寄進、明治維新に至り没収。
明治九年社殿焼失御鶴ヶ峰八幡社に合祀した。祭神は大国主命の子である建御名方命である。
左は、馬頭観音(観音菩薩の化身)だろうか?
右側は石に彫られていました。原添聖観音菩薩
想像だが、普賢菩薩に似ている。
石仏は、全くわからずこれを機会に、石仏の世界にも足を踏み込んでしまいそう。
私の脳みそのメモリーはすでに満杯でもうデータは端から消えていってます。
PCには外付けハードディスクが3台ありますが、私の脳はオーバーヒートです。無理無理無理
西側は稲荷のようです。
これ狐? 巻き毛があるので狛犬ですね?
下りの階段はかなり危険です。
七ツ森観光協会の文字が案内版にありましたが、もう少し手入れすべきだと思います。
神様が怒ってましたよ。怒ってるというより悲しんでいます。
鶴ヶ峯八幡宮 黒川郡大和町
石仏などは思わずぐいっと引き込まれてしまいます。
脳みそのオーバーヒート.....
そういえば私も何年か前に「鉄知識」がオーバーヒートしてました。
路線とか駅とか車両とか、それも英国や独逸の知識までも...
でも息子たちに「まかせた」もんだから、どんどん知識が消えていきました....
特に自分は、中途半端なことばかりですから。
鉄は、被写体として好きですね~ 撮り鉄まではいきませんが、職場には乗り鉄もいますね。
自分はやはり半端です。
一度行って見たいと思うのですが、不思議に八幡神社は足を運ぶか機会が少ないです。
動画も本当に行った時の目線でドキドキしましたよ。大抵地方の気になる神社に行く時は一人で上がるんで日光あたりでは相当怖い思いしたもんですから事前にどんな感じかが分かると行きやすいです。石仏さん達もかなり揃ってますよね。賀茂さん絡みが明確ですし、熊野大社さんともなんか一緒に出てきたのが文字だけに思えずです。手作り感って想いも感じますよね。
それから地図見たんですけど4号の近くで高速で一度通っていると思うと超嬉しいです。また地図の地名が楢原とか大和とかどうも奈良との縁も感じるんですよね。かなり古くに何かここにやってきた方がいるように思うんですよね。応神天皇だったらかなり面白いですよ。
地図上で知らない天皇のお名前の地名が出たんですよ。あれも気になります。応神さんは時代がかなりズレているように思う方でもありますのでpパズルはめ込みたいですよ。本物の八幡って東北にいたか来たか?
熊野大社での舞も気になってまして稚児舞だっけ?それも気になってますよ。因幡(鳥取)の気配もしますし、そうそう富が付く地名もありましたよね。
ここ私も行きたいです。
動画でこうして残して頂けた事で今後もこの地が大事に思う方が増えるといいですね。人間の愛情いっぱい感じる神社ってあまりないですよね。それから下りの足元映像撮ってくれてありがたいです。足のコンディションも完璧で下りにも注意して行くようにいたしますので。
なんだこのワクワク感。映像も記事もひーさんだからですから間違いないですよね。
道沿いの鳥居から少し奥に入りますが、映像が無いのは、作業中のトラックがあって絵にならないので撮影しませんでした。
これだけの石仏や携わった伊達家のことを考えると立派な神社だったと思います。古くから祀られているのにもったいないですね。
静かな神社でした。周りは民家があまりないので、参拝しずらいのかも知れません。
誰もいませんしね。
チョット残念です。