伊達政宗 幻の百万石お墨付きとは?
1598年豊臣秀吉の死後、天下の声望は五大老の一人家康に帰し、実権を握りつつあった五奉行の一人三成らは家康を除こうとし、五大老の一人・上杉景勝が会津若松に挙兵するのです。
天下分け目の戦いが始まろうとしていた、慶長5年(1600年)徳川家康(東軍)と石田三成(西軍)が美濃関ヶ原で争った関ヶ原の戦いだ。
7月政宗は、家康の意向に沿って、会津若松に留まって家康の従わなかった上杉景勝を牽制するために、帰国し北目城に居た。
北目城=現在の仙台市太白区郡山4丁目/国道4号線鹿又交差点西側)
7月24日、政宗は上杉景勝の所領刈田郡白石城を攻撃し激しい抵抗もなく降伏させ開城しました。
8月上旬、家康から手紙がきました。
「上洛するので、宇都宮の秀忠には、佐竹と談合させて白河口へ向かわせます。落ち度が無いように」
佐竹公はこの時点で、常陸(水戸)です。関ヶ原の戦い以後、秋田にお国替えとなります。
脱線しますが、角館の武家屋敷辺りは、「佐竹北家」と言いますが、秋田の東側にあるのに何故北家か?と聞かれることがあります。
これは常陸の国に居た頃の呼び名が、そのまま秋田に移っても使われていたからです。
と次の指示が来ました。ところが佐竹義宣は、家康からの人質提供を断り、景勝の重臣である、直江兼続に徳川との断絶を伝えたのです。
この佐竹と上杉の同盟は意外と家康を脅かすのです。
家康は、慎重を期して江戸から全国の諸大名に手紙を書き多数派工作を行います。
その数は150通のもおよぶそうです。
家康は政宗を惹きつけておくためにお墨付きを与えました。
その文面は以下の通りです。
覚
一、苅田 一、伊達 一、信夫
一、二本松 一、塩松 一、田村
一、長井
右七ヶ所 御本領之事候間
御家老衆中へ為可被宛行進之候仍如件
慶長五年八月廿二日 家康(花押)
大崎少将殿 (伊達政宗)
この七ヶ所(陸奥六郡 出羽1郡=陸奥は、現在の宮城県白石市及び福島県内 出羽は山形県長井市)の石高は次の通りです。
苅 田 三万八千六百四十六石三斗六升
伊 達 六万九千六百四十六石6升
信 夫 五万三千百九十四石五斗2升
二本松 三万三千四百六十五石九斗四升
塩 松 三万五千二百五十二石八斗八升
田 村 八万七千六百八十二石八斗七升
長 井 十七万七千九百三十三石七斗六升
合 計 四百十九万五千八百二十二石九斗三升
この合計知行高に当時の政宗の所領58万石を加えると100万石を超えることになります。
その為に「百万石のお墨付」と呼ばれたわけです。
それでは、何故「幻」になってしまったのでしょう。
関ヶ原の戦い後政宗は、この約束の実現を徳川家康に迫ったが実際に与えられたのは刈田郡だけだったのです。
そこには、こんな理由があったのです。
かつて盛岡領に領地を持っていた和賀忠親は、機会があれば取り戻したいと考えていました。
当時の領主南部利直は上杉軍の攻撃に苦しんでいた山形の最上義光を助けに行き、領地を留守にしていたのです。
和賀忠親はチャンス到来と一揆を起こしたのです。
この動きを知った政宗は胆沢郡水沢城主白石宗直に支援を命じました。
しかし、この一揆は南部利直の手によって鎮圧され、これを知った家康もこの事実を重く見て「百万石のお墨付」は完全に実現しなかったのです。
頼山陽の「日本外史」には、このお墨付は、彦根藩主井伊直孝の手により政宗の面前で焼かれたことになってますが、仙台市博物館に現存しています。
1598年豊臣秀吉の死後、天下の声望は五大老の一人家康に帰し、実権を握りつつあった五奉行の一人三成らは家康を除こうとし、五大老の一人・上杉景勝が会津若松に挙兵するのです。
天下分け目の戦いが始まろうとしていた、慶長5年(1600年)徳川家康(東軍)と石田三成(西軍)が美濃関ヶ原で争った関ヶ原の戦いだ。
7月政宗は、家康の意向に沿って、会津若松に留まって家康の従わなかった上杉景勝を牽制するために、帰国し北目城に居た。
北目城=現在の仙台市太白区郡山4丁目/国道4号線鹿又交差点西側)
7月24日、政宗は上杉景勝の所領刈田郡白石城を攻撃し激しい抵抗もなく降伏させ開城しました。
8月上旬、家康から手紙がきました。
「上洛するので、宇都宮の秀忠には、佐竹と談合させて白河口へ向かわせます。落ち度が無いように」
佐竹公はこの時点で、常陸(水戸)です。関ヶ原の戦い以後、秋田にお国替えとなります。
脱線しますが、角館の武家屋敷辺りは、「佐竹北家」と言いますが、秋田の東側にあるのに何故北家か?と聞かれることがあります。
これは常陸の国に居た頃の呼び名が、そのまま秋田に移っても使われていたからです。
と次の指示が来ました。ところが佐竹義宣は、家康からの人質提供を断り、景勝の重臣である、直江兼続に徳川との断絶を伝えたのです。
この佐竹と上杉の同盟は意外と家康を脅かすのです。
家康は、慎重を期して江戸から全国の諸大名に手紙を書き多数派工作を行います。
その数は150通のもおよぶそうです。
家康は政宗を惹きつけておくためにお墨付きを与えました。
その文面は以下の通りです。
覚
一、苅田 一、伊達 一、信夫
一、二本松 一、塩松 一、田村
一、長井
右七ヶ所 御本領之事候間
御家老衆中へ為可被宛行進之候仍如件
慶長五年八月廿二日 家康(花押)
大崎少将殿 (伊達政宗)
この七ヶ所(陸奥六郡 出羽1郡=陸奥は、現在の宮城県白石市及び福島県内 出羽は山形県長井市)の石高は次の通りです。
苅 田 三万八千六百四十六石三斗六升
伊 達 六万九千六百四十六石6升
信 夫 五万三千百九十四石五斗2升
二本松 三万三千四百六十五石九斗四升
塩 松 三万五千二百五十二石八斗八升
田 村 八万七千六百八十二石八斗七升
長 井 十七万七千九百三十三石七斗六升
合 計 四百十九万五千八百二十二石九斗三升
この合計知行高に当時の政宗の所領58万石を加えると100万石を超えることになります。
その為に「百万石のお墨付」と呼ばれたわけです。
それでは、何故「幻」になってしまったのでしょう。
関ヶ原の戦い後政宗は、この約束の実現を徳川家康に迫ったが実際に与えられたのは刈田郡だけだったのです。
そこには、こんな理由があったのです。
かつて盛岡領に領地を持っていた和賀忠親は、機会があれば取り戻したいと考えていました。
当時の領主南部利直は上杉軍の攻撃に苦しんでいた山形の最上義光を助けに行き、領地を留守にしていたのです。
和賀忠親はチャンス到来と一揆を起こしたのです。
この動きを知った政宗は胆沢郡水沢城主白石宗直に支援を命じました。
しかし、この一揆は南部利直の手によって鎮圧され、これを知った家康もこの事実を重く見て「百万石のお墨付」は完全に実現しなかったのです。
頼山陽の「日本外史」には、このお墨付は、彦根藩主井伊直孝の手により政宗の面前で焼かれたことになってますが、仙台市博物館に現存しています。
焼かれたのは写しだったのかもしれませんね。
家康は狸ですから、伊達家が力をつけ過ぎることを恐れての難癖でしょう。
しかし、くれないなら、自分達で作ってしまおうと、新田開発を行い、伊達家は自力で実質の実入りを大きくしたとか聞いています。
家康は何かと金を使わせたようですね。
石高も実質百万とも言われてますね。
私の考えでは、広い田園を持つ地域では、土地の広さをごまかしていた百姓もいたようです。
例えば、山の裏手に田んぼがあっても、役人は遠くまで行きたく無いので口頭で聞くだけだったのかも知れません。
いかに~
先を読むか
今でも一緒ですね
でも
やはり目先にいっちゃうからなぁ (^_-)~☆
あ~あ、(T_T) 身動き取れません。(T_T)
明日出直します~
伊達正宗と上杉家と徳川家康って・・
伊達正宗って何処の藩主?
兜が黒光りしているね
少し怖いっていうか・・迫力がありますね
先の事はわかりませんからね。
ありがとうございます。
仙台市博物館に行って何を見てたのでしょう・・・
徳川家康や伊達正宗は、現在の政治家にたとえると誰になるかしらね~
あれではまるで「トリックスター」です。
徳川が上杉と実際に戦闘に入った場合、佐竹の参戦は当然でしょう。
でも、まことしやかにささやかれていたのは、伊達の上杉方への参陣です。
この3家が同盟すれば、石高や動員兵力は、徳川と互角となります。
政宗も相当に迷っていたのではないかと指摘する歴史家もおります。
天下は「力ずく」でしか奪えないものだと、戦国武将は誰しも思っていましたから。
それゆえ、お墨付きは、政宗本人も初めから信用していなかったようです。
白石や和賀での行動が証明しております。
徳川の世が安定し、新田開発で実石高が大幅に増大する一方、伊達家の動員兵力は、全国大名中最大の兵力を保っておりました。
「いつかは俺が」生涯の政宗の思いでした。
この写真。ダースベイダーの原型だとの話も出てますよね・・・