塩竈マリンゲートの横から湾内を眺めた
築港には倉庫が並ぶ・・・
撮影場所には、こんな建物がありましたね。
観光汽船や湾内の島々から学校に通っていた友人もいました。
浦戸寒風沢や浦戸桂島そして野々島・・・彼らは、最終の船に間に合わなければ自宅に帰れません。 それを理由に帰らないで遊んでいた奴も・・・苗字は、内海さんとか多いですね。
寒風沢(さぶさわ)には、伝説のお地蔵さんがいます。
なかなか行けずにいました。来春にでも
昭和33年
昭和22年
アメリカ兵がボートを見ています。
対岸のクレーンは、造船所のようです。
もう一度現在の様子・・・塩釜市場です。
アップ!
それでは、塩釜仲卸市場に行ってみます。
築港には倉庫が並ぶ・・・
撮影場所には、こんな建物がありましたね。
観光汽船や湾内の島々から学校に通っていた友人もいました。
浦戸寒風沢や浦戸桂島そして野々島・・・彼らは、最終の船に間に合わなければ自宅に帰れません。 それを理由に帰らないで遊んでいた奴も・・・苗字は、内海さんとか多いですね。
寒風沢(さぶさわ)には、伝説のお地蔵さんがいます。
なかなか行けずにいました。来春にでも
昭和33年
昭和22年
アメリカ兵がボートを見ています。
対岸のクレーンは、造船所のようです。
もう一度現在の様子・・・塩釜市場です。
アップ!
それでは、塩釜仲卸市場に行ってみます。
この年になると寒風はきついです。
鹽竈神社も花が咲くころに行って見ますかね。
調査の結果楽しみにしています。
長らく区長(自治会長)を勤めていた親父には息子たちは到底かないません。
晩年は母親のこともあり苦労しっぱなしだった親父。
私が東京に出ず残っておればと、すまなくて悔しくて、ひーさんのおっしゃる通りです。
マリンゲートからは港の風景とカモメの乱舞を、寒風に震えながらずっと眺めていました。
久方ぶりに塩釜神社へも昇ってきました。何年もの間帰省しても余裕がなかったんですね...
そうそう仁和多利神社の現地調査も怠りませんでしたよ....
また今日から気合を入れてがんばっぺし!
そこだったら、自分の父の葬儀と同じ場所だと思います。
親父は今年の元旦に亡くなりました。
自分は逆で嫁も私が泣いて挨拶もできないのでは?と心配していましたが、そうでもなかったのです。
まぁ。あまり昔のことは思い出さないようにしていたのは事実ですがね。思い出すとやはり涙が出てきます。
自分が涙しなかった理由はたぶん、手をかけたからではないかと思います。 痴呆とともにデイサービスそして何度も入院、施設を探して入所・・・とんでもなく手がかかりました。自分の中では自分が出来る限りのことはした。という思いからなのではと自己分析しています。
クロンシュタットさんの場合は、離れていてそばに居なかったという点で後悔もあったのではないでしょうか?
その他にも理由はあると思いますが・・・
母の兄弟はすべて亡くなりました。
寂しいと思います。
ボケないようにと頑張ってますよ。
今日は天気はいいのですが寒いです。
風邪などひかぬように。
笠神から45号線に降りた交差点の葬儀場でした。
親不孝者の自分があれほど泣けるのかと、絶句です。
母は認知症でケア付きホームに震災前からおります。
随分前から、息子も嫁も孫も、わかりません。
その間、母が一番気にしていた弟(私の叔父)と、
親父の葬儀が続きました。
認知症に付け込まれた母は、
親父がやっとこさ貯めた老後の全財産を、
一切合切だまし取られました。
こんな話、ひーさんごめんなさい。
マリンゲートの屋上、行きたくなるよね......
今日はどんより曇って雨が降りそうですね。
もしかして、先日からずっと思っていたのですが、奥様か誰か、お亡くなりになりましたか?
違っていたらごめんなさい。
もし私がそうだったら同じような行動をしそうです。
土日に帰省するもんで、晩飯の買い出しついでに、
またマリンゲートの屋上に昇ってきます。
明日の午後に、怪しげなオヤジが酔っぱらって港を見つめていたら、
木綿のハンカチーフでも渡してやって下さい.....
亡くしていくもの
消えていくものばかり
あらがっていけるものは
おのれの生きざまと家族のみ
私が住む街には、進駐軍のアパートやプールそして体育館みたいなものもありました。
子供の頃、探検と称して、廃墟になった豪邸に行った記憶があります。
と申しますのは~当時わたしは6才
近所に神戸オリエンタルホテルに
関係している方がいらして~
アメリカ兵からチョコレートやパンを
貰った記憶があるのです~
いつか~神戸の写真調べてみたいです
康平年間に生まれたとすれば、955歳だよ!
それでも子孫を作ってるからすごい!
ホントはひーさんの同級生じゃなかったりして
町じたいが、坂の多い町だし、田畑にはむかないですね。
実はおいらの祖母もリヤカーで今の仙台新港あたりから、多賀城や塩竃に野菜などを売りに来ていたそうです。
とみぎとか菜っ葉とか袋詰めおでってしたおん
どの辺でやってたんだべ?
いや、あなたは1300歳でアテルイの子孫だべ。塩釜港でクジラ捕ってだわけでねぇべね。
それともこの進駐軍の中にいたか?
もっとも、スピードは速いもんの旧式で砲の貫通力が小さいんで、
終戦の頃には前線配備から外されたはずだね・・・
対ソ前線なんかには新型でもっと砲のデカイのを投入したんで
占領軍の哨戒用に配備されたんだろうなぁ~
この辺り、写真の20年後ごろまで海水もきれいで
岸から底まで4mは見透せたのを憶えてるよ、
石垣にハゼだのガザミだのへばりついてんの見えだものぉ~
進駐軍の住んでたアパートはしばらく残ってました。
でも、進駐軍を生で見ることはありませんでしたから、不思議な感じですね。
江戸時代にカラーのカメラがあったらすごいですね。
やはり明治になってから、白黒の写真が出てきますね。
丁髷姿の写真が本に載ってますが、いずれUPします。
進駐軍なんて、遠い昔のことのように思っていても、カラー写真で見ると、すごく生々しく感じます。
汽車や船や市場が少年の心を高ぶらせたのですね。 おかげで高い志を抱いたのでしょう。
私は、さも無い住宅の中で、毎日砂押川を眺めてました。
小さい時は母に手を引いてもらい塩竃に行ったのです。小学校も中学校も多賀城でした。
だから一万トン岸壁や模型を買いに塩竃に行くときは、自転車でしたね。
商船大や防衛大などを考えることがすごいですよね。
自分は何も考えずに育ったものですから、今になって苦労してますよ。www
鹽竃神社を参拝しながら、是非どうぞ・・
あの辺の造船所も頑張ってますね~
この不景気・・いやズート不景気ですね。
シャーマン・・模型で造りましたかね~?
戦車の安い模型はすぐベルトが外れたものです。
ベルトも組み立てるやつもありました。
でもこの型式かは覚えていません。
今と昔を比較するシリーズなんですが、こんな写真しか見つかりませんでした。
風邪治りましたか?
俺もはぜ釣りに行きましたよ。
あそこの岸壁から釣り糸たれて・・・
「一万トン岸壁」とよく言ってました。
展望台は行った事がありません。
親戚の同級生は、東北造船に勤めましたが、業績悪化で、希望退職させられたようです。
怖い怖い。
確かにそうですね。話によると、白河の関を基点に日本を南北に分けようと言う話もあったそうですよ。
すると今頃は、東北と北海道は、北側の共産国になっていたでしょう。
怖い話です。
魚市場が対岸に行ってしまって、あそこは暫く漁船の繋留岸壁になってましたね。繋いである漁船には、よく遊びに行ったものです。今でこそ語学教師をやってますが、子供の頃の夢は海兵に入って駆逐艦乗りになるか(「防大に進んで護衛艦に」というよりはどうしても・・・)、商船大に入って外国航路の一等航海士になることでした。
チリ地震津波の前の遊覧船の発着所の写真は初めて見ました。手前に米兵が写ってる港の写真、牽き舟が黒煙濛々という所に時代が感じられますね。
そう、当時の塩竈は港に鉄道が通っていたんですよね。子供の頃はよく親父にせがんで汽車や船を実に連れて行ってもらいました。何を隠しませう。小生、片仮名の読み方は車輌の記号で、漢字の読み方は船の名前で覚えたのです。
酔漢さんにメールをもらってパソコンを開きましたが、ワム貨車の奥に写ってるのは、間違いありません。M4シャーマンです。ありゃりゃ、もっと手前の黒いコートにオリーブ色のスカートの御婦人、右手を高々とかざしてます。まさか、アレやってる訳じゃないでしょうが・・・
東北ドックですが、一万トンクラスの造船能力があるんですよね。小学校の頃、船の進水をみたことがあります。もちろん対岸から。武蔵の進水じゃないけど、あの時はこちら側の岸壁の空気抜きの穴が一つ残らず噴水になりましたよ。
Mein lieber Kronstadt!ドックの隣の造船所というのは、もしかして山○さんの所ですか?
ひーさんのブログには、酔漢さんに教えてもらってお邪魔するようになりました。もう四十年以上も塩竈に住んでて、知らないことがいっぱいあるんだということに気づかされました。
ひーさん、これからもよろしくお願いします。
皆さん、佳いお年をお迎えください!!!
昔の写真が次~登場しますので・・・
知らない場所であっても、懐かしく見ています。
塩竃マリーンゲートには3年くらい行ってない
ので、海を見にいきたくなりました。
次回も楽しみにしています。
市場は開設当時「東洋一」を謳っていました。我ら小学生は、「じゃあ東洋二ってどごなのっしゃ」と考え込んでしまいました。父親が定年退職後の第二の職場として、展望台の途中のフロアに勤めておりました。かなりの確率で、酔漢さん一家と接近遭遇しておりました。
マリンゲートが出来たときに、日本一の生産量を誇る塩竃の練り製品において、AとYとTが三大事業所でした。私の仲人(生涯たった一度の仲人をして下さいました)のTさんも廃業してしまいました。Yの兄弟経営者も亡くなったと聞いております。Aだけは元気のようですが、社長は三小の友人でした。
酔漢さん丹治さん。岸壁を走行するのはM4シャーマンでは?ティーゲルとかは詳しいんですが・・・
母は当時の「東北ドック」に努めておりまして今のマッドハウス代表丸山正雄さんのお母様と一緒だったところです。市場の展望台は、父に連れられて良く行きました。レストランがあったのですよ。カレーライスが美味しかったのを覚えております。
「ソ連貨物船が来た」で語りました築港の倉庫が写っております。
このあたりでも「悪さ?」をしていた酔漢でございました。
次回は仲卸市場ですね。
得意分野です!(っていいのかなぁ・・)
日本が2つにならなくてヨカッタ・・・
なまなましい写真ですね
まだ~アメリカでよかった (^_-)-☆
または、ちょっとしたパンフから見つけたり、それなりに、努力してます。
色んな資料が溜まって来て整理しなとわからなくなりそうです。